藪田貫『武士の町 大坂』。初出は2010年10月の中公新書。その後、講談社学術文庫。〈町人の町〉というイメージが強固な江戸時代の大坂だが、藪田氏に言わせると、そんなことはない、大坂だって「武士の町」と言えるのだという。
私が関心のある大坂の武士といえば、上田秋成の国学の師、加藤宇万伎。幕臣で大番与力。大阪城や二条城に勤番した人物である。そしてこの本にも出てくる増山雪斎。伊勢長島藩藩主で大坂城加番。木村蒹葭堂と仲が良く、書画の技倆がすごい大名。そして、約1年ではあるが大坂銅座詰であった蜀山人大田南畝。
秋成を中心に上方文壇の人的交流が私の研究テーマのひとつであるが、宇万伎や雪斎や南畝という人物を考える時には、「武士の町 大坂」という視点は絶対に必要である。改めて、この本の有益さを実感したので、自身のメモとして書き留めておく。
つかみは、司馬遼太郎の「大坂の武士は二百人」への反証。武鑑をはじめとする武士名鑑を用いて計算すれば、低めに見積もっても八千人は確実という。司馬遼太郎だけではなく著名な歴史研究者の「千人から千五百人」という説も斬ったことになる。
それでも武士の割合は2%くらい。数から言えば圧倒的に「町人の町」であることは動かない。だが藪田氏は量だけではなく質を考えるべきだという。
大坂の武士の情報である『大坂袖鑑』さらに両面一枚刷の画期的な『浪華御役録』。これらが大坂の町人にどれだけ貴重な情報を提供していたか、よく引用される「お奉行の名さへ覚えず年くれぬ」は、実は町人の実態を示した川柳ではなく、「自らを俗事にかかわらぬ市隠に擬した」(飯田正一)の解が正しいという。実際は、この武士情報は実に重宝されていた。摂津河内和泉播磨まで枠を拡げた『大坂便用録』というものもあり、それぞれ利用目的の違う3種の武鑑を、武士相手に取引をする町人は必要に応じて使っていたらしいのである。とくに人事情報を得るために。本書の大きなヤマは、この武鑑の詳細な分析である。
西町奉行新見正路の日記と西町奉行所図から彼らの生活が浮き彫りにされる。注目すべきは、懐徳堂預の中井七郎(碩果)を招いて夜講をした。月三回『貞観政要』や『論語』の講義が行われたということだ。懐徳堂といえば「町人が作った学校」というイメージだが、すぐに官許化されるわけだし、中井竹山は家康の一代記である『逸史』を著して幕府に献上しているから、幕府との関係をもっと追究すべきなのだろう。ちなみに新見は和歌では冷泉家に入門しているというのも面白い。和歌研究者には大坂武士の冷泉派って盲点ではないか(すでに押さえておられたらゴメンナサイ)。また懐徳堂最後の教授並河寒泉も代官竹垣直道に招かれて講義をしている。寒泉の日記によれば、九人の幕臣に出張講義をしているらしい。
加番の増山雪斎が蒹葭堂を何度も訪れていることにも触れている。蒹葭堂もまた増山を何度も訪問している。こうしてみると大坂の幕臣は文事が大好きなわけで、大坂といえば町人文化圏ばかりを追っかけてきた感なしとしない文壇研究もよく考えないといけないですね(自身へ言い聞かせています)。
ところで大坂の祭りを描いた絵図に侍が描かれておらず、それが「大坂に侍は少ない」のイメージを増幅していたのだが、それは城内の武士は「札留」され禁足令が出ていたからだという謎解きも鮮やかである。
他にも面白い話が満載なのだが、これくらいにしておいて、最後に中村幸彦の「天下の町人考」を挙げ、「天下の町人」を「大阪だけが封建支配の真空地帯」と解した宮本又次に対して、中村はこれを「幕府直轄地の町人」と解し、大阪町人はそれを誇ったと解していた。中村の説に信頼をおくなら、大阪=町人の都という言説は、近代に入って造られたのではないかと締めている。
この件に関して、私は思いつきではあるが、それを補う一案を持っている。大坂のイメージを造った本のひとつとして『摂津名所図会』があると思うが、『摂津名所図会』には幕府=武士の面影が除去されているように思う。大阪城も掲載されていないし、含翠堂は掲載されているのに懐徳堂はない。官許化されているからではないか。まあ名所図会は全体として朝廷中心につくられてはるのだが、こと『摂津名所図会』それも大坂之部について言えば、その挿絵を通覧すると「町人の都」とだなあと誰もがイメージを刷り込まれるのではないだろうか?
このことも考えてはみたいのだが、その前にやることがたくさんあるので、できるかどうかは怪しい。
2023年12月02日
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