揖斐高さんの『江戸漢詩の情景ー風雅と日常』(岩波新書、2022年8月)が刊行された。
揖斐さんの文章は、実に読みやすい。今回の著書もそうである。中野三敏先生や日野龍夫先生が、それぞれ独特の表現、文体をお持ちだったのに対して、揖斐ぶり、揖斐調と呼べるような個性的な文体とはいえない。しかし読者にやさしい、わかりやすい文章である点は、卓越している。
今回の文章は、江戸漢詩の魅力をさまざまな実例にを示して紹介したものである。「風雅と日常」は、「雅と俗」に置き換えることができるが、あえてそれをしないで、現代人にすぐわかる言葉を用いたのも、揖斐さんらしい配慮であろう。それだけではないかもしれないが、それについてはここでは贅言しない。
全体としては、体系的な著書ではなく、エッセイ集の趣なのだが、所々に、私にとってはハッとするような指摘があって、大いに学ばせていただいた。それは漢詩のことにとどまらない。俳句や小説など自在に、適確に引用する。
「もうひとつの詩仙堂」の章では、詩仙の選択をめぐる林羅山と石川丈山の交流を描く。ふたりが同年生まれだったというのも意外。丈山への意見を伝えるのに、息子の読耕齋に下書きをさせていたという話も、最近考えさせられている「作者とは何か?」の問題に連なるものである。
だが、読み進めていくうちに、この本は漢詩の情景もさることながら、それ以上に「漢詩人の情景」を見事に切り取っているとの感をいだく。四角四面であるか、破天荒であるか、なんとなくその二択で、漢詩人の多様なあり方をうまく想像できないでいる人も多いのではないか。この本を読めば、身近な家族に対する情や、食に対する思い、遊蕩的な生活などなど、漢詩以外の手紙や日記から、漢詩人のさまざまな日常が浮かび上がる。その結果、日常を超えて風雅をめざそうという志もより理解できる。本書は、「漢詩人たちの肖像」を描いた本だとも言えるのだ。
2022年09月05日
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