2024年11月25日

戦乱で躍動する日本中世の古典学

2024年7月に文学通信から刊行された前田雅之『戦乱で躍動する日本中世の古典学』。すでに刊行から4ヶ月経とうとしているが、本書に言及せずして、今年を終えることはできない。とはいえ900頁を超える大著である。向き合い方によっては年を越してしまう。よってここでは、そのほんの一滴を掌に載せて、しばし観察してみたい。
プロローグで、いきなり「文学と戦争の親和性」が提起される。たしか前田さんは軍事史をもうひとつの専門とする方であり、「文学とは平和への祈り」という甘いテーゼを容認するはずはない。私は、かつて(院生時代)中上健次が平和のまっただ中で「文学(者)は戦争を欲している」という見出しの文芸時評を書き、それを相部屋の近代文学専攻のN君が見て興奮していたことを思い出した。
一方で、著者のいう「古典公共圏」のベースに置かれる、古今、伊勢。源氏、朗詠集の四大古典には、戦乱のかけらも見られない。そこは、どのように考えればいいのか。本書を読むに当たって、いやおうなく読者は問題意識を植え付けられるのである。
第一部「和歌の世界」の序論には、すでにその見通しが述べられている。「戦乱・政治変革と古典・和歌の相互補完的循環構造」の論から引用する。

 「文事」「文学」の外部に属する政治変革(政争)・戦乱といった例外=非常事態が、現状に対する激越な危機意識や喪われた過去を求める始原回帰意識、もしくは、それらかれ連想的に想起される秩序恢復願望などを惹起・勃興させることになるだろうと。その時、その具体的かつ有効な道具や手段、否、そうした意識を叶え、具現化する装置として、古典・和歌が用いられるのではないか。そうして和歌・古典活動が活発となり、それら自身が種々の変容を伴いつつ改良・革新しながらこれまで以上の広範な階層にまで流布拡大していく。こうした一連の展開を見て、政治変革・戦乱は、古典・和歌にとって、あたかもイノベーションと同等の役割を果たしたと考えてみたいのである。

 応仁の乱と宗祇ら連歌師や三條西実隆そして武将らの古典への熱意、南北朝から室町にかけての不安定な政情の中で着々と企てられる勅撰和歌集などの例をあげ、各論でそれを精緻に検証してゆく。

第二部「古典学の世界」では、従来の国文学の方法では析出できない、古典と呼ばれる書物とはなんだったのか、それらはどういうものだったのか、どうしてこれらの書物がよく読まれ、かくも保存されたのか、という、いわば書物学を取り込んだ古典学を展開する。筆者の持論の「古典公共圏」をきわめて体系的に論じている。総論と各論を効果的に交え、巨大な「古典学」学が姿を現す。

 古典(学)不要論の現代を見すえつつ、なぜ古典学が必要なのか、この論文の集成が一つの挑戦的な回答を具現化しているのである。以上、とりあえずの感想である。
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