2021年09月06日

コロナとコロリ

 日比嘉高氏編『疫病と日本文学』(三弥井書店、2021年7月)は、名古屋大学国語国文学会のシンポジウム企画「疫病と日本文学」を元に、同会メンバーが論考をさらに寄せて成った論文集である。国文学研究資料館前館長のロバート・キャンベルさん編『日本文学と感染症』(角川ソフィア文庫、2021年3月)という国文研スタッフ中心で編まれた文庫オリジナル論文集もあった。この2年、急速に文学研究が「病」と向き合った。人間が過去、病にどう向き合ったのか、を知るには、記録(日記)と文学作品を読むことである。これまで日本文学研究は、「病」というテーマで縦断的に議論したことはあまりなかったわけだが、よく考えると、病は生きている者が、ほぼ必ず遭遇するものだ。それもほとんどの場合前触れもなく、急速に。自分だけではなく、家族や恋人の病も同じである。作者自身が病に苦しんでいる場合も少なくないし、医者の立場から書いているものもある。ちなみに上田秋成は、一生病に苦しみつづけ、病を描き、そして病を治療する医者でもあった。私は6月に、機会を得てその話をしたが、その時の講座のテーマも「病との対峙」だった。
 人にとって病は外から来るのか、中から生じるのか、というのも考えれば考えるほど謎である。新型コロナのような感染症は「外から」ウィルスが入ってくるのものだが、それを恐れる心、感染者への差別、病の拡散で起こる社会不安は、外から来るものとは言えない。過去の人間の心の動きを研究する学問ともいえる日本文学研究は、今こそ「病」と向き合う時を迎えているのである。
 さて、前置きが長くなったが、この本の編者の「はじめに」の最初に紹介されているのが、幕末のコレラの話を書き付けた見聞記録。本書の執筆者のひとり塩村耕さんが、例によって西尾市岩瀬文庫から見つけ出してきた珍書奇書のひとつ、『後昔安全録』である。タイトルは「コロナとコロリ」。コロリはコレラのことである。塩村さんはこの記録を「ルポルタージュ文学」と呼ぶ。おそらくほぼ虚構はない。しかしまぎれもなく「文学」なのだ。まさに、抜き書きされたところを少し読むだけで、十分にその呼び方がふさわしいことがわかる。塩村さんは、急遽大学の授業のテキストをこの本に代えて学生とともに読んだらしいが、古人を身近に感じることのできる絶好のタイミングでの予定変更だっただろう。学生はここから何を感じ取ったのか、それも聴いてみたい。さてこの本の著者は号「真木廼屋」ということしかわからないのだが、塩村さんは記録からわかる事実を手がかりに、どこの誰が作者なのかを特定していく。この考証の過程、事実が少しずつ埋められて、ジグソーパズルのように一人の人物が浮かび上がっていく叙述は、いつもながらエクセレントである。
 それにしても名古屋大学国語国文学会の取り組みは素晴らしい。毎回持ち回りでテーマ設定をし、シンポジウムを企画するのだという。さらに多くの論考を会員からあつめ、短期間で刊行するチームワークに感心した。今回は、現在の同僚である尹芷汐さんもコラムを寄稿している。
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