大河ドラマ「どうする家康」がじまって2ヶ月。ドラマは「史実」に沿ってはいるが、大胆なエピソードを虚構しつつ、決断を迫られて右往左往する家康を描いてゆく。かつては山岡荘八原作・滝田栄主演の『徳川家康』も大河で放送された。こちらはなんだか立派な家康だったと記憶する。
我慢強いとか、狸親父とか、地味とか、我々がもつ家康のイメージは、信長・秀吉とは対照的である。では、その実像はどうだったのか、そしてその定着しているイメージはどう形成されたのか。歴史研究者と文学研究者を糾合して、「実像」と「虚像」を追究したのが、堀新・井上泰至編の『家康徹底解読』(文学通信、2023年2月)である。
同じお二人の共編で出た『秀吉の虚像と実像』『信長徹底解読』に続く第3弾である。信長の時には『信長公記』という、絶対的な通路(虚像実像の両方にとって主要な史料)があったが、家康の場合はそうではないだろう。アプローチは様々である。今回も14のテーマについて、歴史側と文学側からの考察が並ぶ。シリーズ3冊目となって、双方が互いに研究方法を理解しあい、シンクロしあっているような章もあれば、何か違うことを論じているのでは?と思わせる章もあって、逆にそれが面白い。シンクロしているように思われたのは、たとえば「小牧・長久手の戦い」であり、この戦いで徳川家康が勝利したという通説が、徳川史観によって創られたものだという考察が、史学(堀新氏)・文学(竹内洪介氏)双方から為されている。互いに草稿の段階で、原稿を交換していたような形跡があって、見事に融合しているように見えた。
尾張人質時代はなかったのではという歴史学からの考察や、三河一向一揆・方広寺鐘銘事件など、さまざまなテーマにおける最新研究成果に基づく、興味深い考察がなされている。
それにしても、歴史研究者の書く歴史とは「確実な「事実」を一次史料で押さえ、一次史料のないところを二次史料で補い、それでも足りないところを合理的な考察で「歴史」として叙述するもの」というのが一つの見方だと思うが、当事者自身の手になる一次史料にも、年記や宛名が欠けているとか、写しであるとか、控えであるとかの外側の問題や、文言そのものの意味不明箇所など、徹底的な解読が必要であり、逆に後世の者が編んだ歴史書から、事実と虚飾を読み取る読解力も求められる。新しい史料が出現したら、これまでの「事実」が転覆することもある。まことに歴史研究は大変である。しかし、そうであるからこそ、歴史研究者は、虚構の混じる文書・記録さらには物語をも読む必要に迫られる。一方で、文学研究者も、作品の背景や作者の思想を探る際に、一次史料に遡ることを余儀なくされることもある。方法と目的を異にするとはいえ、歴史学と文学研究は交差しているし、情報交換を重ねていかねばならないだろう。いずれにしても、「徹底解読」の姿勢だけは持っておかねばならないわけですね。そういう意味で、実像と虚像の両面を「徹底解読」するこのシリーズの果たしている役割は大きいのではないだろうか。
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2023年03月02日
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