木越治さんが亡くなって3年半がたつ。しかし、木越さんの存在感は薄れないどころか、ますます大きくなっているのではないか。
「木越治さんをしのぶ」と最初投稿に題したが、実際は「木越治さんから鼓舞される」2冊の本だったので、そう書きかえた。
期せずしてか、期してか、私は知らないが、ほぼ同時期に、木越治さんの遺稿をベースにした本が2冊出たのである。
到着順に紹介する。まず木越俊介・丸井貴史編『ひとまずこれにて読み終わり』(2021年10月、文化資源社)。木越秀子さんと俊介さんからお送りいただいた。
瀟洒な文庫本のスタイルで、木越さんの多くのエッセイから編者が選び抜いたものだ。どれを読んでも木越さんらしく、文学と映画と音楽と人への愛情が感じられる。私だけかもしれないが、木越さんの文章、とくに常体の文章で「と思う」という言い方がよく出てくるように感じられる。これは感じられるだけかもしれない。ただ、この「と思う」というところに、木越さんの思いが非常に率直に語られている気がしている。「と思う」なんて、誰でも使うだろう、と言われそうだが、木越さんの「と思う」は何か強い。
そして木越さんのエッセイに感じられるのは若さである。膨大な読書量をほこるのに、衒学的なところがなく、いつも好奇心旺盛であり、若者に対して同じ目線で語るところがある。若者に対する敬意があり、「今の若い者は」的発想がない。それがすごいな、と思う。
そして今日届いたのが木越治・丸井貴史編『読まなければなにもはじまらない』(文学通信、2021年11月)。木越さんが書こうとして残された原稿の続きを丸井さんが書こうとしたが、それは不可能だと考え、丸井さんと同世代の研究者仲間、教育現場や社会で古典に関わり続けている人に声をかけ、「古典を読む」ことをテーマにした文章を集め、されに創作者たちとの座談会を付して、木越さんの遺志を継ぐ形を整えた。
結果として、本書は素晴らしい本になった。やはり若い人たちだけで作られているということが大きいのではないか。本書は一種の「古典文学への招待」本であるが、非常に爽やかで既視感のない仕上がりになっている。木越さんの遺した原稿の部分は「語り」から古典文学を読む実践を示したものだが、その中心テーマとなるはずだった近世文学の語りの解説が途中で絶えたままになった形であった。しかし、これだけでも非常にユニークな試みであった。すこし私的なことを言えば、一時春雨物語の語りについて論文を書いていた頃、木越さんにはとても重要な切り口だと、大分励まされた。木越さんは創作者に寄り添う人なので作者の語りの工夫に注目されるのだと思う。私はどちらかといえばその後読者側から作品を読む方向にシフトして行く。そこで「菊花の約」論争にいたったかと思うが、もう少し議論ができていればと惜しまれる。
さて、木越さんの遺志を継ぐ若い人たちの論考12編と、座談会。論考はいずれも、古典入門の授業を想定したような語り口になっている。つまりオムニバス授業の体裁である。ほとんどの方がよく知っている方なので、楽しく読み進められる。高松亮太さんは、最近出現した羽倉本も加えた春雨物語諸本論。なぜ春雨物語の本文は、同じ人物が書いているのに揺れ動いているのか、従来「推敲」という観点から考えられてきたが、本文を与える読者に応じて秋成は本文を変えたのではないかというのが私の仮説で、高松さんもその立場のようだ。孤立無援でなくなったことは大変嬉しい。いま学部で羽倉本を読んでいるが、学生は諸本の異同についてかなり興味を持ってきていて、深く考察された発表をする。意外にも古典入門の入り口になりうるんだな、とこのごろ思っているところである。現場の教員である加藤十握さんは冒頭「古典は本当に必要なのか」論争に触れる。古典教育について正面から論じた文章で、非常に参考になった。そして座談会は、オムニバス授業のスペシャル回か。なんだか頼もしくなった。
その他の論考にひとつひとつ触れることはできないが、いずれも「読む」ことの可能性を示したものである。若者たちによる若者たちのための古典導入本、ありそうでなかった本が、木越治さんの遺稿から展開して成ったことに感慨を覚えたのである。
2021年11月03日
この記事へのコメント
コメントを書く