2021年02月06日

『虚学のすすめ』は虚学居直り論ではない。

 大阪大学文学部の一般入試倍率が3.0で昨年度の2.9を上回っている。阪大の全学部の中で倍率トップである。他の国立大でも文学部は受験者を結構集めている傾向にあるようだ。不景気で国立志向というのもあるが、「社会の役に立たない」「就職には不利」というイメージの文学部が、他学部より相対的に「安定」しているのは皮肉である。数字はたとえばこちらをご参照いただきたい。もちろんこれはコロナ禍と無関係ではあるまい。安定と思われていた大企業がまさかの危機に直面しているのを、受験世代はリアルタイムで見た。この先どうなるのか、どうすればいいのか。それを根本的に考えることのできる学部は、やはり文学部・・・。たとえば金水敏元文学部長のあの送辞を思い出した人もいるかもしれない。人生の岐路に立ったときに文学部の学びが意味を持つというあのメッセージが与えた影響があったのではないかと。これはポジショントークではなく、真面目に考えるべき現象だろう。
 そもそも「虚学」といわれる文学部の学びについては、このブログでも度々書いてきた。「何の役に立つんだ」と揶揄され続けながら、「虚学」であることにむしろ胸を張る文学部側のありがちな主張に対して、あえて文学部の学びは役に立つ「実学」であることを私は主張してきた。文学部は官僚を育てるべきだとも言ってきた。「虚学」に開き直るのは文学部縮小論者にとって都合のいいことではないか、そういう形の主張は内輪むけではないかという思いが、このところずっとあった。
 そういう時に、白石良夫さんから『虚学のすすめ』(文学通信、2021年2月)を贈っていただいた。このタイトルからして、私が「虚学居直り論」と目している論陣をはった本ではないかというイメージがわくだろう。事実その冒頭は「虚学の論理」である。実はこの「虚学の論理」、私は初出の1997年に読んで感銘を受けたエッセイだ。たった一人の受講生と、彼に対してあたかも大人数講義のごとき講義をするインド哲学の教授の姿を垣間見たときの感慨を印象的に綴っていて、忘れられなかった。受講生が〇人以上いないと授業は不成立というような大学もある中、あるべき大学の姿として白石さんはこの情景を私に焼き付けたのである。それから私はこの文章をずっと読んでいなかった。私の中では、たった一人のためであれ、それが社会に役に立たないと言われる虚学であれ、真理を求める学生がいる以上、膨大な図書と知識と方法を授けるその分野の専任教員が確保できているのが大学、という論というイメージが刷り込まれていた。私自身が、この虚学の論理を駆使して、いろんなところで受け売りをしていたように思う。
 しかし近年の文学部不要論は、20年前、30年前の文学部不要論とは違い、本気でつぶしにかかってくるような勢いである。私は白石さんの「虚学の論理」では弱いと考えるようになった。文学部の学びは役に立つ、実学だという主張とその理論武装を志すようになった。
 今回、そういう批判の対象のつもりでこの本を披き、「虚学の論理」を再読した。そうすると違った。白石さんは虚学に「」をつけて「虚学」と書いていた。つまり、「学問=すぐに役に立つもの」と考える人々がイメージする学問、いわゆる虚学、の意味である。しかし、すぐに役に立つためには、すぐに役には立たない学問・研究が必要である。これは当たり前すぎる話である。すぐには役には立たないけれど、それがなければ、すぐに役に立つ知識も考え方も成り立たない。つまりなんのことはない、文学部の学びは結局「実学」だ、と白石さんは言っていたのである。それが今回再読して確認できた(白石さんは、飯倉、違う、違うんだと言うかも知れないが)。
 それにしても、次のエッセイ(これは未発表原稿ゆえ、私も読んだことがなかった)を読むと、この「虚学の論理」に対して、「よくぞ言ってくれた」的反応が数件あったが、いずれも理系基礎学の研究者からだったそうだ。たしかに基礎学と応用学という考え方でいけば、この論理は文理を分けない。いや理系こそがより深刻である。この本では、過去のロシアや中国で、基礎学を追放しようとした動きがあったことを記すが、近年の日本の動きをみているとその愚を繰り返そうとしているのか、と心配にもなる。だが、ここ二十年の文学部縮小論の中でも、やはり文学部で学びたい人たちは一定数必ずいるという事実がある。文学部の学びは過去との対話、「死者との対話」(塩村耕さん)である。しかし何のためにそれを学ぶかといえば、今のため、そして未来のためである。未来のため、ということを授業の最初の1コマで言いませんか?いやその必要はないのかもしれない。きちんと学べばそれはわかるから。でも言う人もやはり必要かな。もちろん、古文と漢文(前近代のテキスト)の研究は、基礎学中の基礎学である。
 白石良夫さんは母校の先輩である。近世文学専攻で私が大学院に入った時、同じ専攻の先輩の院生が大学院にいなかった。近くの大学に講師として勤務していたのが白石さんだったので、私にとっては兄のような存在といえる。白石さんは学問を開くために多くの著書を書いてこられた。達意の文章である。敬服している。根っこは文学青年である。その青さがやはり魅力なのだ。
 
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