柏木隆雄先生(大阪大学名誉教授・大手前大学名誉教授)が、大阪市市民表彰を受けられたというニュースが少し前に届いた。おめでとうございます。大阪大学のウェブサイトにそのことが報じられたたが、先生のコメントに「上方文化芸能協会の機関誌「やそしま」第15号、最終第16号に寄せた拙文を読まれた方が、大阪文化への寄与の証として推薦されたのでしょう」とある。その「やそしま」最終号について書く。
柏木隆雄先生は、このブログでも度々紹介させていただいているが、松阪ご出身で、工業高校を出られて、化学関係の企業(住友金属)の研究所に就職されながら、文学への想いやまず転身、大阪大学文学部に入学され、フランス文学を専攻、バルザック研究の第1人者として、仏文学界隈では知らない方はいない。化学を学んだ先生らしく、「触媒」という概念を作品生成論に用いたという話を聞いて、「なるほど、さすが」と(わたしが)うなったことがある。しかし、先生のすごいところは、尋常ではない読書量でもって、古典から近現代作品まで、日本文学を自在に論じるところである。とても仏文学専門とは思えない。その豊富な知識と比較文学的方法で、日本文学関係の論文もすくなくない。それだけでなく、さまざまな文化全般、そしてワインにも通じていらっしゃる。まさに「教養」が服を着て歩いている感じで、ちょっとした挨拶にも、文学者の言葉を適切にさらにと引用する、その知の広さたるや、わたしの知る中でも一番ではないかなあと思う。
上方文化芸能協会は、南地大和屋女将の坂口純久(きく)さんが主唱し、作家司馬遼太郎氏と当時の大阪大学学長山村雄一氏に協力を得て、大阪府・大阪市・や大和屋贔屓の経済人・知識人らが賛同集結して、大阪の芸能文化を継承するために出来た財団法人で、昭和58年に設立された。平成19年には、当時の岸本忠三総長のお声がけで、阪大文学研究科が協力することになり、文学研究科の中に「上方文化芸能協会」の運営委員が何人かで組織された。私も当初から声をかけられてメンバーとなった。というと何か貢献をしたみたいだが、実際の貢献はほとんどなく、会議もほぼすわって先生方の蘊蓄をきいているだけ。むしろ、住吉御田植神事や上方の舞踊の舞台などに招待されて、文字通りの「役得」を味わってきたのだった。
さて前置きが長くなったが、柏木隆雄先生は、文学研究科は機関誌を刊行することに主として協力していこうということで、「やそしま」という雑誌を作ることになった。柏木先生は、毎号巻頭の座談会の司会として参加されていたと思うが、能であろうが、文楽であろうが、落語であろうが、どんな芸能の超一流のゲストが来られても、見事にさばいて、適切なコメントを入れていく。絶対にわたしにはできない芸当で、毎回「さすが」とやはりうなっていた。
さて、女将もご高齢であり、いろんな状況から、引き時とみられたのであろう、上方文化芸能協会は幕を閉じ、「やそしま」も16号で最終号となった。柏木先生が、「『やそしま』の十五年」として巻末に長い回顧を書いておられる。これは資料的にもすばらしい。編集にもずっと関わってこられた柏木先生にしか書けない文章である。そこで書いていただいているように、私も創刊号に拙稿を載せていただいた。「秋成と住吉」あたりで何か書けないか?と依頼されたようだった、なにか捻り出そうとした。秋成は確かに住吉のことを書いてはいるのだが、実際にどういう経路で行ったのかとか、考えてみるとイメージできなくて、住吉の地図や文献をいろいろ当時調べて、すごく短い文章を出した。あとで、編集のM丸さんから、「先生のはなあ、堅すぎたわなあ」と苦笑まじりに言われて、「嗚呼!」と、わが未熟さを嘆いたものであった(笑)。
文学研究科は寄稿で貢献する、ということだったが、私はその後一度も貢献せず、大活躍されたのは橋本節也先生だった。2号以降、たぶん毎号、かなりの力作を寄せて、大阪の画家と芸能をつなぐ興味深い話を次々と投入された。橋本先生も、「大阪の画家たちを連載して」という回顧的な文章を寄せている。もちろん坂口純久女将のご挨拶のことばもある。あらためて、全号を読み返してみたいと思う最終号であった。
2022年12月30日
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