というわけで、めずらしく、哲学の本2冊を取り上げる。ちょっと読後メモを書きたいので。1冊は9月に出た入不二基義さんの『問いを問う』(ちくま新書)、もう1冊はロングセラーと言ってよい國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)である。
まず、『問いを問う』に関しては、X(twitter)にくり返しポストしたが、その際は、読みながらエキサイトする気分そのままを書き付けた体(てい)であった。入不二さんは、山口大学時代の同僚であり、それ以来の友人である。彼の哲学は、数学を時に用い、(本質的な意味で)文学的な表現を駆使しながら、いやというほど徹底的に考え抜くスタイルである。本書は大学の教室での哲学入門講義を基にしていて、「どのようにして私たちは何かを知るのか」に始まる4つの問いについて徹底的に深められる認識論・存在論である。本書は入不二さんの著書がいつもそうであるように要約するのが難しい(要約は可能だが、要約すると何かが抜けてしまう感じがある)。哲学というのはなべてそういうものではあろうが、おそらく、彼の思考の過程そのものが読みの愉悦をもたらすのであり、もっと重要なのは読者(である私)が、それに巻き込まれるのである。その巻き込まれる度合いがとても深かったのが今回の『問いを問う』である。なにせ、「問い」そのものを問うのであるから、その問題意識(?)は、きわめて汎用的である。たとえば私は、いま怪異認識のことを考えているが、その問題を考える際にも、この本は実にヒントに満ちているのである。いつの間にか自分の問いを問うているのである。
『問いを問う』を読んだ後、たまたま目に入った『暇と退屈の倫理学』を読み始めた。これはまた、全く入不二さんの本とは対照的に、読みやすく、解りやすい(気にさせる)本である。スゴいスピードで読めてしまうのである。こちらは倫理学だから、「人は如何に生きるべきか」を考えるための思考となる。この本は、「暇と退屈」を感じるのが、今の(というのは超大昔のヒトはそうではないということだか)人間のあり方の本質とみて、それを考察した過去の哲学者(ルソーからハイデガーまで)の考え方を巧みに、かつ批判的に紹介しつつ、「なるほどなるほど」と頷いている間に読み終わってしまうという本だ。片付けられないタイプの私にとっては、人間が「定住」を知る前は、どんどん移動するのだから、片付ける必要がなかったというくだりが一番受けた。「受けた」と今言ったが、この本は、「受ける」ことを狙った、巧みな叙述の哲学である。読者は著者の叙述芸を楽しんでいる。楽しみながら、多くの哲学者の考え方を知ることができる。ただ、私は暇と退屈には悩まされていないせいか、倫理学として本書を読んだという気はしなかった。暇と退屈という問いを問う切実さが、私にはなかったからである。この本も講義を元にしているらしいが、その講義はとてつもなく面白いだろう。
2023年10月20日
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