昨日、高田衛先生の訃報が入ってきた。93歳。この半世紀、秋成研究を文字通り牽引してきた方だった。研究者というよりも文学者のオーラをまとっていた。先生のご逝去で、まちがいなく秋成研究のひとつの時代が終わった。
院生のころは、雲の上の存在で、見かけただけで「高田衛だ!」となった。すでに伝説的な存在だった。しかし、この世代の先生方はほぼみなそうであるが、後進に対して実に懇切丁寧である。私の最初の論文にも丁寧なお葉書を頂戴し、感激したことを覚えている。そして、高田門下のひとたちとも知り合っていくと、高田先生は研究者を育てる力も一流であると気づかされた。私より少し上に稲田篤信さん、西田耕三さんら。私と同世代では佐藤深雪さん、高木元さん、風間誠史さん、鈴木よね子さんら。少し下には高橋明彦さんらがいる。他にも個性的な研究者がたくさんいらっしゃる。一筋縄ではいかない方ばかり。とくに高木元さんは、「おたがい師匠の学風をストレートには継いでいない。むしろ逆ね」という点で妙に意気投合していた。もちろん、私はともかく、高木さんには高田衛の血が流れているのを私は知っている。
よく考えると、私の研究の3つの柱である、秋成・奇談・上方文壇は全部高田先生がらみなのだ。
秋成はいうまでもないだろう。学部時代、当時古書価格が高価でとても手の出なかった『上田秋成研究序説』と『上田秋成年譜考説』(後者は10万円近くした)を中野先生にお借りしてコピーし、座右に置いた。
私が院生か助手のころ、叢書江戸文庫を高田先生は企画された。その1冊『佚齋樗山集』を中野三敏先生に頼んでこられた。「秋成ばかり読んでいては、秋成はわからない」と日頃おっしゃていた中野先生は、ちょうど飯倉にさせるといいと思われたか、その仕事を私に振ってくださった。そこから私の「奇談」書研究は始まっている。もっとも樗山のことを始めたときには全国の樗山の版本を見て歩くだけで、その先を何も考えていなかった。しかし板本書誌学の授業を受けた以上、とりあえず見られる板本は全部みないといけないという倫理観が私にはあった。この時の書誌調査で、なにか書誌学的なことへの自信のなさが少し解消したかと思う。これも高田先生のおかげだったわけである。
さらに、私が研究に行き詰まりを感じていたころ、高田先生から「妙法院宮サロン」と「大坂での太田南畝」について書くようにご下命を受けた。『共同研究秋成とその時代』の企画だった。前者は宗政先生の代打だった。今思えば、このご依頼が、私を「上方文壇の人的交流」研究へと誘ったものである。中野三敏先生の演習で学んだ文壇研究の方法が役に立った(大学院で頼春水の『在津紀事』などを読んでいたので)。ひとつの論集に文壇研究的な論文を2本も書かせていただいたことが、その後の私の研究を少し拡げることになった。
高田先生のおかげで、今の研究者としての自分がある。私はいまそう確言できる。
高田先生は、秋成歿後200年記念展示を京都国立博物館で、「若冲」や「蕭白」と同じような規模でやりたいとおっしゃっていた。さすがにそこまでのことはできなかったが、京博で秋成展をやることができた。稲田篤信さん、木越治さん、長島弘明さんと私とで、何度も打ち合わせをし、京博に通い、資料撮影をした。この時の経験で、私の秋成観はかなり変わった。私は『上田秋成 絆としての文芸』で、その秋成観を書いた。つまりこれも高田先生のおかげである。
私は『日本文学』で、先生の2冊の本の書評をした。依頼された時は感激した。ひとつが『春雨物語論』、もうひとつが『秋成 小説史の研究』である。私なりに一生懸命読んだ。そして、今思えば書評というより高田衛論を書いていた。我々が一歩一歩頂上をめざしてのぼっていく難路を横目に、先生は飛翔する蝶のように、春雨物語を山の上から見ていたと。先生はそれを「批判」と受け取られたが、書評自体には感謝をされた。そして秋成研究最後の論文集である、『秋成 小説史の研究』については、なぜ秋成を論じているのに「小説史の研究」かについて考えた。私は中村幸彦先生の『近世小説史の研究』を意識されていると思った。この書評について、高田先生から、信じられないようなお言葉をいただいた。その言葉は私の大切な宝である。
高田先生の追悼文なのに、私自身のことばかりを語ってしまったが、私の研究は、高田衛先生とともにあることを、書きながら改めて確信したのである。
ご冥福をお祈りします。本当にありがとうございました。
2023年07月20日
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