2025年02月28日

古筆見の仕事

 勉誠社の『書物学』は創刊されて10年以上、このほど26号を刊行した(2025年2月)。文学研究は、本文(絵)だけではなく、本をモノとして対象化し研究することが重要であることは、21世紀になってから、おおむね常識となった。とはいえ、「書誌学」「書物学」という授業が、大学のいわゆる国文科(日本文学科)で、どこにでも開設されているという状況にはまだまだなっていないと思う。いわんや中学・高校においてをや。一方で、日本近世文学会が行っている「くずし字出前授業」では、実際の和本を見せながら講義することが多いが、生徒はかなりそれに食いついてくるようだ。『源氏物語』研究においても、書誌学的観点から提言を行ってきた佐々木孝浩さんの「大島本」論が、大島本の従来の評価を大きく揺るがしている。
 その佐々木さんが中心となって企画編集した本号は、徹底的に古筆鑑定にこだわった特集である。
 上田秋成にも、古筆鑑定にまつわる話が『胆大小心録』などにあり、江戸時代の人々の古筆への関心が並々ならぬことの一例となっているが、今回は、江戸時代の話が多く(その割に近世文学研究者の執筆がなかったのは、やはり近世文学研究が版本中心で、古筆を材料にすることがあまりないからか)、非常に興味深く読ませていただいている。
 とくに佐々木さんの「文化としての古筆鑑定」という考え方に納得させられた。たとえ、それが真筆ではなくとも、「伝〇〇」とされていることは、鑑定者が江戸時代の人であれば、江戸時代における鑑定に何からの価値があるということにほかならず、それを示すことは真贋を明らかにすることとはまた別の意義があるというのだ。また、伝承筆者を基準にすることで、古筆切の研究(分類や識別)の大きな助けになるという。また古筆見の立場からすれば、彼らは「わからない」とは言えず、ともあれ誰かの筆跡に比定しなければならない。つまり、噓をつく宿命を担わされている。とはいえ、まったくの出鱈目で古筆家が何百年も続くわけがないので、そのように鑑定されたことには何らかの意味がある。それを考えるのが、古筆鑑定研究の大きな意義なのである。
 慶應義塾大学に寄贈された「古筆本家関係資料」の調査研究を元に、古筆見の活動と鑑定書についての検討の必要性を痛感されて、本書の企画が成ったという。
 佐々木さんの論考は、その趣旨に基づき、西鶴の浮世草子作品に出てくる「古筆」を検討し、この時代の古筆文化を鮮やかに浮き彫りにした。これは、文学作品研究の立場からはなかなか発想できないことだが、たしかに『好色一代男』の主人公世之介が、古筆切を材料にした紙羽織を着ていること、長崎丸山の遊女が、定家真筆の、世に知られていない古筆切六枚を張り込んだ屏風を持っていたことなど、この時代の文化を考えるのに貴重な描写である。
 また中村健太郎氏の諸稿はじつに貴重である。そのタイトルを挙げていけば明らかだろう。「古筆家歴代について」「古筆鑑定書の形式と種類」「古筆鑑定文書の「琴山」印について」「古筆本家歴代および極印一覧」。圧巻である。「琴山」印は、私などでもよく見るものだが、それが五種類もあるとは。
 ともあれ、古筆切に関わる研究をやっている人は必携である。
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