学部生時代の話。近世文学で卒論を書くことを決めた4年、中野三敏先生の学部演習は『好色一代男』であった。4年の私が最初の担当(当時「模範演習」と称していた)であった。巻1の1を担当。決まってからかなりの時間をかけて準備した。谷脇理史先生の「『好色一代男』論序説」を読むようにと言われ、その長い連載論文をコピーして、我流で製本した。それにしても、西鶴のへんてこな文章には難渋した。理屈では理解できても、現代語訳は至難だ。幸い、現代語訳を演習では求められなかったように思う。
というわけで、『好色一代男』現代語訳が新訳で出る、それも中嶋隆さんが・・・、と聞いて文字通り鶴首して待った。最近日本古典も手がける光文社古典新訳文庫である。お送りいただいて早速巻1の1を読むと、期待に違わぬ鮮やかな訳である。訳しにくい筈なのだが、実に自然に、すっと読める文章なのである。さすがは小説家でもある中嶋さんだ。令和の今、どういう訳がよいか、というところまで考え抜かれた言葉の選び方だと思う。50年後は知らず、今から当分の間、この新訳が好色一代男現代語訳の決定版だと言い切ってよいだろう。
訳だけではなく、注もかなり充実している。そして解説。なにか現代語訳とシンクロするような文体である。そして中嶋さんならではの解説。京都や江戸に遅れをとった大阪の出版業が俳書から始まった理由とはなにか。『生玉万句』で「私は阿蘭陀流と悪口言われてましたがね−」と言っているのは守旧派からの攻撃イメージを作ることで自己宣伝する「どこかの国で人気のあった政治家」と同じではないかなど、そうだったのかも、と思わせる、そして『好色一代男』の革新性。これも面白く分かりやすく説いている。江戸時代の遊郭知識はクイズで出題など、飽きない工夫もされている。是非ご一読を。
2023年04月20日
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