序章の初出は読んでいるし、感想をブログにも書いているが、単行本の序章として、あらためて読み直して、様々な刺激を受けた。
「文学史」に関心があっても、実際に書くというのは大変である。複数で書いた「〇〇文学史」は、実は「文学史」ではないと思う。岩波講座の「日本文学史」はひとつの指標となっているだろうし、ある程度編者の「文学史観」が出ているとはいえ、中嶋さんのいう「文学史」とは違う。「文学史」は「個性」的でなければならないし、それは、従来にない史観を打ち出すということである。私はこれに共感する。私自身が構想した(だけにすぎないが)「仮名読物史」というのも一応そのつもりなので、共感するのである。「文学史」は「通史」である必要はない。史観に基づく叙述をしたものであれば「文学史」であろう。
中嶋さんは、「発展的文学史観に替わるパラダイムは何か、を追究する」のが目的であるという。
「出版メディアの成立した近世を「近代初期」と位置づけ、最終的には近代初期(近世)文学の様式が、天皇制がパラダイムとなった「近代中期(明治三十年代〜大正)に、ヨーロッパ文学の影響を受けつつ再生・展開される過程でいかに変調したのか、そういう視座から文学史を書きたい」という。
文学史を「個性」的にするためには、「作品を成立させた諸要因を多元化し、複数の通時軸から作品を位置づける必要がある。通時軸の多様な設定が、文学史の「個性」となる」。そして「通時軸をめぐる対話・論争によって、「今」が反映された文学史パラダイムが形成される。そうして初めて文学史の「個性」が、「今」という時代性に昇華するのだ」と。
そこから、ひとつの事例として中野三敏先生の「西鶴戯作者説」の批判を行う。中嶋さんは次のように言う。「西鶴戯作者説」を唱えるなら「中野氏自身の通時軸を明示すべきだ」ったが、当初それは示されていなかった。ただ「西鶴戯作者説再考」(2014年)では、「現実の全肯定」「表現第一主義」「教訓と滑稽を第一義」という三点の通時軸が示され、それは評価できるが、この三点は作品解釈を通じた「読み方」であり通時軸としては妥当性を欠くという。「戯作」全般のなかに西鶴は位置づけられるからだというのであれば、文学史の問題としてそう主張し、論を展開すべきであると。
ここで私見を入れるなら、中野先生は「そう主張」していたのではないか?たしかに中嶋さんのいうような「文学は文化構造を反映する」という考えはあまりなかったと思うが、通時軸(評価軸というべきか)としては雅俗のバランスの推移があり、それを「ひとこぶラクダ」の比喩で説いていた。中期がもっともバランスがよい時期であると。江戸時代を人の生涯に見立て、江戸中期を壮年期とした。その見方は江戸時代で完結しているため、「中世から」と「近代へ」という観点がないとは言えよう。それは「文学史」とは言えない、という批判はよくわかるが、中嶋さん同様「発展的文学史観」へのアンチテーゼであることは確かであり、このような言い方をすれば中野先生から叱られるだろうが「反=文学史」という「文学史」なのではないか?それは、明らかに個性的である。
中嶋さんは、中野批判が、小説史の座標軸を示そうという本稿執筆の動機となったと述べるが、中嶋文学史は、中野反=文学史に対して、もう一度文学史を建てる(反=反=文学史)ということであり、全体的にみると、それらは弁証法的に推移しているのである。
閑話休題。中嶋さんは、座標軸を考察する視座として「メディア」「文化構造」を挙げる。そして座標軸(表現様式に関わる)は「現実再現」である。「文化構造」は、「経済的、社会的構造が文化に反映するという立場にたつ」ので、歴史社会学的方法に近そうだが、唯物史観を通時軸には設定しないと強調している。とはいえ、では「文化構造」って何?と問うと、それ自体の定義が明確ではないように思う。では自明の概念なのか?私は「文化構造」は自明の概念とは言えないのではないかと思うが。
もっとも、中嶋隆さんの主張、すなわち「中世の文化構造は、メディアによって再編されて新たな文化構造となった」というのは理解できるし、その新たな文化構造は、近代の文化構造の先駆け、つまり近代初期といえるという論理もわかる。近代的といえる「均質化された知の共有」は、版本文化抜きにはない。パロディ文化もその文化構造の再編で説明できる。〈「俳諧的」の小説〉という奇矯な表現も、また同様である。
そして「現実再現」とは、リアリズムではない。そこにはリプレゼンテーションとルビが打たれている。「現実再現」は、現実の模倣ではなく表現の模倣として展開した、そこに近代初期の日本文学の大きな特徴がある。卓抜で個性的な文学史観である。そして、このあたり、金水敏氏の「役割語」の考えとリンクしそうで面白い、と勝手に思う。
思いがけず、長文になってしまった。その割にはかなり文章が乱れているが、書評ではなく、一読者の感想としてお許しいただきたい。おこがましいが、拙著『仮名読物史の十八世紀』と書名が近いので、ちょっと喜んでいたのだが、中嶋さんのスケールはとてつもなくでかいし、考察は広く、深い。逆に書名が似ているのが恥ずかしくなってしまう。しかし、あの中嶋さんの目配り(俳諧・演劇・絵画・和歌・・・)は必然なのだった。「小説史」と名乗っているけれども、いわば「表現史」である。それができるのがまたすごい。考えてみたら、俳句も実作されるし、小説も書かれるのは、この「個性」的な文学史観と無関係ではなさそうである。あらためて敬服の意を強くしたのである。

