神戸大学文学部国語国文学会2022年度研究部会の2日目のシンポジウム「近世俗文芸の作者の姿勢=mポーズ]――序文を手掛かりとして」のラインナップは次の通り。8月27日午後2時から。ハイブリッドで行われ、オンラインではどなたも参加できるようだ。
丸井貴史(専修大学准教授) 序文の虚実――『太平記演義』を中心に
天野聡一(九州産業大学准教授) 『雨月物語』序文小考
飯倉洋一(大阪大学名誉教授) 作られた序者――『ぬば玉の巻』と『春雨物語』に即して
小林ふみ子(法政大学教授) 主体の虚構性と実体性――大田南畝周辺から
有澤知世(神戸大学助教) 自序に登場する〈作者〉――山東京伝の戯作から
私も登壇するのだが、あらためて気になるのは「作者」って何?ということである。
今回のシンポジウムでみなさんが扱う「作者」は、いずれも実体としての作者そのものではなさそうである。では作者とは?
そこで、手がかりになるだろう論集が昨年3月に岩波書店から刊行されたハルオ・シラネ、鈴木登美、小峯和明、十重田裕一編『〈作者〉とは何か』である。バルトの「作者の死」、フーコーの「作者とは何か?」とその後の〈作者〉論を受けて、現代社会におけるメディア・ネット文化の中で、歴史的に〈作者〉を問い直すという鋭利な問題意識(ハルオ・シラネ「はじめに」)の下、多様な立場の研究者が、多様な〈作者〉像を描き出している。
中でも、今回のシンポジウムのテーマと最も関わり深いのが、長島弘明「変装する〈作者〉−上田秋成の小説を例として−」である。ここで詳細は述べないが、「模倣のオリジナリティ」というキーワードを据えて、精読者を対象とする創作のあり方を論じ、「戯号」に注目し、実体ではない、作品個別に存在する〈作者〉(これが変装する「作者」)について論じ、さらに読者もまた変装することを述べている。今回のテーマ「作者のポーズ」とぼっちり重なることを論じているのである。私もこの長島さんの論に共鳴するところが多い。
鈴木俊幸「江戸時代の出版文化と〈作者〉」も、近世小説の社会的位置が低かったことと戯名との関わり、そして誰でも「作者」であった時代における作者と読者の距離の近さを指摘するなど、看過できない論文である。
さらに金文京「東アジア前近代における〈作者〉の語義とその特徴」は、中国における「作者」の意味とその変遷を明らかにしてくれていて貴重。「作者」の原義は古代の聖天子であり、それに続く人々は、聖人の言葉を祖述する「述者」、選ぶ「選者」、顕在化させる「著者」、編集する「編者」であると。もちろん意味は派生するが、原義からすれば「作者」とは優れた作品を創った人を聖人に擬えていうことば、日本の「作者」も優れた詩歌を作る人といった意味が中心にあるのだと。「作者」を論じる上で押さえておくべき基本的論文であろう。
さて、本論集の多くの人が引用しているのが「機能としての作者」の概念を提示した、ミシェル・フーコーの『作者とは何か?』である。いくつかの論文を読んで、バルトの「作者の死」に基づくナイーブなテクスト論はおおむね乗り越えられてはいるが、「機能としての作者」はまだ生きている、現状はそういう認識段階だと感じた。
『作者とは何か?』(清水徹+豊崎光一訳、哲学書房版)でフーコーは「機能としての作者」の四つの特徴を指摘している。しかしそれを要約することは、ちょっと困難だ。ただ今回のシンポのテーマに即すると、次のくだりあたりがリンクしてこよう。「作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで−この分割と距離のなかで作用するのです」。
さて、『作者とは何か』に戻ると、商偉「『石頭記』と〈作者〉」が興味深かった。というか『石頭記』という作品そのものが面白い。
シンポジウムは、「序文」を手がかりにして、という副題がついているが、これは「作者」=「序者」、つまり「自序」を扱いますよ、ということになる。しかし自序にはもともと、謙譲、韜晦が含まれるのが常である。他序はその反対。それをもポーズというのであれば、型としての序を前提とした議論が必要となるだろう。
おそらく、それぞれの登壇者が自分の関心のある「作者」の書いた「序」について、そのポーズについて事例報告をし、ディスカッションで論じあうという形になると思う。自分の発表準備は出来ていないが、楽しみである。
2022年08月13日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック