2021年01月30日

『物語の近代』その喚起力

 兵藤裕己『物語の近代−王朝から帝国へ』(岩波書店、2020年10月)を読んだ。自分が書かねばならない「作者」に関する論文に、ヒントを与えてくれそうなので読んでみたのだが、果たして得るとこががありすぎで、私にとってはよくぞこのタイミングで刊行してくださいました!と感謝を捧げたい本だった。なにより、この本の凄いところは、その喚起力である。本書のいたるところに出てくるのは、語りの「声」であるが、読み進めていて驚いたのは、私の記憶の中に埋もれていた様々な「声」が、生々しく甦ってきたことだ。何十年も前に見た(聴いた)木下順二『子午線の祀り』の、役者たちの群読の交響、早世してしまった後輩が「飯倉さん、この音はすごいですよ」と聴かせてくれた僧たちの「声明」の音源、さらには子どもの頃によくきいた、竿竹売りのよく通る声やらが・・・。もちろん、それだけではない。文学研究への根源的疑問や、物語たちへのゆかしさや、あれを読まなきゃという焦りや、いままで思いもしなかった読みの閃きなどが、次々に襲ってくるのだ。これは尋常な読み物ではない。論文集ではない。著者の語りが私の停滞した知に響き、私がいつのまにか語りはじめているという、希有の感覚をもたらしている。つまりこれは、物語なのではないか。
 私たちは、玉上琢弥の「物語音読論」の発想や、前田愛の「音読から黙読へ」の議論を知っているから、前近代の読み物が、多くは声に出して読まれたことを知っている(黙読は「見る」「看る」などとしばしば言われる)のだが、実際にそれを読むときは近代小説を読む作法で読み、分析し、いくつもの書かれたテキストから、その起源のテキスト(原本)を幻視し、それを書いた「作者」を探し、絶対的なテキスト(証本)を求め、「作者」の意図や構想を論じて、したり顔している。そういう態度を嗤うように、本書は物語における作者と読者という区別を疑い、「作者」独自のことばよりも、物語の公共的で超越的なことばが物語の意味生成の場となっていることを論じ、声やパフォーマンスの意味を、それこそ憑かれたように(というのは私の主観だが)語り続ける。もともと本書は、いくつかの既出論文が基になっているが、語り下ろしの1冊としての世界を作っている。
 何が論じられているかをここで書くのは野暮だろう。共同主観、柳田国男批判、ハーンと漱石、泉鏡花の文体、作者の観念と正典の成立・・・と断片的なことばを鏤めるにとどめておく。もちろん平家物語を論じるくだりは本書の中のハイライトのひとつだ。「声と知の往還」を読んでいるときの私の頭には火花が散っていた。
 近代・前近代の文学研究者必読だし、歴史研究者にも是非読んでいただきたい。歴史とは何かという問いも、本書は喚起するのだ。
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