近世文学研究誌の『雅俗』21号(2022年7月)は、復刊十周年記念号を謳う。
特集は、昨年末行われたシンポジウム「雅俗論のゆくえ」。登壇者5名の論考とディスカサント、傍聴記も。
川平敏文さんの「雅俗論史」は、今後の雅俗論の基礎文献になるだろう。小西甚一の雅俗論をとりあげている点がユニークである。
深沢了子さんの「雅俗の境目」は、宗因に即して「雅俗」を考察。
私の「浪花人秋成」は、秋成の意識に即して、都=雅、浪花=俗という空間的雅俗論の可能性を検討したもの。
小林ふみ子さんの「「雅俗」をどう語り直すか」は、国際的な視座からの雅俗論を提案、南畝の雅俗意識を検討しながらも、雅俗の価値意識が研究者に内面化けるされているのではという警鐘?を鳴らす。分析は正しいが、俗文学研究の低調打破には、別の論点が必要だろう。
菱岡憲司さんの「馬琴と小津桂窓の雅俗観」は、標題通り当時の文人の雅俗観を探る。
まさに基調報告1+事例報告4という形にきれいに構成されているように見えるが、各論文は事例報告という意味ではなく多面的な問題意識に基づく大胆な提言を行っている。それが絡んだのはシンポジウムのあとの懇談会の席だったようにも記憶するが、あらためて思うのは「大事なのは問い」という研究の基本である。
論考編では、高松亮太さんが上田秋成『毎月抄』の完本の紹介。これは貴重。写本流通論にも論を展開している。
高山大毅さんの「「石鏡」=鏡山詠の展開−徂徠学派の定句表現」はよくある〈詩語の歴史的展開を追う〉論文のようなタイトルだが、その根っこにある問いが「なぜ徂徠学派中心の文学史理解が江戸期において受け入れられたいたのか」というユニークなものである。徂徠学派の文学史的記述、つまり文学史の創造が「石鏡」という詩語を普及させたからくりを解き明かすのだが、もちろんこの構想自体が高山さんの学術的イマジネーションである(いい意味で)。「詩と文学史叙述を総合して彼らの作品であると見なしてもよいのではなかろうか」ときた。このくだりを読むと、いろんな問いが生まれる。問いを誘発する論文はやはりいい論文なのだ。
これでまだ半分も紹介していないのだが、今回は220頁超のボリュームとなった。学会誌がやせ細っている状況なのに、研究同人誌は元気。この元気をまた学会誌に返すことができればいいのだが。いやもっと根本的な地殻変動が起こるのかも知れない。
2022年07月25日
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