『近世文藝』117号(2023年1月)が手元に届いた。昨年春の学会での70周年記念シンポジウム「独自進化する?日本近世文学会の研究ー回顧と展望ー」の報告と傍聴記が掲載されている。このシンポ、私もディスカッサントとして参加した。同じディスカッサントであった廣瀬千紗子さんと、最初のパネリストである中嶋隆さんとあわせて65歳を超える三人が、藤原英城さんいわく「爆弾三勇士」よろしく暴れていた印象があるが、この報告と傍聴記で、日本近世文学会における実証主義の堅持、理論的研究の是非、学会というムラの外へのアピールといういくつかの論点が焦点化されている。
パネルがどのように受け止められたかが気になっていたので、「傍聴記」の掲載はありがたい。執筆者は「爆弾三勇士」と同じくロートル組の篠原進さんと、超若手の岡部祐佳さんである。傍聴記もパネルと同じで、ここでもベテランが暴れ、若手はオーソドックスで堅調な書きぶりである。
篠原さんが、いつもの「劇画チック」な、あるいは語弊を恐れずに言えば「プロレス中継的」=古舘伊知郎的文体で、傍聴記を書き上げている。ちょっと暴れすぎの観なきにしもあらずというくらい。篠原さんによれば、私飯倉が、一瞬の空白の後に「剛球」を投じたとあるが、おっしゃる通り、ちょっと煽ってしまったのは事実である。もちろん篠原さんの傍聴記は、篠原さんの思いを交えつつ書かれているので、「いやそこまでは私も考えてはいませんが」というところはあるのだが、「学際化・国際化・社会性を謳うなら、外に向けた思いを言って!」という趣旨であったことは間違いない。
ここからは、私の呟きだが。外の状況、古典や古典研究に「敵対的」とさえ思える発言が公然と出てきている今の状況は、「無視されているよりマシ」だという思いが実はある。「こてほん」がそれを引き出してしまったという批判もあるが、「敵対的」であるということは、関心があるということであり、この「敵対的」な層と議論することが、無関心層の関心を引く努力をするよりも効果的なのである(オセロゲームのように敵対者は支持勢力に回ったら強力な味方である)。「敵対的」な発言をする層は、古典の価値が自明であるという主張が通じないことを教えてくれた。ではどうするか。ここにこそ、理論が必要であろう。たぶん実証的データだけで、古典を学ぶことは必要かつ有価値だと証明するのは難しい。理論と実証の問題は、実はここにリンクするのである。
学会を守ることが、古典研究を守ることとは限らない。さまざまなレベルでの、またさまざまなコミュニティとの議論を企図し、考えぬくこと。それを発信すること。ロートルには限界がある。50代以下、とくに40代・30代の方に、議論の機会をつくることと、外への発信を心からお願いする。
2023年01月31日
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