昨日ポストした近世随筆研究会の刺激が効を奏して、書き淀んでいた原稿が一気に進み、完成してしまいました。めでたし。この原稿、やや長めの書評なのですが、なにせ完全な専門外(いや、広い意味では専門内だが不得意なジャンル。論じる資格も本来ないような)の研究書。その関係の先行文献をきちんと読んでいる、そのジャンルの専門家がやるべき仕事だと思うのだが、私に依頼してきたってことは、その専門ではない立場から書いてくれということだよねーと勝手に解釈していたのだが、それでもやはり遅々として筆が進んでいないところに、きのうの中森爆弾。そうやん、専門家ぶって書かなくてもいいんや、とリラックス。その途端楽しく書けました。終わって送信した。書評としてはどうなのかわかりませんが、もともと人選が「不適切にもほどがある」のだから、仕方ないでしょう。
と、関係ない話をしましたが、流れからいくと、ここはもうくだんの中森康之さんが金子はなさんと編んだ『門人から見た芭蕉』(和泉書院、2024年8月刊)を取り上げないといけないでしょう。いやはや長いこせと気になりつつもこちらに挙げていませんでしたな。
門人から見た芭蕉ってなかなか面白いですね。
序論で中森さんが提起するのは「芭蕉風」と「芭蕉流」。芭蕉と其角って全然俳風違いますよね。許六は疑問に思ったんだって。でも芭蕉に言わせれば、「俺の俳風は閑寂を好んで細い、其角の俳風は伊達を好んで細い」。自己の根源的欲求(好んで)が表出したのが「風」である。しかし、繊細に感じ認識するところ(「ほそし」)は共通している。それが「流」である。「風」は違っていい、「流」こそが芭蕉門が共有する感覚であると。それが「芭蕉流」と呼ぶべきものである。実に納得。私の師、中野三敏とその門人たちで考えてみても。仮に「門人からみた中野三敏」ってテーマで、板坂耀子・白石良夫・園田豊・ロバート=キャンベル・宮崎修多・久保田啓一・高橋昌彦・入口敦志・川平敏文・勝又基・盛田帝子・・・まだまだおりますがごめん割愛。まったくの第三者が、それぞれの門人の中野先生との関わりを書いたらって想像すると楽しいですね。みんな「学風」は違うけど、どこか「中野流」であるところが共通しているって話である。
きのうの研究会で中森さんは、研究を外に開くべきだということを言っていた。それにはこうしたいという強い志が必要であると。では、中森さんにおける俳諧研究の志ってなに?中森さんは「はじめに」でこう言っている。「私は、古典文学研究の大きな役割の一つは「共有」の感度を育むことであると思う」。こんなことをこれまで言った人いるのか?いや、現代が分断の時代だからこそ、中森さんも言うのだろう。古典文学研究は、これまで比較して違うところを問うことが多かった。連歌と俳諧はどこが違うかとかね。幸いこれも昨日の中森さんの話で出ていたこと。形式は同じ。俳諧も連歌の一種だし、と。
中森さんは言う。「見方を変えよう!」と。違いを見つけようとせずに、共有点を見つけようと。この本のコンセプトはここに集約される。
それを踏まえて各論は書かれる。悪いけど、各論を論じていたら、本格書評になっちゃうので、自由なブログとしては、金子はなさんの「あとがき」を借用しよう。多様性に富む芭蕉の門人達。しかし彼らには共有している芭蕉観があった・それが「理想の俳諧を徹底的に探究し、変革・深化させ続ける人間」というものであり、彼らの共有する思いは「何としてもこの師を理解し、ついて行きたいという切実な感情」だったと。
各論は、どれを読んでも、門人の芭蕉へのそれぞれの思いが、それぞれの研究者の見方で論じられている。芭蕉はどう共有されたか、という新しい問題意識を「共有」して。この共同研究の形もまた新しく、そしてゆかしい。いろいろ考えさせられる一書である。
2025年01月27日
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