小田中直樹『歴史学のトリセツー歴史の味方が変わる』(ちくまプリマー新書、2022年9月)。ちかごろ評判で、2週間もたたずに重版が決定したという。
考えてみると、大学で歴史(世界史)を学んだのは45年も前。それからは、興味深そうな本をつまみ食いしたくらいで、歴史学の考え方の流れがわかっていない。日本史はまだ自分の研究の隣接分野だから、いやでも目にはいってくるが、世界史となるとフォローできていない。大学入学のころは西洋史を学ぼうと、授業も受けたし、本も読んでいた。方法的には、マルクス主義、大塚史学、その後アナール学派など授業や本で学んだ。その後、世界システム、グローバル・ヒストリー、ジェンダー史学といろいろ潮流があるのはなんとなく知っていても、それらの相互関係とか流れとか、その背景とか、哲学との関係とか、よくわかっていない。そんなことをわかりやすく教えてくれる本があればね〜、と思っていたところ、この本の噂を聞いて、早速本屋に行って入手。あまりにも読みやすくて、1時間あまりで読破。非常に多くのことを学んだ。世界の史学史をこれだけわかりやすく語れる才能はすごいと思う。
19世紀なかばのラカンの登場から最近の潮流まで。ラカン史学は「それは実際いかなるものなのか」を明らかにすることが歴史学だとした。実証主義である。記憶にたよってはいけない。できるだけ公文書でそれを明らかにする。その公文書が正しいかどうかを資料批判で検証する。これが歴史家の仕事、歴史研究のパラダイムだった。それは「記憶の排除」・「ナショナルヒストリー」・「欠如モデル(歴史研究者が知識の欠如している非専門家に教えるというスタイル)」を招く。しかし、そのやり方で取りこぼすものは少なくない。「ナショナルヒストリー」では見えてこないものを批判する「世界システム論」。公文書だけではわからない労働者や民衆の歴史を掲げる「労働史学」・「アナール学派」、そして日本の比較経済学史が登場するが、そこでも科学を標榜する実証主義が揺らいだわけではない。歴史学は科学だという主張をする限りはそこから離れらないというわけだ。
だが、そもそも、そのような歴史学は本当に有効なのか?「言語の恣意性」を前面に掲げると、「事実」とは、とりあえずの、ナンチャッテ「事実」ではないのか。歴史学自体に根源的な疑問を投げかけるポストモダニズムの嵐は歴史学にもやってきた。
歴史学者が妥当とみなす手順に従って明らかにされ、実際にあったと考えてよいと大多数の歴史学者が考えていることやモノ。それらは実は言語先行で作られたものではないのか・たとえば「労働階級」という言葉が先にあって、「労働階級」という実体ができるとか。ここらあたりの話は、文学にも大いに関わるのでとりわけ面白い。たとえば「雅俗」というパラダイムもそうで、「雅俗」という概念がさきにあって、さまざまな文学・芸術がその概念に収められるというようなことがあるだろう。身近な問題として読める。
しかし、歴史学に根源的な疑問を投げた、言語論的転回を、大部分の歴史学者は無視した。それはそうでしょうね、歴史学自体が否定さえるのだから。
ナショナルヒストリーに対する反省から生まれたグローバルヒストリー、「記憶の排除」の反省から出てくる記憶研究、「欠如モデル」に対して万人が知識の提供者かつ受容者であるとするパブリックヒストリー、そういう新しい考え方が現在進行形で語られる。それでもやはり今でも強いランケ学派、やっぱりそうでしょうね。
とにかく語り方が抜群にうまい。そして流れがものすごくわかりやすい。プリマー文庫だからという次元ではなく、わかりやすく語る技術がすごい。あえていえば、あまりにもわかりやすいのが怖い。でもやはり、「文学史」を考える者には、非常にヒントを与えてくれる著作だと思う。
2022年10月04日
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