2025年02月26日
本の江戸文化講義
『本の江戸文化講義ー蔦屋重三郎と本屋の時代』(角川書店、2025年1月)は、大河ドラマ「べらぼう」の考証を担当している鈴木俊幸さんの「近世文学」という授業を書籍化したものである。コロナ禍の時期に、オンデマンドで配信した講義原稿を基にしたもの。原稿は文字テキストだが、文章は講義調としているため、実際の講義の文字起こしのようで臨場感があるのが不思議である。鈴木さんが、ちょっと斜に構えた口ぶりで大勢の学生を前に楽しそうに授業している絵が浮かんでしまうのである。
「近世文学」という授業は、「文学史」いや「文芸史」として構想されているが、 ここには、『奥の細道』も『雨月物語』も出てこない。そもそも、著名作家の著名作品をつないだものは「文学史」でもなんでもないと鈴木さんは説く。
本というモノを手に取り、その流通を明らかにすることで、江戸の文化にせまる。取り上げられる本もこれまで取り上げられることもなかった、ありふれた本であり、その本を扱う本屋や、読者も、これまで誰も光を当てなかった人である。そのような視点で、「諸問題」的な論じ方ではなく、「史」として構成し、しかも学生にも面白く、分かりやすく叙述していくのはまさに名人芸である(ちなみに、本の中での自著紹介の際に、「名論文」とか「傑作」とか「名著」とか言ってたりするのだが、その通りなので突っ込みようがない)。
鈴木さんは長いこと自身の科研費で『書籍文化史』という研究誌を出しておられたが、この授業は、江戸時代のイメージを一新させる「書籍文化史」だと言えるだろう。
鈴木さんの近世観は、第一章に示されている。私の見るところ、鈴木さんの文学史の捉え方は中野三敏先生の考え方とかなり近い。これは、鈴木さんが中野先生に影響されたということもあるだろうが、江戸時代の本をたくさんみることを基盤にして、文学史を見ていくと自ずからそうなるのだ、とも考えられる。活字化された本文ではなく、本というモノをたくさん扱って、江戸時代の文化を実感すること、それなくして江戸時代文芸史は語れないことを、改めて確信させる。
本書が他の追随を許さないのは、第四章以降である(ちなみに第四章は蔦屋重三郎が主役)。長年の調査研究で、鈴木さんが気づき、考えたことを起点に、鈴木さんにしか書けない具体例を紹介しながら、各章が構築されている。いわゆる名も無い普通に人々の「文学」的営為を掘り起こし、鮮やかに蘇らせる。これまで、鈴木さんのいくつかの本で読んできた内容が、「史」として繋げられていく。その中には、「日本史の常識」をくつがえすような見解が少なくない。たとえば、「出版統制」は守られていないからこそ何度も御触れが出るのだとか、「寛政異学の禁」については幕臣が試験をうけるための基準を示したものだとか、実際はこのようなものだという説明は説得力がある。
本書の中には、本文をあげて、じっくり注釈的鑑賞的に説明するもの見られる。『好色一代男』の冒頭部であったり、洒落本『傾城買四十八手』「しっぽりとした手」であったり。これらの作品は、私も授業でやったことがあり、大体同じことを言っていたので安心した。もっとも『好色一代男』とその追随作の好色本については、「文学」史上ではなく、出版史上の意義をもっと考えるべきことが主張され、「本替」という独特な商慣習により、好色本が本屋に利をもたらしたことが、丁寧に説明されるあたりは、なるほどとうなずくばかりである。
もちろん、この本が「近世文学史」(ちなみに鈴木さんは「文学」という言葉を使わない。どちらかといえば「文芸」だというのも、中野先生と同じ)の標準になるかといわれれば、それは違うだろう。あくまでこれは鈴木文学(芸)史であり、唯一無二のものである。この本を教科書にして授業を組み立てるのは、鈴木さんなみの知識のある方でなければ、相当な勇気が必要になるだろう。
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック