深沢眞二さんの『芭蕉のあそび』(岩波新書、2022年11月)。
帯に「芭蕉だって笑ってほしいに違いない」と、本書中の文章を使ってコピー風に書かれている。古池に何匹もの蛙が飛び込んでいる図とともに。
芭蕉が、あまりにも真面目に、深刻に、崇高に解釈されてきていて、それは芭蕉の神格化には大いに意味があったのだろうが、芭蕉の作った句は、俳諧なのであって、そのベースは滑稽であったはず。そこを見過ごしては、本来の芭蕉の面白さを見失いますよ、という立場で、深沢さんは芭蕉の句の〈あそび〉を読み取って、一般的な芭蕉とは違う、人をくすっと笑わせてやろうというサービス精神を探り出す。もちろん、俳諧を風雅の文学に高めた崇高な芭蕉観を否定するためではなく、もうひとつの芭蕉の顔を見せようとするのである。
深沢さんは、一見仏頂面、もとい真面目な外見なので、芭蕉句を哲学的に解釈している方のように見えるのだが、実はいつも人を笑わせてやろうと狙っている方ではないかと私は思う。深沢了子さんとの夫婦漫才風の宗因注釈を私は愛読していたが、了子さんがパッと面白いことを思いつくのに対して、眞二さんは、熟慮してウケを狙っているように思えるのだ(私の主観ですが)。つまり、深沢さんと、深沢さんの説く芭蕉とが重なって見えてしまうのである。
ところで、句を面白く味わうためには、作者と読者の間に、共通の教養とか知識、それも学んで得たというより、私たちが自然に覚えたアニソンみたいに、もう体に染み付いているような言葉の世界があり、それがなければ逆に芭蕉の〈あそび〉は理解できないのである。古今集や論語などが、そうなのだろうが、江戸時代でアニソン的なのは、小謡集などに載っている、有名な謡の文句であろう。第三章がそれである。誰でも知っている謡曲を踏まえた句は、初期の俳諧によく見られるものである。しかし現代人は、その共通の教養の部分を、ほとんど持っていないので、むしろ高尚な人生論や世界観と芭蕉の句との間に親和性を読み取るわけである。それはそれでいいのだろう。現代人が芭蕉に近づく理由も敬遠する理由もそこにあるような気がするが、古典研究者は、芭蕉と同時代の人々の、誰でも知っている言葉世界に現代人を誘って、当時の人たちの読み方を紹介する務めがある。そこに、高尚な思想とは違う豊かな文芸の味わいがあるのだろう。
しかし、この本の中で、私が注目したのは、芭蕉が句を少しずつ変えるのを、推敲とはみずに、人的関係や状況を踏まえたバリエーションと見る見方。さらには、同じ句なのに、芭蕉自身が解釈を変えてみせるというところだ。これは実に我が意を得たりというところがある。江戸時代の文芸の本質かもしれない。つまり、江戸時代における文芸作品とは、作った人とそれを味わう(特定の)人との間にあって、可変的(あるときはテクストそのものが、あるときは解釈が)であるということなのだ。このあたりのことを、深沢さんにさらに聞いてみたいと思ったことだった。
2022年12月26日
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