昨日オンラインで行われた第3回コテキリの会(古典教材の未来を切り拓く!研究会)には160名近くの方々が参加して盛況だった。現役の教員の方が多かったと思うが、発表はもちろん、質疑応答やグーグルフォームに寄せられた多数のコメントから、国語教員の皆さんの熱意を強く感じた。その概要は、コテキリの会代表の山田和人さんのまとめが委細を尽くしているので、そちらをご参照いただきたい。
私なりの感想をここでは述べてゆく。正直、レベルの高さに驚いた。みなさんまぎれもないプロフェッショナルで、何度も唸った。ここでは仲島ひとみさんの基調講演にふれる。タイトルは「本当に必要なのかと言わせない古典」。「本当に必要なの?」と問うのは現役高校生という想定の講演と拝聴した。彼らにそれを言わせないためにはどうしたらいいのか。まず古典を教える/学ぶ意義として、コンテンツ・リテラシー・アイデンティティの3要素があり、それぞに肯定的立場、否定的立場があることを整理された。もっとも重要なのはリテラシーであるというご意見だと理解した。これは私も同意見である。「必要」「役に立つ」の観点から言えば、コンテンツもアイデンティティも客観的指標になりにくい。そしてなぜ「古典は本当に必要か?」と問われるのかといえば、「役に立つ」とも「面白い」とも実感できないからとされ、前者は外発的、後者は内発的な問題と整理された。これもその通りだと納得した。講演、そしてそのあとの3つの実践報告でも、内発的な問題について主に報告・提案・議論されていたように思う。仲島さんは、どんな授業がいいのかという問いに対して、3つの心理的ニーズを満たすことだという。ひとつは「できる」感。ひとつは自分で決める(選ぶ)という動機付け。ひとつは誰かと繋がるという関係性である。提案された具体的方法は、
〇助動詞などの活用表を参照しながら読むことでハードルを下げる。
〇本物(原本・くずし字)をみる。(解読のためのアプリも利用)
〇読みやすいものを読む。(むしろ近い時代から)
〇全文音読チャレンジ
〇翻訳・翻案チャレンジ
〇「推し」をつくる。推し作品、推し作者、推し歌人、推しキャラ、推し単語、推し助動詞・・・
非常に理論的で説得力のある講演であった。
第二部、三宅宏幸さんは授業に使えるデータベース。淡々と、でもとてもわかりやすく、具体的な実践例を示しながらの解説だった。
第三部は、こてとも意見交換会「古典をトモダチにするには?」と題して、有田祐輔さん、岩崎彩香さん、江口啓子さんの現役教員の報告と、同志社大学でくずし字を教えるプロジェクト授業を履修している学生さんの発表であった。どういう学生を対象に、何を目的に授業をデザインするか、そのきめ細かさをみなさんお持ちであった。オタク語りを自称する江口さんの「面白さ」を伝えるんじゃなくて、「面白いと思う人がいる」ことを伝える。「好きなことを隠さない」という金言?が印象に残った。
それにしてもコロナのために、ICT授業技術が一気に進んだ。古典的な黒板授業は、方法のひとつとしてはもちろん残るが、ベースではもはやないのだと実感する。我々が習った古典の授業とはまったく違う授業が、そこには展開されていたのである。
今回はどちらかというと、「古典に親しむ」また「古典は面白い」ことを伝える工夫についての議論だった。現役高校生は、嫌いであろうが、面白くなかろうが、授業で実際に読んでいる人たちである。まずは彼らが、「読むのは楽しい」と思うのが第1歩である。そういう意味で、このような草の根運動は重要だし、ネットを活用して、徐々にでも広げて行けたら、コテキリの会の目標のひとつはかなえられることになる。古典の授業について語り合うプラットフォームとしての役割をコテキリの会が提供するという形が、今回かなり明瞭になってきたのではないか。
もちろん、課題は残る。私は会のあとで、発表者の皆さんに意地悪な質問をした。「生徒は古典が好きになってよく勉強するようになった。ところが、その親御さんが保護者面談で、『子どもにはもっと英語など受験や将来に大事な科目を勉強してほしいのに、古典ばっかりやっているようです。先生、楽しいだけで今の社会に役に立たない古典ってそんなに勉強する必要ありますか?』と突っ込まれたら、どう回答しますか?と。これは「こてほん論争」に戻ってしまう論点でもあるのだが、あとでフォームに寄せられた中にも、いくつか同様のことを書き込んている意見があった。この点は、高校の先生ではなく、むしろ大学教員が考えていかねばならない課題なのであろう。
2021年09月13日
この記事へのコメント
コメントを書く