シリーズ大阪本第3弾は、谷沢永一編『なにわ町人学者伝』(潮出版社、1983年)である。
大阪という町は、江戸時代からマルチタレントを輩出している。専門的な学者ではなく、遊芸的に学問を楽しむ町人たちが文化壇を作っていた(中村幸彦「宝暦明和の大阪騒壇」『中村幸彦著述集』6)。その伝統は昭和まで続く。
この本は読売新聞本社が企画、谷沢永一が相談を受け、人選を肥田晧三に一任して、読売新聞の筒井之隆が取材調査し連載したものの単行本化である。取り上げられた人物は、富永仲基・入江昌喜・木村蒹葭堂・草間直方・山片蟠桃・橋本宗吉・間長涯・平瀬露香・南木芳太郎・佐古慶三である。
各人について、まず谷沢永一がその学問の意義を、紙礫的文体で見開き2頁に記し、次いで参考文献付記としてその人物についての研究史を掲げ、それに筒井の評伝が続く。最後の佐古慶三だけはこの当時存命であり、長い聞書が特別に付されている。さらには連載時のコラムだった肥田晧三先生の「大阪の名著発掘」があり、この部分は大阪学の基礎文献解題でもある。お役立ち度が高い。
すべての章が面白いが、白眉は最後を飾る佐古慶三である。佐古は「道頓堀を開削したと言われてきた安井道頓という人物は実在しない。開削したのは成安道頓だ」と明らかにしたが、これは安井の子孫が大阪府と大阪市を相手取って起こした「道頓堀訴訟」の際に佐古が意見書を提出したことで大きな話題となった。さすがに国史大辞典には開削者を「成安道頓」としているが、Wikipediaには相変わらず「安井道頓」となっていて、今でもそう思っている人は多いのではないか。
船場の商人の子どもであった佐古は「政治と権力をカサに着る奴が大嫌い」であり、相手がどんなに偉い学者であっても敢然とかみついた。大阪高商を卒業し、東京高商専攻部(現一橋大)に進み、古文書研究をやるため京都帝国大学に入学した。佐古は京大教授の書いた経済史の本を「経済史と社会史を寄せ集め年代別に編んだに過ぎない」と弾劾した。いったん講師を務めていた大阪高商を辞したあと、大阪樟蔭女子大教授になるまで27年間空白があったのは、京大閥で押さえられていた関西各大学から門を閉ざされたからだというのだ。大阪高商をやめたのも校長と教育方針で一悶着起こしたからだった。
さて、特別に付いている「《聞き書き》佐古慶三伝」は無類に面白いので、一、二紹介。
国文学者西鶴注釈が批判されていて、たとえば「織留」に「毎日一文づつ貯金して、百日ごとに一割の利息を加えて、六十歳になったら銀六十貫になりぬ」という文章がある。計算すると十五貫にしかならない。それを六十貫にあわせようと国文学者はやっているが、西鶴は語呂合わせで書いているのにすぎない(これは昭和53年に歴史読本に書いたらしい)。
佐古が見付けた史料で「多分付」という町年寄の選挙方法が面白い。投票用紙に「多分」と書けば、無効にも棄権にもならなくて、一番票数の多い人に付けたという。なかなかユニークな選挙法で、ハーバード大の教授が史料を見に来たという。
佐古と雑誌『上方』を刊行し続けた南木芳太郎は、佐古とともに、一と六のつく日にたつ平野町の夜店で真っ先に和本を物色しに行った。この二人がよるのを待って、当時の和本屋の雄である鹿田松雲堂が「もうよろしいか」と言って抜きはじめる。なんとも壮絶な風景である。
谷沢永一が信頼を置く肥田晧三先生も、典型的な「なにわ町人学者」だろう。先生とは少しだけだが、謦咳に接することができたのは幸運だった。府立中之島図書館で嘱託として働いていたところを、谷沢永一が関大に招へいし、やがて教授になった話は有名である。肥田先生の本が読みたくなってきた。
2023年12月17日
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