上野洋三先生が亡くなったという知らせが届きショックを受けた。芭蕉を中心とする俳諧研究、さらには和歌研究にも大きな業績を遺された。
九州大学で学部生のころから井上敏幸先生に大変お世話になっていた私は、井上先生のご学友である上野先生には比較的若いころからご教示を受ける機会があった。井口洋先生とともに、日本近世文学会で同時にデビューしてからの付き合いだ、とうかがったことがある。三先生は年齢も近い。そのころ上野先生は、夏休みに九州にやってきては井上先生と調査旅行するということをやっていて、それを楽しみにしている風であった。
私が助手の時か、山口大学に勤務し始めたころか、はっきり憶えていないが、臼杵市立図書館を中心に、大分の図書館を回る調査の旅に、私も同行させていただいたことがある。上野先生は、大阪からフェリーを利用して自家用車で来られていた。トレードマークの和服ではなくカジュアルな洋装であった。先生が車を運転されているのを初めて見て、イメージと違うなあ、と思ったものだ。車はフォルクスワーゲンの丸っこいやつだったと思う。そして、日出(ひじ)の図書館に向かったのだが、到着時だったか途中で昼食を取った時だったか、上野先生の車のバッテリーが上がってしまった。その時の先生の茫然として、途方に暮れた様子も、それまでみたことのない表情だっただけに印象に残っている。車は親切な方がブースターケーブルで繋いでくれて、無事エンジンがかかったのだが。
こういう思い出が蘇るのは、上野先生が自らにも、他人にも厳しく、学問の鬼のようなイメージがあったのに、案外に人間的なところがあったのでホッとしたからかもしれない。お酒の入った時には、はしゃぐような可愛いところもあって、だんだん怖くはなくなってきた。「ジュリー(沢田研二)は美しい!」とおっしゃっていたこともあったような。
『雅俗』を立ち上げたころには、怖いもの知らずというか、「同人になってください」と頼み込み、ご快諾いただき、論考をお寄せいただいた。
思い出を手繰り寄せれば、いろいろ浮かぶのだが、やはり若い頃に読んだ『芭蕉論』の所収の諸論考に痺れた経験を思い出さずにはいられない。とりわけ「「も」考」のインパクトは忘れられない。さらに俳諧を研究するには和歌研究が必要だと、堂上和歌の資料整備や歌論研究に注力し、近世和歌史の新たな地平を開く『元禄和歌史の基礎構築』を著された。さらに中尾本『奥の細道』(芭蕉自筆とされる)を世に知らしめた功績は多くの人の知るところである。
上野先生は「論の人」と見られがちだが、徹底的な調査と厳密な本文研究の上に立つ論だった。臼杵でご一緒したころ、40歳前後だった上野先生は、たしか反古紙を自分で製本された調査ノートを持参されていたが、それは調査箇所別に作られたものだった。また、どんなに疲れていても、酔っ払っていても毎日和歌十首を必ず翻刻することを日課としているということもうかがったことがある。論文に影響を受けるという意味では、私の中では五本の指に入る方だった。それが甚しかったころに、『芭蕉、旅へ』という岩波新書をご恵投賜り、便箋10枚くらいの感想を書いてお送りしたこともある。
あれやこれやの記憶はもしかすると部分的には間違っているかもしれないが、私の中の上野洋三先生は、そういう感じである。心よりご冥福をお祈りします。
2022年09月22日
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