昨年12月に出た本の紹介。今頃になって済みません。中嶋隆さん訳注の『世間胸算用』(光文社古典新訳文庫)。言わずと知れた、大晦日一日の町人の悲哀滑稽を描いた西鶴の傑作。会話は関西弁(のステレオタイプ?)で訳されている。これは新訳ならではの新趣向、少し前に同じシリーズで田中貴子さんが噺家の文体で『好色五人女』を訳していたが、それとおなじくチャレンジングである。現代語訳ではあるが、西鶴らしいテンポのよい文章として、全編味わえました。
これまで支配的だった「西鶴の鋭い(透徹した)現実認識・人間観の反映」などという読まれ方に対して、それはおかしいと若い頃から思い続けてきたという中嶋さんの西鶴作品論が、巻末にたっぷりと述べられていて、たいへん面白い。それをここで説明したり要約するのも野暮であるので、詳細は本書参照でお願いしたいが、「あとがき」にご自身の体験を書かれているように、悲惨な状況に置かれた自分が何か滑稽でおかしいと思う感性、それを持っている読者が共感するからこそ、西鶴はおかしく、面白い、とおっしゃっているのは、それこそ共感する。私もそういうところがあるのだが、近世文学研究者には、自分の失敗や悲惨話をネタに人をわらわかすタイプの人が割と多いのではないか?まあ、そういう人とは友達になれそう、って思うのだよね。
さて、中嶋さんは、作品論として、いろいろ面白いことを言っておられるが、西鶴作品にみられる「空白のコンテクスト」の指摘は重要である。最後、あるいはそれからどうなったのか、が書かれていないことがあって、その作品解釈は人によって分かれる。たぶん、優れた読み物には、大抵そういうところがあって、秋成の『雨月物語』の各篇もそうで、「菊花の約」や「青頭巾」の多様な解釈は、まさに空白のコンテクストによってもたらされているのだ。もちろん、空白のコンテクストがあれば、名作になるという逆はただちには成立しない。しかし、優れた作品には、空白のコンテクストがある、という説は成立するのではないか?まあ、古代史が面白いのは、史料の空白が大きいからですよね。「空白のコンテクスト」をテーマに、さまざまな作品を読むシンポジウムとかやったら面白そう。一般読者も巻き込んで。だんだん、話が逸れてきたので、ここまでにしておこう。
2025年05月15日
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