2017年08月08日

真山青果旧蔵書

5年前に始まった真山青果旧蔵書調査、古典籍の方は終了した。
膨大な自筆稿本・研究ノートを含む近代資料は、まだまだ。
今回、私は古典籍(というより古文書)27点調査したが、ほとんどがある幕臣の写した幕末の幕府関係資料。戯曲創作の資料なのかどうなのか。
去年冬の国文研での展示・一橋会館でのシンポジウムを踏まえて、真山青果の業績を再検討する機運も高まって来ているようである。
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2017年08月06日

騎士団長殺し

村上春樹の『騎士団長殺し』。下巻途中まで読み、長いこと中断していたが、ふと再開して読了した。『海辺のカフカ』や『1Q84』に比べると、やや地味ではあるが、スピリチュアルな志向性は、少し強まったかという印象である。展開される深刻ぶりながらも諦観性の濃い議論や思考には辟易の感が否めず、放棄してしまいたくなったが、秋成の『春雨物語』の一編である「二世の縁」が重要なモチーフとなっていて、単なる趣向に止まらない。最後まで読んでみると、私の勝手な読み方に過ぎないが、春樹の「二世の縁」解釈としての小説、あるいは、春樹の秋成テクスト(特に雨月・春雨)解釈としての小説として読むことができそうである。芸術論としては「夢応の鯉魚」にも関わるだろう。ネタバレになってはいけないので、これくらいにしておくが。

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2017年07月30日

雅俗16号

『雅俗』16号が届きました。九州大学の川平敏文さんが事務局を担当している雅俗の会が刊行している。第1期はやや縦長の唐本を意識した書型で10号で完結した。その後、デザイン・書型を一新して第2期を、年1回で刊行中である。
 この私的ブログでは、私の知っている方の原稿を中心に取り上げることになり恐縮だが、何度も言うように、このブログは、あくまで研究に関しても私的な感想を書いているのであるから、お許しいただきたい。
 今号は、前号の合山林太郎氏に続いて、山本嘉孝氏が袁中郎受容の一つとして樫田北岸の挿花論を取り上げている。近世漢文学研究は、世代交代の波が来ていて目が離せないところだ。それに比べて、和歌の方では、若手があまり出てこない印象である。しかし、中山成一さん(この方が若手なのかどうか実はよく知らないのだが)と言う方は、佐賀の文芸と中央の文芸、堂上と地下、和学と史学など、様々な意味で越境的な考察を意識しておられるようで頼もしい。ほぼ毎号投稿される西田耕三先生、少しも衰えを見せていない。園田豊さんの復活も嬉しい。村上義明さんは、和本リテラシー回復のための実践報告。そういえば近世文学会の和本リテラシーニューズも第3号で、様々な実践報告が載っているが、そろそろ、このような実践を1冊にまとめるか、WEBサイトにまとめるような企画があってもいいかもしれない。学ぶ側ではなく、教える側のための本である。
 そして、今号のハイライトは、中野三敏先生の文化勲章受章パーティでの挨拶の文字起こしである。福岡で行われたものだが、私は行けなかったので、とてもありがたい。先生は和本リテラシーに触れて『アプリで学ぶくずし字』を配り本に使ってくださったようで大変名誉なことだと思う。挨拶の終わりの方では、奥様との出会いにも触れられている。
 さらにさらに、入口敦志の壮大な学問エッセイ第3弾に、揖斐高先生のご研究ふりかえりのご文章も、読み応えがある。揖斐先生の卒論は、まさかの浄瑠璃、そして附論が広末保論とは。
 川平さんも、今号は特に自信満々の出来のようで、編集後記でも胸を張っている。いや、本当に。お見事。

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2017年07月29日

日本語の歴史的典籍国際研究集会

7月も終わりますな。昨日と今日、立川の国文学研究資料館で行われた「第3回日本語の歴史的典籍国際研究集会」に参加した。これは「みんなで翻刻」の24時間放送企画と完全バッティングであった。「みんなで翻刻」にもちょっと誘われかけていたのだが、残念。昨日、寝る前にちょっとニコニコ放送を覗いてみると、加納先生と古地震研究会のメンバーが、資料を翻刻しているところだった。(夜中の1時半頃か)マズイ、これは見入ってしまう。「あー、そこは・・・」と思っていると、コメント機能に気づき、しばらくコメント民となって、いくつか口出しをしてしまいました。と、寝ないといけないと思って、○時○分に目覚ましをかけて寝たところ、○時○分後でかけてしまったようで、大変なお寝坊をしてしまったのは申し訳ない。
国文研のNW事業の研究成果発表の場でもある。NW事業の中の、「観光文献資源学」のプロジェクトに関わっているので、その研究打ち合わせも兼ねている。2日間の発表。初日は文字認識の研究の進み方の速さに驚いた。研究とスピードというのは、文系では馴染まない、むしろ相反するものと思っていたが、この事業ではいたるところ文理融合がキーワードになっている。どうしても置いていかれる感が否めない。観光文献資源学では、私も去年から立ち会っているアロカイ先生の「デジタル文学地図」構想の発表と、椙山先生の石碑調査の発表があった。無縁墓となった墓の碑面をタブレットで撮影するというのは「アッ、なるほど」と思った。文学地図と石碑分布はコラボすると面白い。そういう話もすることができた。
2日目、佐藤悟さんの「絵本としての草双紙」は、草双紙の基礎知識から説き、エキサイティングな説に至る展開で面白かった。あとは折本についてのセッションは、佐々木孝浩さんと、ハイエク先生・ビアンキ先生のこれも基礎的なところから、最先端のご研究の披露まで明快な展開で素晴らしかった。他のご発表も興味深いものであった。



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2017年07月16日

『柏木如亭詩集2』に思う

 今から40年以上も前、大学入学後の教養部の英語の授業の一つは、チョムスキーの生成文法の解説書か何かを読むものだった。無知で凡庸な私だけではなく、周囲もあまり面白いと思っていなかった。それが伝わったようで、その英語の先生は、生成文法のテキストを継続して読むのを諦め、英詩をテキストとした。文学部のクラスだから、これはまあ面白い。予習するときに、ちょいと韻文風に訳していたものを、授業中に披露すると、「おおおー」と声が上がって、それから、皆が、意訳もかまわず韻文調で訳すようになった。
・・・という昔話を思い出したのは(といっても私のことだから、正しい記憶かどうかわからない)、揖斐高先生の『柏木如亭詩集2』(東洋文庫、2017年7月)のあとがきに、漢詩の韻文体風現代語訳を採用しなかった理由について、記しているからであった。井伏鱒二の名人芸を挙げながらも、それは絶句だけであったのに対し、今回は、律詩や古詩もあること、さらに典故を織り込む必要、さらには如亭自身が、『訳注聯珠詩格』で散文訳をしていることなどから、散文訳を採用したというのである。
 研究者として誠実な方法だと思う。漢詩の英訳などの場合はどうなのだろうか。ふと思った。情けないことに、そういうものを読んだことがないのである。俳句は3行詩にすることがあるが・・・・。
 ともあれ、事実上の如亭全詩集(訳注つき)の完成である。慶賀慶賀。


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江戸遊里の記憶

 渡辺憲司先生の新著『江戸遊里の記憶―苦界残影考』(ゆまに書房、2017年6月)が刊行された。
 立教大学の出身である渡辺先生は、かつて山口県の梅光女学院大学で教鞭をとっておられ、私が大学院に入ったころ、九大の研究会にいらっしゃっていた。ちょうど渡辺先生の師匠である白石悌三先生が、福岡に戻って来られたころで、それもあったのかもしれない。研究会には早稲田大学ご出身の藤江峰夫先生(当時福岡教育大学)も来ておられ、お二人の掛け合いが実に面白かったという思い出がある。やがて立教大学に戻られるわけだが、その後のご活躍は、誰しもが知る通りである。『時に海を見よ』の名文は、多くの人に刻まれたことだろう。
 下関のご自宅にも、たしかまだ単身赴任でいらっしゃったころの東京のご自宅にも、なぜか寄せていただいたことがあるのだが、その時、新古典文学大系の仮名草子集のために集積されていた単語カードを見せていただいた記憶がある(以前にも書いていたか)。今思えば、あの膨大な近世文学カードをとられた松崎仁先生のお弟子さんだなあと思うわけである。
 本書は、渡辺先生が、全国各地の遊里を訪ねあるき、人々と触れ合った中での聞書を重ね、心は遊女によりそい、廓の光と影を感得し、優しいことばで綴られた研究エッセイである。講談社新書『江戸遊里盛衰記』をベースにしているが、改稿し、新稿を加えている。『放蕩虚涎伝』にいう「言葉やはらかに、苦界勤めの、辛からん事を人情深くはなすべし」という言葉を胸に刻んで書き残そうとしたという。
 言うは易し、行うは・・・と思う。しかし、これが出来るという点において、私の知る限り、渡辺先生の右に出る人はいないだろう。取材とか、フィールドワークとかではなく、廓の人との虚心の触れ合いの中でえた感覚が、本書を貫いているのである。剽軽で、ノリがよく、ロマンチストの渡辺先生には、遊女ならずとも、心ひかれた人は少なくないはずなのだ。
 

 
 

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2017年06月30日

河村瑛子さんの「かたち」考

国語国文つながりで、同じ『国語国文』(2017年5月)に、河村瑛子さんの「「かたち」考」が載る。
河村さんは名古屋大学の塩村耕さんの門下だが、現在京大助教。非常に優秀な方で、人柄も温和。
塩村さんから受け継いだ『類船集』を用いての語彙考は、今やお家芸と言うべきで、これがまた京大の学風と親和性が高いのである。今回の論考は、芭蕉の用いる「かたち」の意味を、明晰に論じたものだが、やはり『類船集』から入り、「かたち」という語彙の豊かさに気づかせてくれる。そう、「かたち」という語彙は、文学の普遍的な問題を考えるのにつながるので、単なる語彙考に終わらないのである。
ただ、願わくば、冒頭の『笈の小文』に戻って、その読解を見せていただきたかったが、それは読者への宿題だろうか。
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藤原英城さんの論文2編

優秀な日野龍夫門下の中でも、田中則雄・藤原英城・山本秀樹の三人は、大体同世代で、勝手に「日野門下三羽烏」と呼んでいる。それなりに交わりがあって、田中さんとは読本の研究会でご一緒したし、山本秀樹さんとは、秋成研究で議論を交わしてきた中である。そして藤原英城さんだが、京都の小説研究会で時々ご一緒するくらい・・・、ではなく、思わぬところでご一緒したことがあった。一つは私がK賞を頂いた時に、同じ賞を前年に取られた藤原さんも来てくださって、福田安典さんとともに2次会まで付き合ってくださったことがある。また、詳細な経緯は忘れたが、京都府立大学が韓国の研究者を多く招いて、寓言に関する研究会を催したことがあり、ロバート・キャンベルさんと、私が誘われて、参加したことがあった。その懇親会で話が展開して、今度は韓国の学会で「寓言」を特集するからということで、中国・韓国・日本の研究者が集まったのだが、日本からは藤原さんと私が招かれて、確か2泊3日した。向こうが用意したホテルの部屋がなんとツインだったので、かなり濃い記憶がある。初日は外に飲みに行き、2日目は部屋飲みした。そして帰りの仁川空港で、荷物を預けようとした藤原さんに、「その荷物だったら機内持ち込みできますよ」と要らぬ助言をしたために、藤原さんが手荷物検査口にその荷物を置き忘れて、探し回ったというアクシデントまで起こってしまった。また藤原さんの愛弟子の中村綾さんも研究仲間で、阪大で開催している読本の読書会に来てくださっている。この頃、おめでたいことがあったようである。
 と、前置きが長すぎたが、藤原さんの「恋文のゆくえー『好色一代男』巻1−2をめぐって」(国語国文 2017年5月)は、挿絵の「下げ髪の女」に注目し、同話に『薄雪物語』挿絵が示唆され、議論のあった「下げ髪の女」が世之介のターゲット「おさか」であると論証する。周到で説得力のある論である。
 同じく藤原さんの「二代目西村市郎右衛門の出版活動−その登場から享保年間までの動向−」(京都府立大学学術報告 人文68 2016年12月)は、私にとっては有難い報告。京の西村市郎右衛門の江戸出店西村源六は、佚斎樗山や常盤潭北の著作の出版をプロデュースしたと見なされるセンスのいい本屋で、私の奇談研究の原点になるキーパーソンの一人なのである。その源六の登場を、20数年前の私の調査では、享保11年か12年としていた記憶があるが、享保4年9月にすでにでていることが、藤原さんの調査で判明している。この源六についても、また別稿を用意されるということで大変楽しみである。
(前置きの方が結局長かったっす)

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2017年06月29日

『上方文藝研究』第14号

『上方文藝研究』14号が刊行されました(2017年6月)。
購読の皆様には、そろそろお手元に届くことと存じます。

今号のラインナップは、(副題等を省略)
【論文】
勢田道生「賀茂清茂の書物収集」
盛田帝子「光格天皇勅点高松公祐詠草」
近衞典子「秋成資料紹介―『鳴鶴園記』の世界・続―」
岡部祐佳「『万の文反古』「代筆は浮世の闇」考」
有澤知世「京伝『籠釣瓶丹前八橋』における〈絵馬の怪異〉」
服部仁「刊本『天竺徳平往来噺』について」
【特別掲載】
丸井貴史「都賀庭鐘『英草紙』の研究史と展望」
【連載】
上方文藝への招待(6)
山本嘉孝「第二回日本漢文学総合討論報告」

このうち、丸井稿は、金永昊氏との共著として韓国で出版された、『英草紙』の韓国語訳(注釈付)の解説部分を、日本語で掲載するものである。韓国で出版されたものであるが、最新の『英草紙』の研究成果が踏まえられており、大いに参考になるため、韓国語訳される前の日本語原稿をそのまま掲載した。韓国語版と対応するように、査読対象外としている。今号の論文6本は、3本ずつと雅俗のバランスがよく、図版も豊富である。合評会は7月に行われる。
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2017年06月25日

日韓怪異論

清泉女子大学「日本文学と怪異」研究会編の『日韓怪異論ー死と救済の物語を読む』(笠間書院、2017年5月)も、前の投稿と同じく、佐伯孝弘さんが関わっている。
清泉女子大学と高麗大学の研究交流で、彼方と此方で催されたシンポジウムを元に作った本だという。怪異文学を対象とし、テーマは「死と救済」である。それぞれの考察を通して、日韓の比較文化論の試みになっている。日韓それぞれ5編の論考が並ぶ。韓国側の論考は、日本語訳という手間もかかっているようで、その意味でも労作。韓国語版も刊行されたのだろうか?
シンポジウムではどういう議論があったのか、というのが気になる。シンポジウムでの議論というのは、活字化が難しいということは、十分承知しているが、どこかでそれが読めればありがたいことである。
ちなみに佐伯さんの論は、『万の文反古』の巻3の3の、佐伯さんのいわゆる「死なせぬ復讐譚」を取り上げている。



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2017年06月23日

古典文学の常識を疑う

自宅のPCをマックにした。日本文学関係のソフトはmacに対応していないものもあるからWindowsの方がいいという都市伝説を漠然と信じてン十年。しかし、昨年の、Windows7の機種使用者は、早くWindows10に乗り換えよ、という執拗でお節介な告知でさすがに切れた。ソフトや辞書類も、webに移行しつつある今、ストレスとともにWindowsに付き合う必要はないだろう。肝心な時に限って「ただいまプログラムの更新中です」とかなんとか言って仕事ができないとか、ずっとがまんしてきたけれど、もうダメ。私の残された仕事人生も短いのだしね。きっかけはアンドロイドのスマホの不具合で、iphoneに変えたこと。アンドロイドに比べると非常に快適でストレスがない。そんじゃPCも。ちょうどノートPCも、色々と不具合が出てきて、だましだまし使っていたところなので。
今のところ、マックなかなかいいと思います。PCに向かって罵声を浴びせるということがなくなった。
 さて、本題は、勉誠出版(ちなみにこの出版社名も辞書に入っていた)から出た、『古典文学の常識を疑う』で、奥付は今年の5月末。あちこちの学会で売れているというが、さもありなんだ。この本の緒言にも書かれているが、かつて、学燈社や至文堂から出ていた、国文学の月刊雑誌。その別冊などで企画されていた『古典文学の謎』とか、『古典文学のキーワード』とか、現在の研究の最前線を教えてくれるトピックについて、第一線の研究者が、4ページくらいの解説を書いてくれるやつ。それが久しぶりに出たという感じなのである。
 編者(4名)は上代・古代・中世・近世をそれぞれ担当しているようであるが、選ばれたトピックが、かなりよく考えられていて、現在の古典研究の状況がよくわかる1冊になっている。
 『万葉集』が「天皇から庶民まで」の歌集というのは本当か、とか中世が無常の時代というのは本当か、など、文字どおり常識を疑うところを正面からテーマとしてものもあるが、全体としては、それぞれの専門における現在の論点をトピックとしていて、「ここが知りたかったんだよね」というところをよくカバーしていると思う。
 私の専門でない時代で言えば、平安時代は一夫一妻制であるという工藤重矩先生の説のあと、この問題はどう展開しているのかということを知りたかったのだが、それもちゃんとある。『源氏』の人物論て今はどうよ、とか、
 もちろん、近世は私の興味もあってどれもこれもテーマが面白くてたまらない。執筆者もまた、定説に挑戦し、新しい研究世界を拓いてきた人ばかりであるので。佐伯孝弘さんのテーマ設定と人選がいいのだ。少なくとも古典研究者は、研究の今を知るのに必読でしょう。


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2017年06月20日

八犬伝錦絵大全

服部仁氏の監修・著による『八犬伝錦絵大全―国芳 三代豊国 芳年描く江戸のヒーロー』(芸艸堂、2017年6月)が刊行された。
文字通り錦絵でたどる八犬伝であるが、非常に構成がよく練られていて、八犬伝入門・錦絵入門にもなっている。
まずは、『錦絵 八犬伝へのいざない』という最初の文章で、読本の『八犬伝』絵師と、錦絵での「八犬伝」絵師は重ならないということを紹介する。なぜなのかを教えていただきたいところである。
ついで、読本八犬伝のあらすじが、錦絵とともに紹介される。次に、八犬伝人物相関図が、これまた錦絵「八犬伝犬の草紙」の絵を使って一覧できる。次に版本八犬伝の紹介。そして二次作品というべき錦絵・合巻・暖簾・双六・カルタなどの存在を明らかにし、その中のひとつである『雪梅芳譚 犬の草紙』の紹介。馬琴の生涯。国芳と国周の描く八犬士の肖像。そして絵師別名場面集。八犬伝の錦絵の中ではやはり芳流閣の決闘の場面を描くものが圧倒的に多いと言うことだ。さもありなんだが、600枚もの八犬伝錦絵を所蔵する服部氏が言うと重みが違う。絵師別に見較べるのは愉しい。さらに芝居絵八犬伝、刺青下絵師の描く八犬伝、3枚続きを中心に見ていく錦絵八犬伝ストーリー、パロディ八犬伝、双六八犬伝、見立八犬伝と、まさしく絢爛豪華な展開。本当に楽しく学べること請け合いである。
 ところで著者から伝言がある。ご本人は関わっていないということであるが、「岡崎市美術館で、〜7/17、「家康の肖像と東照宮信仰」展を開催しております。いけどもいけども家康ですが(終わりの方に、秀忠、家光etc.もありますが)、江戸時代の研究者は見ておくべきかと存じます」との事である。残念ながら行けそうにないが。
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2017年06月14日

御伽百物語

怪談好きは百も承知の「百物語」。江戸時代にはこの語を書名に含む本が数多く出た。太刀川清氏の正続の『百物語怪談集成』(国書刊行会、叢書江戸文庫)は、その代表的なものを通覧できる至便の書だが、注釈などはまだまだ進んでいない。青木鷺水の『御伽百物語』の、わかりやすい校訂本文、注、各話の丁寧なあらすじ、さらに典拠のあらすじを載せた本が刊行された。三弥井古典文庫の1冊で藤川雅恵編著『御伽百物語』(2017年5月)である。百物語研究を志している留学生がいて、私にとってもタイムリーな本である。それにしても、この本を廉価なソフトカバーで出すとは、素晴らしい企画。長年の研究を形にしてくださった藤川さんをはじめ、出版に尽力された関係者に深謝。
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2017年06月07日

中世和歌史の研究

小川剛生さんの『中世和歌史の研究―撰歌と歌人社会』(塙書房、2017年5月)が刊行された。
すでにネット上ではちらほらレビューも見られる。
予想に違わず、ずっしりとした重みと、鋭い切れ味を兼ね備えた、魅力的な研究書である。

小川さんの学風はみずから「歴史的・実証的」というように、和歌と政治の絡みを意識した史的展望に基づく厳密な実証なのだが、読んでいて、興奮を禁じ得ない。「膝を打つ」「目から鱗」の叙述が次々に展開する。
やはり、それは、問題の所在の指摘の鮮やかさである。

中世和歌史の研究は、傍目から見ても、いわゆる院政期から新古今時代が盛んに見える。しかし小川さんは、鎌倉後期から室町中期に切り込む。「形骸化したはずの和歌と官職によって辛うじて統一性が保たれていたとさえ思える」この時代の「撰集」という営為に着目し、骨太の和歌史構想を打ち出してくる。

誰も問題視しなかったことを論点とし、そこを起点に、最も適切な資料を材料に、緻密に、しかしスリリングに、知られざる事実を明らかにし、「撰歌」の持つ重大な政治性をも考察する。研究史への目配りは勿論、関連資料の博捜に基づく立論であることで、説得力が半端ではない。

 たとえば、撰集の中での四季部とそれ以外の意味など、事実の提示によって重要な指摘が裏付けられていく。それらから立ち上がる、小川さんならではの和歌史の新鮮さ。研究書として、あまりにレベルが高くて、絶句してしまうほど。

 本当に素晴らしいの一言。まだまだ筆に尽くせないが、とりあえずここまで。

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2017年06月01日

『近世文学史研究 二 十八世紀の文学』刊行

 私が監修した『近世文学史研究 2 十八世紀の文学―学び・戯れ・繋がり―』(ぺりかん社、2017年6月)が刊行される(奥付は6月10日)。見本刷が出来、私の手元に一足はやく届いた。原稿をお願いした皆さまには、私の我儘なコンセプトをよく理解してくださり、非常に興味深く、問題意識に満ち、しかもわかりやすいご論考をお寄せいただいた。この場を借りて、深く感謝申し上げる。
 十八世紀(近世中期)といえば、わが師中野三敏先生の所謂「雅俗融和」の時代である。そのことは、既に十分行き渡っていると思い、私は違う角度、つまり文芸に携わる人々の営為、文芸への関わり方としての営為という観点から、この時代を捉えてみたいと考えた。「学び・戯れ・繋がり」という副題は、その具体的な営みの在り方である。
 もちろん、鈴木健一さんが監修した「十七世紀の文学」においても強調された領域横断的な問題設定を継承していることは目次を見て頂ければ瞭然である。「文学史研究」を謳っているが、歴史・思想史・美術史らに関心のある方々にも読んでいただきたいと思っている。ラインナップは以下の通り。拙論はともかく、ほかの執筆陣の論考はいずれもエキサイティングである。木越治さんの連載を含めて9本150頁。読み応えは十分である。
 
【序】
十八世紀の文学――学び・戯れ・繫がり:飯倉 洋一
【提言】
漢詩文サロンと儒学読書会:前田 勉
日用教養書と文運東漸:鍛治 宏介
十八世紀の美術――都市と地方のあやしい関係:安永 拓世
芸能史と十八世紀の文学:廣瀬 千紗子
【論文】
十八世紀地下歌学の前提――出版の時代:浅田 徹
社会と対峙する「我」から世法を生きる「心」、そして私生活を楽しむ「自己」へ――俳諧と社会:中森 康之
前期読本における和歌・物語談義――十八世紀の仮名読物の一面:飯倉 洋一
書籍業界における近世中期の終わり方:鈴木 俊幸
【近世文学研究史攷二】
近世小説のジャンル――近世文学の発見(二):木越 治

以上である。書店・学会会場などで、どうぞ手にとってご覧いただきたい。
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2017年05月20日

『柏木如亭詩集1』

 揖斐高先生訳注の『柏木如亭詩集1』が平凡社の東洋文庫の1冊として刊行された。奥付は2017年5月。
すでに岩波文庫から『詩本草』と『訳注連珠詩格』がやはり先生の校注で出ており、ますます如亭の詩が読みやすい形で提供されたことになるのは、ありがたい。収められるのは、『木工集』『吉原詞』『如亭山人藁初集』(以上1)、『如亭山人遺稿』(以上2)である。
 如亭に懐かしさを感じるのは、私が大学院に入ったばかりの中野三敏先生の演習が、『五山堂詩話』だったということである。それまで日本の漢詩文にほとんど触れていなかったが、五山をはじめ如亭・詩仏ら江湖詩社の詩人たちのことを、調べたり、作品を読んだりしていくなかで、近世日本の漢詩文というものに入ったということがあるからである。今関天彭翁の論文も古い雑誌を探索したり、師匠に貸していただいて読んだ(これも、今は揖斐先生が編んで東洋文庫に入れておられるが)。揖斐先生の論文も当然読んだ。
 如亭は、中でも、近代人の感性にフィットする。詩魔に魅入られて、実生活をないがしろにする。詩を切り売りして全国を放浪し、年老いても恋愛体質。『木工集』『吉原詞』をはじめとする如亭の詩は、そういう如亭の実像と虚像のイメージ、そして喩としての詩の魅力を存分に堪能できるものである。
 如亭研究の第一人者である揖斐先生の校訳で読めるのは、まことにありがたい。続編では年譜も掲載されるということである。
 
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2017年05月04日

様式と営為

 『近世部会誌』11号。日本文学協会近世部会。2017年3月。この研究会は京伝の読本を読み続けている。「主題」を仮設して読む作品論に違和感があることを、編集後記で風間誠史さんが述べている。主題というよりは趣向、構想というよりは趣味的な発想であると。「読本こそ、最もとりすました遊戯であった」との山口剛の言を引き、「一番ぴったりくるのである。とはいえこれは江戸戯作を現実逃避の産物とする「近代」的な言説で、それを乗り越えようと研究者は苦心してきたのである。しかし、今や老若男女がこぞってポケモン探しに街なかを徘徊しており、「遊戯」は「現実」そのものになっている。「遊戯」をそれとして論じることが現実逃避とは別の意味を持つのではないか?」と。
 「現実」(真面目)と「遊戯」を二項対立で捉えるのが近代で、江戸時代はそうでなかった、しかし今や近代も変わって、「遊戯」が「現実」そのものになってきたのだと。
 一方、同氏は高木元氏の文学研究観に違和感を表明する文章を書かれている。高木氏は一貫して、「文学的価値」を云々する文学研究観を斬ってきた方で、「様式」を重視し、これを歴史的に位置付けることを目指しておられると私は見ている。これに対して「営為」を重視するのが風間氏か。
 浜田啓介先生のご本に「様式と営為」を謳う名著があることを思い出す。少し話がずれてくるが、近世の写本の意味は、様式だけでは絶対に解けない。風間さんの引用する高木さんの文章では、近世文学の対象は刊本のみであるような把握をされているかに見えるが、写本史を考えたら、当然のことだが、近世が圧倒的に資料が残されているわけだから、これを無視することはできない。もっとも一般的には近世は「出版の時代」で、写本研究は主流ではない。しかし、私見によれば、写本研究は非常に重要である(2010年の秋成展をきっかけに、秋成の文学を考える時にも写本の意味が重要だと考え、その一端を『上田秋成―絆としての文芸』大阪大学出版会、2012に書いた)。そして、写本はどの写本であれ、たった1部。写本をつくる書写者の営みを考えずして、写本論は成立しない。そして、実は版本にも、それが当然あるのである。版本が版本としてのアイデンティティを持つのが、「様式」の確立だとすれば、それ以外の部分には「営み」があるのは当然だと思う。
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2017年05月01日

『心の中の松阪』

大阪大学名誉教授の柏木隆雄先生から、『心の中の松阪』(夕刊三重新聞社)をいただきました。
夕刊三重新聞に連載されたものの単行本化で、柏木先生の幼少のころから高校生の頃までの思い出が、豊富な写真とともに綴られています。先生のお人柄や、周りの方々の親切さ、松阪という町の暖かさがよく描かれているエッセイです。
柏木先生に御礼を申し上げたところ、次のように伝言を賜りました。

読んでみようと思われる方があれば、夕刊三重新聞社の 富永朋子さん宛て tominaga@yukanmie.comにメールで、著者(柏木)の紹介と書いていただければ、定価1800円(+税)を、2割引の1500円(税込み)で購入でき、そちらから送って貰えます(送料はスパーレターで180円)。

と。 
なかなか店頭に並ぶことのない本のようですので、ご利用ください。
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2017年04月18日

最近刊行された研究書

このごろの新しい研究成果についての情報をいくつか。

近代日本漢学資料叢書1『澤井常四郎 経学者平賀晋民先生』(解題 稲田篤信)研文出版。二松学舎大学私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「近代日本の「知」の形成と漢学」の研究成果の一環。

神道資料叢刊14『小津久足紀行集三』(高倉一紀・菱岡憲司・龍泉寺由佳編)。皇學館大学研究開発推進センター神道研究所刊。急逝された高倉さんによる解題は、絶筆となった。

出口逸平『研辰(とぎたつ)の系譜 道化と悪党の間』(作品社)。魅力的なテーマ。

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2017年04月07日

『日本文学研究ジャーナル』創刊

 『日本文学研究ジャーナル』が3月に創刊された。日本文学関係の雑誌が次々に休刊に追い込まれている中で、明るいニュースである。青簡舎の大貫祥子さんが編集に参加され、山口守義さんの古典ライブラリーから刊行された。古典ライブラリーは、『国歌大観』をはじめとする日本文学研究の必須ツールを、WEBで提供している。この学術誌も、WEBジャーナルとしても展開してゆくところに新しさがある。
 日本文学に関する良質な学術論文を集めるオーソドックスな学術誌として、大いに期待したい(などと他人事のように言っている場合ではない。来年9月刊行予定の第7号の編集を担当させていただくのだが・・・)。
 第1号は、渡辺泰明・佐々木孝浩の両氏による編集で、「中古・中世の和歌」が特集される。久保田淳先生の巻頭エッセイ、小川剛生氏の特別寄稿を首尾に置き、久保木哲夫・舟見一哉・田口暢之・佐々木孝浩・米田有里・山本啓介・高柳祐子の七氏の論文を掲載する充実ぶりで、創刊号に相応しい顔ぶれであると言えよう。本誌は、いきのいい若手の論文を積極的に掲載し、学界に新風を吹き込むことが大きな狙いのひとつである。また、WEBジャーナルということで、海外の日本文学研究者にとっても興味を引く論考が掲載されることを望みたい。
 ところで久保田淳先生の文章の最後に、世界の激動期に、八百年前の歌人達の歌や生にこだわり、それを追う営みについて思われることを書かれている。激動する世界の中で、古典研究をすることとは何か。久保田先生でさえ、真摯に迷われているのだ、ということにいたく感銘を受けた。どうふるまうかということは、個人でいろいろだろうが、「春秋に富む研究者たちはこの現実の下でどのように自身の研究テーマと向き合っているのだろうか」という問いには(私自身春秋に富むわけではないが)、自覚的でなければならないと思う。
 小川さんの「兼好法師の伊勢参宮」は、「吉田」ではない兼好の真の出自に迫る論文である。「吉田」が捏造であることを立証した論文も衝撃であったが、いよいよその正体が明かされようとしている。
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