安井重雄編『歌合の本質と展開 中世・近世から近代へ』(法蔵館、2024年2月)。
龍谷大学世界仏教研究センターのプロジェクト「歌合の本質とその集積についての研究」の研究成果としての論文集で、11の論文から成る。
最近、私も『十番虫合絵巻』というテキストの注釈に関わった(『江戸の王朝文化復興』)こともあり、興味を持って拝読。
プロジェクトのタイトル、そして書名にあえて「歌合の本質」を謳う意気込み、単に「歴史」「展開」ではなく、そこを議論するのか!と期待した。しかしながら、「歌合の本質」を正面から論じたり、研究会でテーマとしたわけではなかったようだ。「まえがき」や各論からそれを伺わねばならない。
すると安井さんの「まえがき」に、「歌合は本質的に競合する和歌とその勝負、権威性の磁力を持つ空間、主催者・出詠者・判者等構成人員間が生み出す緊張感関係を有しており、この緊張関係が秀歌を生み出すエネルギーにもなっていよう」とあって、この会の共有する見解なのかと思われた。また「小澤蘆庵による歌合の収集と集積の調査」がこのプロジェクトの前身プロジェクトの内容だったが、「歌合写本が集積され再び利用される過程に歌合が含み持つ本質的問題とその展開の様相が窺えるようにも思われる」とも言う。「集積」はプロジェクトタイトルでもあるので、ここのところはもうすこし解りやすく説明してほしい。全体としては、歌合の判詞を読むというより、行事・パフォーマンス・場としての「歌合」について諸論言及している印象があり、それが安井さんのいう「本質」と響き合うのかなと思った。
近世編では、神作研一・大谷俊太・大山和哉・加藤弓枝四氏が論考を寄せている。神作研一さんは歌合の刊本年表に加え、近世歌合の「諸問題」を概観した趣だが、最も注目されるのは、堂上地下が一堂に会して行われて近世和歌史の画期となったとされる「大愚歌合」に遡る寛政四年以前に、すでに堂上地下混合で地下歌人(澄月)加判という歌合が行われたことが、新資料「武者小路家五首歌合」という資料から解るというもの。全文の翻刻が待たれる。ちなみにこの歌合には女性が含まれているのも看過できない。
近世編で「本質」という点にもっとも切り込んでいるとみなすことのできるのは、大谷論文である。この歌合を最後に宮廷歌合が終焉したことで知られる寛永十六年仙洞歌合の「実態」を、高梨素子氏の先行研究を踏まえつつ、諸資料を駆使して考究する。後水尾院は、勝ち負けを競うよりは和歌習練の場だと思っていたようだとする。しかし後水尾院自身が判をしたわけではない。参加者自身が、後水尾院の思惑にかかわらず、勝負を気にするわけで、そうなることは院もやはりわかっていたのだろう。院の立場としては、和を尊び、万人に調和をもたらすことだから。それで判を三条西実条にさせたのだが、これが物議をかもす一因になったようである。どうみても構図的に無理があって、その後、宮廷歌合は途絶えてしまった。そんな感じだろうか(誤読ならごめんなさい)。
有名な、忠見と兼盛の名歌同士の番を持ち出すまでもなく、勝負事の体裁を取る以上、負けた方が個人的にも、「家」としても、そして師匠もろとも、傷を蒙る。そこで、負けないような周到な準備や、負けても傷つかないような配慮や、勝たせるような忖度が行われる。この「人間関係」と「歌学向上」とが、葛藤し、「人間関係」が肥大したときに、歌合の実施は困難になる・・・のかな?
もっとも、歌合が地下にも展開し、身分違いの者が同席する会となると、また様々な「人間関係」が関わらざるを得ない。
どうも、私の下卑た読み方では、歌合の本質は、「人間関係」ということになってしまいそうである。良い読者ではない。
さて、小川剛生さんの講演があったらしいが是非活字化して載せてほしかったです。
いろいろ妄言を連ねましたが、大変勉強になりました。ありがとうございます。
追記:小川剛生さんの講演は、『古典文学研究の対象と方法』(花鳥社、2024年3月)に収録されていました。
2024年05月12日
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