2020年08月09日

オンライン科研研究会報告

昨日、8月8日、私が代表をつとめる科研基盤研究(B)「近世中後期上方文壇における人的交流と文芸生成の〈場〉」研究会をオンラインで開催しました。科研メンバー・私のゼミ学生に加え、菱岡憲司さん、天野聡一さん、ワシントン大学の院生、北大院生、大手前大院生、そしてなんと大谷雅夫先生も後半から参加して20名の会となりました。
発表内容は下記の通り。

飯倉洋一 雅俗往来−近世中後期上方文壇の一面
盛田帝子 本居宣長記念館所蔵『妙法院宮真仁法親王和歌懐紙』をめぐって
高松亮太 文化ノードとしての実法院 
一戸 渉  摂津呉田吉田家三代の文事と出版

 私の発表は、本科研のコンセプトに則ったアバウトな見取り図提示。一戸さんから、「雅俗往来」というのは「雅俗融和」(中野三敏先生)に対するアンチテーゼ、つまり雅俗は融和なんて出来ないという主張ですか?という意味のことを質問されて、逆に「なるほど〜、そういうことになるか」と思ってしまいました。他の方の発表については、論文化する前ですから、ここでいろいろ言うことはやめておきますけど、いずれも私とは違って、密度の高い、よく調査された発表でした。とりわけトリの一戸さんの重厚さには感心しました。
 議論はとても活発で、さきほどの「雅俗」をはじめ、「懐紙」「好古」「歌合」「収集」「物」などをキーワードに、文化・社会・政治・経済など非常に大きな視点・背景を併せ考えるようなやりとりでした。懇親会前に「疲れたので」(別研究会とかけもち)と言って離脱された大谷雅夫先生、閉会前に戻って来て「散歩してきたら頭が回転してきましてね」とのたまわって、ある問題について、とてつもない「爆弾」を落とされました。あまりの発想力にたぶんそこにいたほぼ全員、衝撃を受けたのではないかと思います。
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2020年07月25日

『和歌を読み解く 和歌を伝える』

 早稲田大学のオンラインワークショップ「テクスト遺産の利用と再創造」で、海野圭介さんとご一緒した。互いに絡むことはなかったのだが、海野さんとは同僚として何年か共に過ごした中であり、いろいろとお世話になっているので、嬉しいことであった。そして海野さんのちょっとしたご発言から、大きなご示唆を得た。そういう時に、ちょっと必要があって、彼の論文集『和歌を読み解く 和歌を伝える−堂上の古典学と古今伝受』(勉誠出版、2019年2月)のページを全部めくった。家人が研究領域が近く、ご寄贈いただいていたもの。
 あとがきに、初出稿の原稿依頼をした一人として私の名前が出ていて、なんという義理堅さと驚いたのだが、一方で私は、いろいろ助けていただいた海野さんに何の謝辞もこれまで述べていなかったような気がして、せめてこの場を借りて謝辞を述べようと思ったのである。
 その前に、この大部の本について、印象を述べる。(レビューはもちろん、感想すら述べる資格もないので、「印象」である)
 本書の意義については、伊井春樹先生の序に尽くされているのだろう。海野さんは、もともとは中世和歌がご専門だったと思うが、近世にもかなり食い込んでいて、日本近世文学会の査読雑誌でも編集委員を務めているくらいである。中世以前の業績については存じ上げないが、近世期の領域としては、近世前期から中期にかけての古今伝受の実態を、博捜された資料を基に、緻密に解明しておられるというのが、私の海野さんに対するイメージだった。ところが今回の論集には、熊沢蕃山の源氏物語観が堂上の源氏学に影響を与えているいるという指摘もあり、スリリングだった。これも、海野さんが京大の中院文庫の本を悉皆的に調査されたところから生まれたものだろうということが、理解された。ひとつの文庫を全部みるという勉強は、いろいろな成果を生むということの一例がここに示されている。そして、確かに海野さんの研究は、ジェルリーニさんの「テクスト遺産」の概念と親和性が高いなと思った。海野さんは、ハルオ・シラネ氏の元に留学経験があり、緻密な実証的研究をやりつつ、世界の中の日本文学研究の位置づけをし、発信のできる数少ない人材である。今後、彼の果たす役割は非常に大きくなるだろう。
 最後に謝辞。実は、私は海野さんに恩義がある。少し前に上梓した『文化史のなかの光格天皇』に原稿をいただいたこともそうだが、私が阪大に来てしばらくして『上方文藝研究』という雑誌を立ち上げた際に、創刊号から第4号まで立て続けに、原稿を寄せてくれたのだった(それも本書に収められている)。これがどんなに心強いことであったか。院生で論文を書けるような学生がまだあまりいなかった時だけに、OBの力添えは本当にありがたかったのだが、海野さんはとりわけ同僚だっただけに、惻隠の情にかられたのだろう。ここで改めて感謝申し上げる。
 
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2020年07月19日

テクスト遺産のオンラインワークショップに参加して

 前のエントリーでお知らせしたオンラインワークショップ「テクスト遺産の利用と再創造」、222名の方が参加を申しこまれ、実際にも多いときで210名くらいが視聴していたようである。「テクスト遺産」というのは日本文学研究界隈ではまだ聞き慣れないタームである。これは「批判的遺産研究 critical heritage studies」という近年の新しい論理的アプローチによる遺産の解釈に基づくものである。本ワークショップを企画したエドアルド・ジェルリーニ氏の説明によれば、批判的遺産研究において、遺産とは過去の文化財そのものを意味するよりも、過去の文化財をめぐってさまざまに行われる文化的営為を指す。その文化的営為は、保存と修復を行うのみならず、過去の遺物を選択し、評価し、変更し、場合によっては破壊する。このような文化的な営為を「遺産」と称するというのである。
 文化遺産の中に、テクストとしての「古典」は入っていなかった。たとえば源氏物語を文化遺産に指定しようとしても、いわゆるモノとしての「原本」は存在しないからである。しかし、「批判的文化遺産」の考え方によれば、源氏物語は十分にその対象たりうる。そして、古典を未来に活かすというビジョンに、このアプローチは非常に有効であるように思う。
 去年の夏、ジェルリーニさんとお話する機会を得て、この「テクスト遺産」の概念を私なりに理解し、非常に共感を得た。そして、このワークショップに参加させていただくことになったことは、望外の幸せであった。
 オンラインになったものの、ワークショップが開催されたことは本当によかった。むしろオンラインになったため、海外から多くの人が参加できるようになり、また普通ならありえない高校生の参加もあったという。
 さて、基調報告のジェルリーニさんと、前田雅之さんの基調報告は10分、所有性・作者性・真正性というテーマで分けられた各セッションのパネリストの持ち時間は5分、司会のコメントは1分という、経験したことのない超タイトなタイムスケジュール設定。さすがに時々ちょっとしたハプニングや臨機応変の対応があったものの、集まった人々がプロばっかりだったため、全体としてはほぼ予定通りに進行したのは、驚きだった。
 私は第2セッションの「作者性」に参加した。渡部泰明さんが「和歌の作者性」について、兵藤裕己さんが、「物語における「作者」の発生」について、広くて深いお話をなさった。いずれも唸るような指摘の数々、大いに勉強になった。私のは時代も作品も限られた話であったが、関心をもってくださった方がいたのでほっとした。私たちのセッションでは、前田雅之さんが司会だったが、外部コメンテーターとしてハルオ・シラネさんが登場し、渡部さんや兵藤さんと議論をなさったので、進行が大変だった様子である。パネル発表はどの発表も、ワークショップの趣旨を踏まえて、実に要領よくまとめられ、かつ大きな問題提起をするものばかりで、大いに刺激をうけた。
 これからの日本文学研究は、緻密に深掘りすることと、世界の日本研究者に興味を持ってもらえる問題意識をもつことの両方が備わってなければならないと、またまた思い知らされたわけであるが、そのためには、できるだけ、国際的な研究交流に積極的であることが大事だろうと思う。そうでないと、感覚的に自分の研究の位置づけができないのである。微力ながら、そういう機会を作っていくのが、我々の役目だろうと思った。
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2020年07月14日

テクスト遺産の利用と再創造

まずは、このプログラムご覧下さい。
私を除き、錚々たる顔ぶれと、意欲的なタイトルですね。主催は早稲田大学。
 「古典」の新しい捉え方を議論しようとするオンラインシンポジウムで、エドアルド・ジェルリーニ氏と前田雅之氏の基調報告2本のあと、「テクスト遺産」という概念を軸に、テクストの所有性、作者性、真正性という3つのテーマでセッションが行われる。私が出るのは第2セッションだが、このセッションには渡部泰明氏と兵藤裕巳氏という、大物お二人が登場。さすがにテーマも大きくて、扱う範囲も広い。こちらはなんだかちまちました話、どうぞお許し下さい。他のセッションもすごいメンバーを揃えているので、とにかく勉強させていただくつもりで。
 このシンポジウム、海外からの参加もあるということで、午前のかなり早い時間に開始されるにも関わらず、前評判もよろしいようで、参加申し込みも順調のようである。明日が締め切りです。その直前でのアナウンスですが。
 
 
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2020年07月11日

リサーチショウケース

7月11日(土)日本文学・日本史リサーチショウケースがZoomで開催された。
Research Showcaseとは、英語で国際学会発表や論文投稿に挑戦しようとする若手研究者を支援するイベントである。東京大学の附属研究所CIRJEを拠点として活動する「歴史家ワークショップ」という有志の歴史研究者たちの運営するもので、これまで、西洋史などを中心とする歴史研究者のために行われてきたものだが、今回、ありがたいことに日本文学・日本史研究者のために開いていただくことになったものである。
人的ネットワークを通じて、私も運営委員に加わり、学生に案内したり、SNSで告知するなどの広報をした。
10名の発表者とフロアをあわせ40名以上が参加した。
リサーチショウケースは、自分の研究を、ショウケースで見せるようにプレゼンするものである。専門をかならずしも共有しないオーディエンスに8分間でご自身の研究を伝え、その後7分間の質疑応答を行なうという、非常にユニークな発表形式である。
これまでは当然、会場に集まって行われたわけだが、今回は、オンラインで行われた。その結果、海外からの参加も可能となるというメリットもあった。
ゲストコメンテーターとしてロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)のタイモン・スクリーチさん、司会およびコメンテーターとして国文学研究資料館の山本嘉孝さん。
このリサーチショウは、本当に親切なシステムになっている。発表のおよそ10日前に発表原稿を提出することで、ワークショップメンバーから事前にライティングや構成についてフィードバックをうけることができるし、当日もコメンテーターから丁寧なコメントをうけることができる。
本来私などが運営委員に名前を連ねるのは、噴飯物なのだが、これも縁である。時差を考慮して午前9時からはじまったこのワークショップ、非常に愉しかったし、勉強になった。プログラムは現時点ではこちらのページから見ることができる。
発表者は留学生の方が3分の2で、もう少し日本人の若手に参加してほしかった。私自身は質疑応答やコメントなどを聞いて、大変勉強になった。阪大の大学院生も4名(うち留学生3名)参加し、それぞれ、いい発表をしてくれた(と思う)。私自身の(無謀な)海外学会挑戦が、なんらかの形でこういうところに繋がっているとしたら、たいへん嬉しいことである。
日本文学も日本史学も、学界の現状は、積み重なった研究史をふまえた、専門性の強い、実証的な方法による深掘りをやっているのが普通である。それはそれで、大事なことだが、それを、他分野の研究者に短く的確に伝えるには何が必要なのか。あらためて、考えさせられた。
休憩をはさんで3時間30分の会であったが、楽しめた。英語のボキャプラリーとリスニング能力が全然足りないことは、毎度毎度痛感することではあるが。ワークショップ後のバーチャル茶話会がIn Japanese でよかったあ。


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2020年06月12日

好古趣味の歴史

 小林ふみ子・中丸宣明編『好古趣味の歴史』(文学通信、2020年6月)。江戸時代後期から明治にかけて、古き江戸を慕う「趣味」が、ひとつの流れをつくる。それが、はじまるのが18世紀あたり。江戸開幕から100年以上たってからである。この本では古き江戸という時と場所に限定して、「好古」の営みのさまざまな事例を紹介し、論じた論文集である。「古き江戸をいかにたずねたか」「江戸東京流の記憶のとどめ方」がテーマである(小林ふみ子、はじめに)。
編集に工夫がされていて、各論の最後に「Check!」という要約が付されている。まずはここを一覧して、面白そうな論に食いつけばよいのである。
 知り合いも多く執筆しているので、興味を持った論はいくつもあるが、真島望さんの『本朝世事談綺』を「新興都市江戸の事物起源辞典」と見立てた論は、私には勉強になった。「奇談」書の中でも「奇談」の意味を考えるのに重要な本だという位置づけを私もしているが(真島さんも引用してくださっている)、これまで、その言説の典拠まで深掘りしたものはなかったのである。金美眞さんの「印地打ち」は朝鮮人が体験した印地打の話を紹介していて興味ふかい。京伝の古画への関心をテーマにした論文が二編。有澤知世さんは草双紙と、阿美古理恵さんは読本との関係。そして、本書のタイトルにも影響を与えてるのではないかと思われる多田蔵人さんの「趣味(teste)とは何か−近代の「好古」」の論は、非常に面白い。明治になって現れる「趣味」という語が、「一つの文かを〈雅〉と〈俗〉に分かつ江戸期のまなざし」を相対化する契機を作り、そして一つの価値観へと変容するさまを、切れ味するどく描写している。私の不明を恥じるしかないが、こういう切り口をこれまで知らなかったため、目から鱗、を実感したのである。
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2020年06月10日

絵入本ワークショップXU発表者募集

絵入本ワークショップXUのお知らせです。
ワークショップを主催する絵入本学会は、会費なし、何事も無理はしない、でもワークショップのレベルは高いという学会。
私も会員になったのは、実は最近で、韓国でワークショップが開かれるときいて、教え子に会いにもいけるし、という動機で入会した。
ところが、私の聞き違いで、韓国でやるのは少し先(2018年12月に開催)だったことがわかったが、あとにはひけず2017年に実践女子大学で初発表したわけである。その時のテーマは画賛だった。
 その学際性と質疑応答の面白さから、翌年の韓国大会でも発表したのだった。
そのとき、事務局の佐藤悟さんから、「次回は大阪大学でいかが?」とささやかれてしまったのである。すこし猶予をいただき今年9月に開催ということで、準備(といっても懇親会の段取りなど)をしていたのだが、このご時世、オフラインで踏み切るのはちょっとまだ早いとみて、相談の結果、オンライン開催となった。会場を提供するわけでもなく、WEB会議システムを統括するわけでもないのに、「実行委員長」を拝命してしまったのである。すでに下記のように、事務局から会員向けにアナウンスが出ている。
私はそれを拡散する係(と自覚)。まずはブログで告知する次第。ゲストはタイモン・スクリーチ氏。
大会開催案内と発表募集を同時に。大会参加も発表の申し込みも、まずは会員登録からである。オンラインだから、会員以外は入れない。登録の方法は下記の案内を見ていただきたい。ちなみにこの会、私の科研も主催グループのひとつであり、そのため科研テーマと関わる「人的交流と絵巻・絵本」を特集テーマとする。このテーマでの発表、そしてそれ意以外のテーマでも発表者を募集している。
なお、現会員の方も会員再登録をお願いしている。ワークショップに参加表明すれば、自動的に再登録となる。
下記アナウンスをご参照いただければ幸いである。


2020年6月7日
絵入本学会会員各位
         絵入本学会会長   崔京国
大会実行委員長   飯倉洋一
絵入本学会事務局長 河野龍也 
絵入本ワークショップXUの開催のお知らせならびに発表者募集
絵入本ワークショップXUを以下のような要領で開催します。新型コロナウィルスの感染状況が秋ごろに収束するかどうかが見通せない現在、リスクを避けてオンライン開催といたします。開催方式の見極めのため、告知が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

1.日時   2020年9月19日(土)午後・20日(日)午前および午後
2.会場   Zoomによるオンライン
3.費用   参加費 なし 
4.スケジュール
絵入本ワークショップXUは科研基盤研究(B)「近世中後期上方文壇における人的交流と文芸生成の〈場〉」(代表者 飯倉洋一)と共催で行われます 。
このため、仮にスケジュールを下記のように計画しています。
19日 第1部  人的交流と絵巻・絵本(1)
    第2部  基調講演 タイモン・スクリーチ氏(予定)
20日 第3部  人的交流と絵巻・絵本(2)
    (昼食休憩) 絵入本学会総会
    第4部 自由テーマ発表
    第5部 自由テーマ発表
(発表時間 20分、質疑応答15分の予定) 
第1部、第3部は「人的交流と絵巻・絵本」というテーマとし、このテーマに関わる発表を募集いたします。第4部・第5部は絵本、挿絵本等に関わるテーマの自由発表といたします。ただし、発表日の希望があれば承り、調整をいたします。

5.発表の申し込みについて
発表を希望される方は、
・発表題目
・発表要旨 600字程度
・所属(任意)
・連絡先 住所・電話番号
・メールアドレス
・事務局に対するご希望(任意)
以上を記し、Eメールに添付ファイルでお送りください。
(発表希望者で絵入本学会に登録していない方は、登録をお願いいたします)
応募締切  2020年7月10日(金)
発表要旨  600字程度
      運営委員会における審査に使用します。発表者として採択された場合は、あらためて予稿集への執筆をお願いします。書式はA4横書きでお願いいたします。
応募先   iikuraアットマークlet.osaka-u.ac.jp
      アットマークを@に変えてください。
採否    7月末に開催予定の運営委員会で審議・決定し、決定後、一両日中に連絡します。

6.ワークショップへの参加について
絵入本学会の会員に8月上旬にワークショップⅫ・プログラムを送付する予定です。それによってお申し込みください。詳細はプログラムに掲載します。
7.絵入本学会登録について
1. 氏名
2. 住所
3. メールアドレス
4. 勤務先・在学先
登録は6月末までに、以下のメールアドレスの両方にお願いします。
eiribonアットマークjissen.ac.jp
sato-satoruアットマークjissen.ac.jp
アットマークを@に置き換えてください。
以上
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2020年06月09日

享和・文化初期読本の基礎的研究

 近世文学史にいう、いわゆる「後期読本」。その始発は寛政の末ころである。その後期読本のスタイルが多様で可能性に満ちていたころ(享和元年から文化4年までの7年間)のすべての読本(『読本事典』に所載のものを除く)に基礎的な解題を施すという共同研究報告書が、『享和・文化初期読本の基礎的研究』(2020年2月)である。後期読本研究者は必携である。出来れば、電子データでの提供があれば一層ありがたいのだが・・・。
 木越俊介氏を代表者とする科研の成果で、西日本近世小説研究会という、西日本の読本研究者たちが執筆している(お名前はここでは割愛)。このメンバーはさきに文政期の読本の解題を同様に刊行した。『読本事典』が取り上げなかった作品を順次取り上げている形で、ゆくゆくは、名実ともに「読本解題事典」が完成することになる。読本事典所収のものと合わせ書式をそろえて、『浮世草子大事典』のような形になればありがたい(むむ、そうなると前期読本も網羅的解題が必要ね)。読本研究が一定の水準をずっと保ちながら、着実に進展しているのは、故横山邦治先生がもう30年以上も前(昭和!)に『読本研究』という研究誌を立ち上げ、これを後進がきちんと継承して、いまなお研究誌が続いていることが大きいだろう。雑誌の運営は横山先生のころから、ずっと献身的にやってくださる方達によるもので、頭が下がる。西日本近世小説研究会のメンバーは、この雑誌の中核メンバーでもある。
 読本作者のストーリーテラーぶりは、現代のエンターテイメント作家と遜色がない。読本全集・・・と簡単にはいかないが、そこ目指して頑張ってとエールを送りたい。
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2020年06月06日

こてほん高校生版

「高校に古典は本当に必要なのか」。昨年1月に行われた「古典は本当に必要なのか」のシンポジウムの論点が、高校の古典は必修にすべきかどうかであったにもかかわらず、高校生の意見が全く顧慮されなかったことに、高校生が立ち上がって、みずから企画したシンポジウム。それが今日行われた。
コロナの影響で、オンライン開催になってしまったが、高校生たちは本当によくこの問題を勉強し、準備していた。そして招かれたパネリスト(前回のパネリスト+日本語学者の近藤泰弘氏と、日本文学者のツベタナ・クリステワ氏を加えて計6名)に、鋭い質問を浴びせ、パネリストがタジタジになっているように見える場面もあった。オンラインで開催されたが180名以上が参加して、前回以上に問題点がたくさん出てきて、有意義であった。なにより、高校生たちの真摯さに脱帽だ。最後の企画者のスピーチには心打たれた人も多かったと思う。泣いたという人もいた。情緒に訴えたのではない。その真摯さに打たれたのである。そして賛否両論の合意点として「現在の国語の授業に問題が大いにある」というところが浮き彫りにされた。これは高校教員の教え方の問題にとどまらない。入試・教科書編集・ひいては文科省の指導要領の問題にも拡がっていく。
ただ、高校教員の方たちの中には闘志に火を付けられた人たちも少なからずいたようである。まさかの第3弾「高校教員版」をやろうという声が呟かれているようだが、果たしてどうなるだろう。
最初のシンポで「古典が必要か」などという問題設定自体を批判されもした(覚悟していたけど)。あえて否定派によりそったテーマを論題にしたことも、人選も批判された。しかし、ここまできたら、舞台はまわって、いよいよこれからが大きな議論のしどころである。この機運を醸成することがもともとの目的だったからである。
今回の高校生たちの企画がなければそれもしぼんだままだったかもしれない。しかしこの高校生の切実な声を聞いて大人が答えなければ駄目だろう。斜に構えていては駄目だろう。
それにちなみ、今年2月に書いて、刊行待ちになっている原稿を、あえてWEB公開していただいた。なにかの参考になれば幸いである。
こちらが公開された私の文章である。
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2020年06月03日

くさか史風 第5号

以前も紹介したことがあるが、河内の日下古文書研究会の会報である『くさか史風』の第5号が刊行された。放送大学で私の講座を受講してくださった山路孝司さんのご厚意により、送っていただいた。代表の浜田昭子さんが非常にバイタリティのある方で、この研究会を牽引していらっしゃるようである。秋成にもゆかりの地ということで、ご縁が出来たのである。
山路さんは生駒山人の研究をされている方で、放送大学での修士論文は中野三敏先生も評価されていた。今回も、浜田さん、山路さんの論考がそれぞれ2編載るほか、『河内名所図会』を読む、という連載が始まった。これは嬉しい。河内名所図会は摂津名所図会の挿絵でも活躍した丹羽桃渓が挿絵を担当しているものである。楽しみが増えた。
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2020年06月02日

江戸は封建制だったのか

平成29年12月、成城学園創立100周年・大学院文学研究科創設50周年記念シンポジウム「江戸は封建制だったのか−無私と個性と−」が行われた。パネリストにロバート・キャンベル氏と磯田道史氏、コメンテーターに高山大毅氏。よくまあこのメンバー集められましたね。仕掛け人の宮崎修多氏が司会。それが報告書として今年3月にまとめられた。宮崎修多氏からご恵送をうけ、目を通したが、無類に面白い。テーマは「士農工商」「男尊女卑」「救民と海防と」「無私と奇人と」の4パートに分けられる。基調講演はなしで、いきなり議論。へー、えっ、そうそう、なるほど、ふーんなどとページをくっていると、あっという間である。江戸への固定的なイメージをぶっとばすパワフルな議論が炸裂している。それにしても、磯田氏の話芸光ってますね。中身はもう全部紹介したいくらいで、いくら字数を費やしても足りません。むちゃくちゃ面白いので、どこかで見かけられたら是非ご一読を。副題の無私と個性は、無私が美徳の江戸時代になんで奇人が輩出するの?という問題意識。さてその答えは?
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2020年05月31日

KuLAのサイト出来ました。

そういえば、こちらでは告知していなかったのですが、少し前にくずし字学習アプリKuLAのウェブサイトができました。こちらです。東京大学地震予知センターの加納靖之先生の御発案で、開発者の橋本雄太さんが作成してくださいました。嬉しや。
それで、思い出しました。2018年はいろいろKuLAがらみで講演とか講習を頼まれていたのですが、なかでも国立国会図書館関西館で行われた「司書と研究者のための日本関係資料研修」は、しみまるキャップをかぶってやったのでした。最近、たまたまその研修の報告をしたページを見付けたのですが、そこに私の講演のPPT(抄)が公開されていることに気づきました。KuLA開発の成り立ちについては一番詳しいやつかな、と思いますので、ご興味のある方はご覧下さい。こちらです。
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2020年05月30日

はじめての古筆切

日比野浩信さんの『はじめての古筆切』(和泉書院、2019年4月)。もう出版から1年以上。すでに定評のある古筆切入門書である。古い筆跡の書籍が切断されたもの、それが古筆切。美術的な価値、文学的な価値、史料的な価値・・・さまざまな立場から重宝され、収集の対象となってきた「古筆切」の基本知識、そしてその魅力を、ここまでわかりやすく書けるのは、日比野さんの古筆切についての豊富な知識と愛情のなせる業。しかも、ほぼご架蔵の資料を使われた解説である。ゆえに図版をふんだんに使っている。さて古筆切の価値とはどんなところにあるのだろうか。それを最初にまとめてくださっている。1古さ、2美しさ、3有名さ、4珍しさ、5資料性。断簡だから、同じ書籍のツレがある。でもそれは別の呼ばれ方をすることがある、何故?という謎解きの面白さもある。まさにモノからの古典文学研究入門である。くずし字を勉強して、ある程度上達した人は、きっと古筆切を読みたくなりますね。刀剣に通じるところもいろいろあります。価格もリーズナブル。お勧めの一書です。
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2020年05月28日

津軽デジタル風土記

紹介したい本、論文、プロジェクトがたまりすぎている。まずは弘前大学と国文学研究資料館の共同研究成果報告書『津軽デジタル風土記資料集』は、2020年3月に刊行されたA4版400頁超のプロジェクト報告書。プロジェクト名は、文献観光資源学「津軽デジタル風土記の構築」。津軽デジタル風土記のサイトはこちらである。津軽デジタル風土記は、「弘前大学を始めとした地元の研究者と地域の自治体が協働して『津軽旧事談』のような外部に開かれたチャンネルをインターネット上に作り、津軽の豊かな資料と人々が自由に往還できる環境を整備していくことを目指している」というもの。津軽関係の面白くて珍しい資料をデジタルで公開するだけでも、すばらしい事業だが、講演やイベントを絡めて、攻める共同研究になっているところが注目される。なかなか、こういう試みはむずかしいけれども、津軽モデルとして、大いに参照されるべきものであろう。太宰の「津軽」、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」に並ぶ「津軽」アピールになってほしい。
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2020年05月05日

山本読書室の世界

松田清著『京の学塾(まなびや)山本読書室の世界』(2019年12月、京都新聞出版センター)を紹介する。
読書室とは、京都の本草漢学塾である。山本封山・亡羊以下明治まで本草・漢学を継承した山本家の堂号が読書室である。
この読書室には、本草漢学に関わる資料の他に、新聞でも大きく報道された岩倉具視関係をはじめとする維新史料が注目されている。
松田清氏は早くから山本家土蔵の調査に携わり、目録を作成(これはWEBでも公開されている)資料は京都府立総合資料館に搬入された。
平成27年から、山本読書室資料に基づくコラムを1年間京都新聞に連載、この中には秋成資料の紹介もあり、松田氏から直接教えていただいたことがある。この連載に、岩倉具視資料を加え、また重要資料の解説を増補したのが今回の本で、資料紹介部分はオールカラーである。本はやや細長い唐本風仕立て、2700円はリーズナブルである。
山本読書室の資料を広く知らせ、活用していただきたいという著者の情熱が伝わってくる本である。
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2020年05月04日

「国文学」の批判的考察

『「国文学」の批判的考察』というタイトルの本が出た。文学通信。2020年3月。空井伸一氏の論文集で、副題は「江戸のテキストから古典を考え直す」というものである。いただいて1ヶ月以上たってしまったが(もっともっと紹介が遅れている本がたくさんあるが)、この本はコメントをさぼりつづけている訳にはいかない理由がある。
 なにせ、著者の批判の矛先は、この私に向かっているからなのだ(がーん)。もちろん私だけではないが、かーなり私が狙われている。正面から批判される対象になるとは、研究者冥利につきる・・・嬉しい・・・だがやはり、言われっぱなしというわけにもいかないので。
 序の「江戸のテキストを読むということ」。書き下ろしである。ここで私が標的になっているのだ。
 著者は秋成研究の現状に触れ、かつては『雨月物語』『春雨物語』だけが論じられ、世間を白眼視した「頑固おやぢ」、反骨などというイメージで語られていた秋成の文業が、近年総体的に捉えられるようになり、歌人・国学者としての業績が前景化し、そこから見えてくる春雨物語像も変わってきたと。ありがたいことに、その流れを作った一人に私がいるという認識をされているようで(その前からたくさんいらっしゃいますが)、そういう秋成観によって、テキストは閉じられたものになり、「言ってしまえば内輪受けの同人コンテンツのようなものだ」と。同人コンテンツだって、誰かが見出せば画期的な文学テキストになる可能性あるでしょ?という突っ込みもしたくなるが、これは私の論が未熟であるがゆえのことでもある。写本でないと見えてこない部分をとりあげて指摘したものを、それは普遍的ではないと言われても困るわけだ。近代的な読み方では見えないところを指摘しているのに、それは近代的な読み方では耐えられないと言われているようなものだ。だが、写本でごく少数の知人にしか流通していないから開かれていない、というのは形式論だし、まして「出版する可能性があった」(『春雨物語』の出版を許している秋成の新出書簡を紹介した長島弘明さんの論文をふまえる)とたんに「開かれたテキスト」になるというのも、飛躍である。写本が開かれていないのであれば、中世以前のテキストはどれもこれも本来開かれていないテキストということになってしまう。
 とまれ、意図的なのかそうでないのか、こちらが言ってもいない、考えてもいないことを「幻視」して、「國文学」像を作り上げて批判されても、それは的外れなんですけど・・・と言うしかない。ちなみに、p20に、「飯倉の「絆の文学」に言うところの」という言い方があるが、私は「絆の文学」という言い方をどこかでした記憶がないのだが・・・。「見落とされてきたことを認識させるために、これまで評価されてきたところを引き落とす物言いは筋がよいとは思えない」とも言われているが、『雨月物語』の評価を引き落とすような物言いをどこかでしているだろうか?『雨月物語』のへんてこりんな読み方は引き落としたいが・・・それさえもしていないと思うが。
 そもそも、私じしん「国文学」という言い方が好きではなく、自分ではまず使わない。空井氏のいうように「国文学」の中にある「尚古主義」とか「過去の美化」とか、「ナショナリズム」への志向といった、まあコンサバティヴな部分を、私自身も批判的にとらえてきた。そういう陳腐な「国文学」像の中に勝手に押し込められては迷惑である。
 和本リテラシー普及活動についても、「失われた過去を理想として仰ぐ」ものという空井氏の理解は的外れである。本来和本リテラシーとは、眠っている膨大なテキストの掘り起こしのために必要な技術として、普及をめざしているものである。日本文学研究という狭い範囲のことではなく、古地震研究のための歴史文献の読解にも必要なものである。いわば未知の世界の探検道具であり、過去を向いたものではない。専門家だけではなく、一般の人が、これだけインターネットで歴史的典籍画像が提供されている現在、それを読めたら楽しいではないか、可能性が広がるではないか。
 言っておくが『雨月物語』や『春雨物語』には時代を超えた普遍的な価値があると私も思っている。それを、どの時代にあってもきちんと読めるようしてきた、また未来にあってもそうするのが研究者の仕事である。校訂・註釈・現代語訳。仮に、雨月物語の稿本が出てきたら、それを解読し、校訂し、註釈できる能力があるのが研究者である。そうした校訂本文を読んで、専門外の方に普遍的な文学として読んでいただくのは研究者の悦びである。もちろん研究者自身がそれをやって悪いことはない。しかし、研究者がそればかりやっているわけにはいかない。未来の日本文学研究者も、活字化された本文、校訂本文が本当に正しいのか、註釈はそれで正しいのかを検証する能力を持っていなければならないのである。
 なお本書には「菊花の約」論が収められていて、そこでも私の論が俎上に載せられている。ありがたい。これへの反論もしないといけないのだが、これはまた機会を改めることにしよう。
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2020年04月18日

オンライン授業(準備)に明け暮れる日々

 3週間ほど書いていなかった。そしてこの3週間で、新型コロナの感染が一気に拡大し、大学も対策に大わらわの状況が続いている。これまで経験したことのないオンライン授業を、自身で工夫しながら構築しなければならない。私をはじめとする教員は、あまり使ったことのなかった学内の授業支援サイトの使い方や、パワーポイントに音声を宛てて録音する方法や、双方向授業のためのオンライン会議システムを勉強している。いろいろな発見もあり、いい機会だと思って、私なりに勉強しているのだが、いまもって試行錯誤である。しかも、通信量の問題やプライバシーの問題、セキュリティの問題など、さまざまなふまえるべき情報も次々に入ってくる。一方でオンライン授業の工夫についてもネット上にいろんな体験談が載せられるようになった。情報が多すぎても消化しきれずに困る。またどんなにいい方法でも、受講する学生に平等に届けられるかという問題もあって、まさに四苦八苦の日々である。大人数の講義では、同時双方向は難しいし推奨もされていない。時限付きオンデマンドみたいな恰好である。
 わが勤務先では、通常通りの日程で授業が開始されたのでなかなか大変である。一応、4月中はオンラインで(連休明けに対面)と言われているが、いまの状況では、オンラインがいつまで続くかわからず、授業の組み立てをどうするか、非常に厳しい。緊急事態宣言が出てからは、図書館や研究室の出入りも一層厳しく制限される。学生は学内立ち入り禁止である。この中で授業を組み立てよ、といわれても、調べることぬきでは始まらない。そこで新たなミッションが生まれる。学生がネットだけでどれだけ調べ、発表できるか、ネット上の研究関係コンテンツについて、リサーチしなければならないわけである。中身ではなく、外側のことで非常なエネルギーを消費する。
 実際にやってみると、面白い部分もあるが、馴れないために不具合が起こることが頻繁にある。また学生も十分な通信環境が備わっていない場合、十全に対応できない。正直、Zoomなどで演習授業をやっていると、スマホで発表担当は厳しそうである。そういうトラブルに遭遇してはじめて手を打つということもあるわけだ。

 それはさておき、季節柄、新刊の研究書・報告書が次々に現れていて、ありがたいことに私の元にも送っていただいている。紹介すべきものが10点以上たまっているのだが、パラ読み→積ん読状態が続く。申し訳ない限りである。これから週末を利用して、少しずつ紹介していくつもりだが、毎日いろいろなことが起こるので、ちゃんとできるかどうかもわからない。しかし、とりあえず新学期のご挨拶ということで。

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2020年03月27日

怪異をつくる

木場貴俊『怪異をつくる‒日本近世怪異文化史』(文学通信、2020年3月)。いただいた。
歴史学の立場からの近世怪異文化史。今までなかった、怪異意識史。文学研究の目の届かない資料、視点が満載で、本当に文字通り私たちの役に立つ。
木場さんは、子供の頃から水木しげるに傾倒していたという筋金入りの怪異オタクと見受けられるが、大きな視野から怪異史を構想する力もあって、いわばミクロとマクロの両視点をもつ方。わが師もそうだったが、これは学者として強い。
序章に4つの課題。近世人はなぜ怪異を記録したか。(事件としての怪異)、2中世から近世へ。政治と怪異の関係が重要、宗教と学問が関与。3は学問と怪異の関係。4は怪異はどう表現されるか。ということ。やはり我々の問題意識と少し違うなという印象。以下、各章ごとにキーワードを抜き出していく。第1章林羅山。「子は怪力乱神を語らず」。朱子学では「怪異」「勇力」「悖乱」「鬼神」をさし、それぞれ常・徳・治・人に対する概念であると。この基本は押さえておかねばならないと肝に銘じる。「羅山にとって[怪異]とは、教化の道具であった」第2章政治。日本において怪異を語ることができるのは国家であったということ。神仏と深い関わりがあり、占いで対処を決める。政治と関わる恠異を「恠異」で表現している。うかがいたいのは「その根拠は何でしょうか?」論述のための便宜的なものではないと思うので。徳川初期はこの「恠異」が活きていた。それがだんだん自然現象と片付けられる。また法によって奇異妖怪説をいうものは取り締まれる。「馬の物言い事件」などはそうである。納得。江戸時代は恠異を語る人間は処罰されるのである。しかし一方で恠異が盛んに出版されるのは何故なのかという問題設定が深く感じられる。一方朝廷では「恠異」が生き続けることも指摘。第3章本草学、モノとしての怪異。また補論の『日東本草図纂』が江戸の怪談集を典拠にしている具体例は近世文学研究にも有益な指摘。第4章、語彙。怪異に関する言葉の研究は「怪異」「物怪」など。辞書の検討。妖怪・変化・化物・化生の物は同義で互換性あり。「化生」は「四生」のひとつで仏語。何もないところから出生、あるいは形を変えて生ずること。化生であることは不思議であることではない。鬼・樹神・河童・天狗・猫又なども検討。第5章、語彙A。『太平記』『伽婢子』。「奇」の説明も。また「子不語怪力乱神」の徂徠解釈。第6章民衆の怪異認識。政治的な恠異からの脱却。稀少な出来事=怪異。唯心論的怪異認識。「妖怪革命」(香川雅信)。第7章化物絵、描かれる怪異。図入り事典と絵巻・絵手本。このあたりかなり生き生き書いているのがわかるところ微笑ましい。8章ウブメと9章河童は具体的なモノに即してその歴史的流れを追いかける。補論三の「大坂」は西鶴・庭鐘・秋成・懐徳堂を扱う。西鶴で拙論を引いてもらって恐縮。秋成と懐徳堂は怪異の受け入れ方が真逆だが、どちらも「合理的」というのは頷ける。西鶴の「人はばけもの」認識をその起点においてみせる構想に感心した。10章 古賀侗庵。懦者が怪異を記すことの意味。格物致知のための素材。無鬼論ではなく理気論で[怪異]を平常化。メモっぽい紹介で申し訳ないが、なんとなく本書の叙述内容のイメージが伝われば御の字である。
 ちょっと突っ込みたいところもないことはない。それはご本人に直接伝えることにしよう(笑)
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2020年03月20日

川平敏文『徒然草』

 川平敏文さんの『徒然草 無常観を超えた魅力』(中公新書、2020年3月)が出た。「出た」というのは川平さんのブログ閑山子余録の紹介パターンだということは、川平ブログの読者ならわかっていただけるだろう。
 副題を見れば、そして帯を見ればわかるように、中学・高校の教科書などで「無常観の文学」「隠者の文学」というイメージが定着している『徒然草』を川平流に読んで、『徒然草』の意外な魅力を提示しようとした本である。その試みはかなり成功していると思う。
 『徒然草の十七世紀』(岩波書店)という著書があるように、川平さんの研究は『徒然草』がどう読まれてきたか、という注釈史・享受史を柱とし、そこから近世思想史・近世文学史を読みかえるものである。本書もその延長線にあると思うが、最新の研究をとりこみつつも一般読者を意識し、『徒然草』の(やや風変わりな)入門書としても好著であろう。
 無常観・隠者の文学という教科書的イメージは、実は近代以降のものであることを、享受史的な観点から明らかにする。ではどのように読まれてきたのか。たとえば文学書というよりも故実書としてとか、四書の注釈と同列に近世初期の儒者が注釈していたとか、帯に書いているように、恋の指南書という側面や、落語的な趣向、その中に確としてある教訓性など、江戸時代の読者の読みを通して、『徒然草』の魅力が明らかにされる。とりわけ序段の「つれづれなるままに」の「つれづれ」についての解説が白眉である。九大学派らしい実証的な手続きを経て、「つれづれ」とは、本来の「孤独」から「存在の欠如」(寂寥)そして「行為の欠如」(退屈)と意味が広がっていったとする。そして、近代以降の多くの注釈書が現在にいたるまで「つれづれ」を「所在ない」「退屈」の意味でとっているという。この間あざやかな叙述であるが、第6章で明らかにされるように、近代以降もむしろ西洋文学の影響を受けた文学者らが「孤独」の意味で解釈しようとしていたことも事実である。しかしその「孤独」は、西洋的な文学観に基づくもので、兼好本来の「つれづれ」とはまた違うようだ。「つれづれ」の解釈についての解説を首尾に配したのは、なかなか戦略的である。
 また、『徒然草』に見える多面性、両義性をどう考えるかという点については、語り手の仮構性、つまりその都度、その主張に適した主体に「なりきる」という叙述法なのではないかという。これはさもありなん。題詠における和歌の演技性(渡部泰明氏『和歌とは何か』)につながるところだ。兼好も歌人なので。
 帯にある「落語の原型」というのはどうだろう?と首をひねる向きにも、幕末の落語家の証言をエビデンスとして説得力がある(詳しくは本書参照)。
 とにかく読みやすい。現代語訳を多用し、古典が苦手であってもすらすら読める。小川剛生さんの『兼好法師』との併読が効果的だろう。
 さて仄聞するところによると、今年春の中世文学会は、『徒然草』をめぐるシンポジウムが開催されるらしく、川平さんもパネリストとして招かれているという。実はその日は確か日本近世文学会とバッティングしているので、タイムシフトで視聴できないかなあ、などと期待するのであるが・・・。
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2020年03月18日

本居宣長記念館

青山英正さん関連の記事がふたつ続いたので、3つめ。前の投稿にかいた青山さんの科研の成果報告展示が、三重県津市の石水博物館で行われていて、招待券もいただいていた。有給休暇をとれという通知もあったので、少しゆっくりと伊勢をめぐるかと、本居宣長記念館と組み合わせて、のんびり調査見学小旅行を企てた。鳥羽まで行き、そこから北上するプランである。鳥羽のあたりで信じがたいことが起こった。少なくなったガソリンを補給すべく、どこでもいいやと立ち寄ったのが小さなガソリンスタンド。出てこられたのがご年配のご婦人である。車の窓から顔を出し、「満タン」というと、「ここはね、このあたりで一番高いんですよ。だから」とおっしゃる。なんという親切。感謝して「では10リッター」と言おうとすると、「だから、ここで入れない方がいいですよ。駅の近くまでいくとセルフのスタンドがありますから。セルフは使ったことありますか?そう、それならそちらで入れてください_「え、でも」「いや、本当にここは高いから」と、私を見送る体勢になっている。しかし、そんな、ねえ、お人好し過ぎませんか?・・・実際、しばらくいくと、1リットルにつき20円も安いスタンドがあって、びっくりした。
と、まあ、その話はともかく、リニューアル後初見参の本居宣長記念館。いまにも芽吹きそうな桜を横目に、事前予約していた資料を拝見。私費で来ているとはいえ、科研がらみで、とてもよい資料に巡り会うことが出来た。ちょうど、館長の吉田悦之さんが登場されて、宣長記念館所蔵の軸物、とくに本居家蔵の表装や箱書について、いろいろ教えていただくことが出来た。それにしても清造さんの端正な筆跡には感心させられることしきりである。さて知らなかったが、2018年3月に、記念館から『本居宣長年表(稿)』が刊行されていて、購入することができた。吉田館長の執筆のようだが、没後の事蹟の方が3倍くらいあって、宣長十講の各回の講義まですべて漏らさず記されていた。非常に便利な本である。と言っているうちにどんどん時間がたって、石水博物館の閉館時間が迫ってきた。車に飛び乗って一路津へ。川喜田家の資料を保存する石水博物館には初見参。閑静な森の中にたたずむ感じのいい博物館でした。川喜田家の豊かな文化を、張り交ぜ屏風や書翰などで堪能することが出来た。
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