2022年09月10日

百人一首の撰者は藤原定家にあらず

 国文学研究資料館の創立50周年記念式典の基調講演で、田渕句美子さんは、『百人一首』の撰者が藤原定家ではないという内容の講演をされ、オンラインで公開されていたため、私も興奮しながら拝聴していた。文学史を塗り替えるこの衝撃的な説は、2020年に既に論文として発表されていたようであるが、この基調講演ではじめて知った人も多かっただろう。私も噂には聴いていたが、元の論文を読んでいなかった。しかし、この説はまだまだ知られていないだろう。なにしろ、教科書の文学史を書き換えなければならないレベルの話で、なかなか信じられない人も多いのではないか。
 さて、岩波書店のPR雑誌『図書』9月号で、この説がコンパクトに、一般読者にもわかりやすく、田渕さんによってあらためて書かれている。わずか4頁であるが、必要な情報がきちんと収められた文章となっている。題して「『百人一首』をゼロ時間へー藤原定家が撰者ではないこと」。「ゼロ時間へ」は、アガサ・クリスティの傑作ミステリから来ている。
 『百人一首』によく似た『百人秀歌』というアンソロジーがある。約70年前宮内庁書陵部で発見され、近年冷泉家でも見出された。『百人一首』とは97首が重なるが、百人一首の巻末二首、後鳥羽院と順徳院の歌が『百人秀歌』には採られていない。鎌倉幕府に反旗を翻し、敗北した後鳥羽院とその子順徳院の歌を、定家は『新勅撰集』に入れられなかった。そこで『百人一首』に二人の歌を新たに入れたのだという説がこれまで有力だったという。 
 しかし、『明月記』に載る、宇都宮頼綱(蓮生)からの依頼で「古来に人の歌各一首」を送ったという記事を田渕さんは改めて検討、定家の嫡男為家の養父で幕府の有力御家人である蓮生に、贈呈するのに、幕府と戦い隠岐と佐渡に流されていた後鳥羽院と順徳院の歌を、定家が選ぶはずはないだろうという。『明月記』の記事は、彼らの歌の載らない『百人秀歌』のことを指すのだろうと。さて、そうなると小倉山荘の障子に飾られたとされる『小倉百人一首』伝説も疑わねばならない。同時代にそのような資料はなく、没後百二十年ほど百人一首撰者について言及する文献はないのだという。
 さて私が読んでいて「その通り!」と思わず拍手したくなったのは、「これまでの『百人一首』研究には、蓮生への贈与品という視点がほとんど欠落していた。定家の個人的な心情を盛る器ではないのだ」というくだりだ。ここ十年ほど私は、秋成の写本作品を見ていくうちに、そもそも写本とは特定の誰か(複数の場合もあるし、神に向けて、祖先や子孫に向けてというのも含める)に向けて書かれたものであり、想定された読者が誰かということを含めて作品を読解しなければならないと私なりに感得し、あちこちでそのことを言ったり書いたりしている。まさに田渕さんの着眼はそこであり、実に頼もしい視点なのだ。
 ゼロ時間へ、つまり当時の記録だけを辿って憶測を削り落とした時、「百人秀歌』が定家撰、『百人一首』は鎌倉時代中期以降に後人の誰かが手を加えて編纂したもの、ということが明確に浮かび上がる」という。
 実に明快で、これを否定するのは難しいだろう。しかし、学界がこの説を受け入れ定説となるには、もう少し時間がかかるかもしれない。できるならば、大学はもちろん、百人一首を教える小中高の先生も、この短い文章を読んで、生徒たちに一言付け加えてほしいと思う。いずれ教科書も書き換えられるだろう。
 小川剛生さんの、「兼好」は「吉田」ではなかったという説(中公新書『兼好法師』)も衝撃だったが、この田渕説は、それと同じくらいインパクトがある。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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