2021年04月01日

東アジア・はじめに交流ありき

『東アジア文化講座』という全4巻のシリーズが一挙に刊行された。第1巻は染谷智幸編『はじめに交流ありき 東アジアの文学と異文化交流』(文学通信、2021年3月)である。
 さて「東アジア」。欧米を中心とする日本研究が、「東アジア」の枠組でなされていることを、日本古典文学研究者の多くは認識していないかもしれない。しかしここ数年、海外の研究者と交流をもつことが出来、海外学会で発表もさせていただいた私の貧しい経験によっても、「東アジア」的視点が標準だということは強く実感される。たとえば、日本研究をしている海外の彼らは、英語と日本語はもちろん、中国語と韓国語も流暢に話す人が少なくない。東アジアでワンセットなのである。
 当然のことだが、中古文学とか、近世文学などという「専門」は、日本にしかない、と言ってよい。よほどの論文・著書でないかぎり翻訳は出ないから、海外の人の目に触れることはない(もっとも紀要とかだと日本人研究者の目にもなかなか触れない)。昔はそれでよかった。尊敬する研究者に読んでもらうつもりで論文を書くというのが、我々が教えられた姿勢である。しかし、今の学生にそのように指導してよいかどうかは疑問だ。
 「日本文学研究は世界的にも日本語論文が最もレベルが高く、海外でも優れた日本研究者は当然日本語で論文を書いており、また書くべきだ」と思っている人がいたとしたら、残念ながら、現状はそうではないと言わざるをえない。英語や中国語や韓国語でも優れた日本研究があり、翻訳がなければ我々はそれを知ることができない。しかし、世界の「東アジア」研究者は、英語も中国語も韓国語も日本語も読み書きしながら、日本文学研究を位置づけている。
 とはいえ、長く日本語だけの世界で研究を見てきた日本文学研究者にとって、この現実はあまり見たくない現実である。しかし、時代別・ジャンル別学会がそれぞれの領域で権威化している日本文学研究の世界は、このままでは衰退の一途を辿るばかりである。しかし、私を含め、中国語・韓国語のできない日本文学研究者は、どうすればいいかわからないでいるというのが現状ではないか。いや、そもそも「東アジア」視点の文学研究とはどういうものかがわからない、のではないか?
 そういう時に、本企画は、とりあえずは、日本文学研究者が自身の立ち位置を、東アジアという視座から確認することができるという点で、非常にありがたいものだ。第1巻では小峯和明氏が、「影響」でも「比較」でもなく「共有」という視点を解説している。これはとても腑に落ちる。また、染谷さんの、「文化があってそれから交流」ではなく、「はじめに交流ありき」だというのも流石の発想だと感じ入った。
 こうして並べられた論文を見ていると、なるほど「交流」には、このような問題系が存在するのかと感心する。そして、たとえ日本語でも、東アジア視点の考察は可能だということも見えてくる。
 もっとも、「東アジア」が万能であるわけではない、ということも敢えて付言しておこう。「東アジア文化」というものを相対化する視点もありうるだろう。そういう議論がむしろ大事ではないか。しかし、少なくとも「東アジア」視点という大きな研究潮流があるということだけは認識しておかなければならないだろう。あらためてこのシリーズについてはこのブログで触れることにする。
posted by 忘却散人 | Comment(3) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
拙編を取り上げてくださり有難うございました。東アジアに向けてのご懸念、よく分かります。ただ、方向がちょっと違うのではないかと率直に思いました。
まず、ご承知のように、私は韓国語が少しできます。が、中国語やベトナム語はからっきしダメですし、英語もひどいものです。そして、その似非韓国語だけで東アジアへ乗り込むほど無鉄砲ではありません。そんな私でも東アジアを考えたいという気にさせるのは、やはりそこに漢字漢文があるからです。
東アジア古典文学・文化のOSは漢文です。その上に仮名やハングルやベトナムのチュノムやクオック・グー(國語)というアプリが乗る。よって、欧米で東アジアを研究する場合、現代中国語や日本語・韓国語ができても、漢文が読めないと研究はできないと思います。ハルオ・シラネさんも、昨今のアメリカでの東アジア古典研究は、漢字漢文に狙いを定めるようになったとお話されていました。むろん、その漢文も私はちゃんと勉強してこなかったので、かなりいい加減なものですが、それでも、欧米系の方たちよりは遥かに身近なものです。
日本の古典研究者の多くはある程度漢文が読めると思います。それを深化させれば良いわけで、小峯さんはよく、自分の武器はそこだと話をされます。
この漢字漢文と東アジアについては金文京さんを中心に多くの学者が、本講座の第2巻で全方位的に考察されています。東アジア全体を捉える試みは、歴史学等ではすでになされていますが、文学では無く、その中でも、この第2巻の考察は全く新しいものだと思います。そうした2巻はもちろん、4巻全体を多くの方々に読んでいただければと思います。
Posted by 染谷智幸 at 2021年04月02日 00:17
染谷さん、コメントありがとうございます。
「東アジア古典文学・文化のOSは漢文です。その上に仮名やハングルやベトナムのチュノムやクオック・グー(國語)というアプリが乗る。よって、欧米で東アジアを研究する場合、現代中国語や日本語・韓国語ができても、漢文が読めないと研究はできないと思います。」
なるほど、わかりやすい喩え!OSは漢文と考えれば、ぐっと近づきます。論文を読んだり研究交流するためには、英語や中国語・韓国語が必要でしょうけど、肝心の資料は漢文を読めれば参入できるということですね。ご教示まことにありがとうございます。金文京さんの新書は読んでいたのですが・・・。ちょっと悲観的になりすぎでいました。第2巻さっそく手配します。
Posted by at 2021年04月03日 10:29
「日本近世文学の研究者で、近世を「近代初期」(アーリーモダン)と称した人は、これまでいなかった」。確かに、それほど居たとは私も思わないのですが、拙論「日本「文」学に近世化をもたらしたもの−経済の与えた影響を中心に」(河野貴美子他篇『日本「文」学史(第三巻)−「文」から「文学」へ―東アジアの文学を見直す』勉誠出版、2019年)にそうした視点から少し書きました。これは、オレも書いとるよ、ということではなくて、大切で面白い問題なので、いずれ関心をお持ちの方々と議論してみたいなぁと。そんな気持ちから、ちょっと割り込んだ次第です。で実は、中嶋さんのご高論、まだ読んでないので、これもいずれ近いうちに拝読して、中嶋さんに直接感想などをお話ししても良いかと考えているところです(WEB日韓古典研究会でお会いしますので)。江戸は近代、は歴史学者からよく聞く話ですが、文学でも大いに議論したいところです。ちなみに、江戸初期が近代というのは、そのまま中世末ということと矛盾しません。閑山子さんのお話も、ぜひ拝聴したいです。
Posted by 獄雨(染谷智幸の俳号です) at 2021年07月31日 01:25
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。