2023年02月26日

『挙白集』評釈 和文篇

ブログを書いたり、Twitterで呟いたりして、いろいろ発信していると、事情通のように思われているかもしれないが、真逆である。あんまり知らないので、「えっ、そんなことも知らないの?」という反応をされることもしばしばある。
『研究と評論』で『挙白集』の注釈が連載されていた時も、え?このメンバーはどういう関係で?と首を捻っていた。きっとみんな知っていることだったのだろう。中嶋隆氏や藤江峰夫氏の守備範囲がすごく広いことは知っていたが、それにしてもお二人が『挙白集』の注釈というのは意外である。
 『『挙白集』評釈 和文篇』(挙白集を読む会編、和泉書院、2023年2月)は、『挙白集』和文篇の本格的な注釈書である。
 ここでそのメンバーを紹介しておくと、大山和哉、岡本聡、雲岡梓、鈴木淳、中嶋隆、復本一郎、藤江峰夫の各氏である。復本一郎氏の「あとがき」で、読む会の歴史をしることができた。1990年に鈴木淳氏と復本氏が、佐野正巳氏の引き合わせによって、神奈川大学で出会ったことにはじまるようだった。そこで一杯やったときに、二人の自宅が徒歩十分のところにあり、読書会をはじめることになった。そこでメンバーを考えたとき、横浜在住の中嶋氏、藤江氏の名前が挙がったのだという。そう、ご近所読書会だったのである。これは気づかなかった。
 『挙白集』を読むことになって、ペースは二ヶ月に一回。たしかにこれは長続きするペースである。その後、長嘯子の専門家である岡本聡氏が参加。箕面から毎回通っていたという。これはすごい。さらに岡本氏が、大山和哉、雲岡梓の若手二人をリクルートし、パワーアップ。出版にいたる詰めでは、若手が大車輪の活躍をしたことが、感謝とともに記されている。
 その共同研究が六百頁を超える大冊として実を結んだ。作品を読む際に、会読形式は、本当に勉強になる。三十年以上も続けて、それを形になすのはどれだけ感慨深いだろうか。とくに最初から参加されていた方々の喜びは察するに余りある。コロナ禍のさなかはオンラインで行った模様で、それを乗り越えての慶事である。
 近世和文史というものを構想するとしたら、長嘯子はその初期の最重要人物になる。とはいえ、和文は長嘯子に限らず、研究が進んでいなかったのが三十年前だ。注釈もほとんどなかった。近世和歌研究の発展とともに、和文も注目されてはじめてきた。岩波の「文学」が「近世歌文の創造」という特集を組んだのは、まさに30年くらい前か?中野三敏・松野陽一・上野洋三各先生の鼎談が掲載されていた。その後、松野先生はもちろん、風間誠史氏・久保田啓一氏・田中康二氏・岡本聡氏・雲岡梓氏らの研究が続く。秋成研究でも、和文に光が当たりはじめたのは、新日本古典文学大系で『藤簍冊子』の注釈(中村博保・鈴木淳)が刊行されたのが大きい。私も和文消息の『文反古』を数年読んでいくつか拙論を書いた。
 しかし、和文といえば、やはり『挙白集』を押さえなければならない。これは上野洋三先生から学会の懇親会で諭されたことである。挙白集の和文は、秋成などと違って読みやすいが、しかし深いのだということが、この本で学べそうである。一度だけ「近世和文史」の授業をしたことがあって、「山家記」を苦心して自己流に注釈したのが懐かしい。
 ともかく、決定版の評釈書が出たのは、本当にありがたい。いつでもここに帰ればいいからである。
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2023年02月23日

近世後期江戸小説論攷

 2月22日のにゃんこの日は、国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」と題して、小津久足研究で注目されている菱岡憲司さん、飛鳥井雅有を研究している大阪大学大学院の湯書華さん、海道記研究のアダム・ベドゥナルチクさん、俳諧研究者の辻村尚子さんをお迎えし、さまざまな角度から、「紀行」を照射した。フロアーからの意見も出て、生業と風流、虚実、インターテクスチュアリティ、雅俗・・・などの問題が浮上し、懇談会に突入しても議論は尽きなかった。その開会の挨拶をしている最中に、宅急便が来たんだが、もちろん出ることは出来ない。幸い宅配ボックスに入れてもらっていたのが、山本和明さんの論文集『近世後期江戸小説論攷』である。前著からそんなに時間も経っていないのに早くも第二論文集である。
 そして、この第二論文集は、山本さんの思い入れが半端ない京伝を中心とした論文集である。「京伝が好きだ」と本人から聞いたことがある。しかし京伝の読本はあまり評価されていない。それは馬琴の『近世物之本作者部類』の呪縛から、いまの読本研究者が遁れられていないからだという。馬琴と京伝の読本は、めざす方向が違う。同じ物差しで、つまり馬琴読本を基準に京伝読本を測るべきではない、ということを本書ではまず強調している。
 第1部が「京伝作品攷」、第2部が「和学・和文小説攷」、第3部が「後期小説の周縁」である。90年代の論文もあり、長い道程を感じる。
 ところで、山本さんといえば、国文研のNW事業、つまり30万点の古典籍画像公開という大事業の責任者として、10年間、それこそ滅私奉公的な献身的な働きをしてきたことは、知っている人はよく知っているだろう。この件に関して、山本さんは国内外で数え切れないくらいの講演・レクチャーをしてきているのである。しかし、実は彼は研究上ではデータの人ではなく、本来的に「読み」の人である。大量のデータだけを示すような研究を唾棄している。その本領が発揮されているのが本書なのである。

 少し私的なことをいうと、大阪の大学に勤めていた山本さんとは、私が大阪に来る前からの付き合いであり、秋成の遺墨を多くお持ちであった谷川家との縁を繋いでくれ(たまたま谷川さんの親族が山本さんの秋成についての講演を聞きに来ていたというご縁)、十年以上も毎年谷川家調査を一緒にやった。また家人の非常勤を紹介してくれたりもした。研究上では、これも長い長い期間にわたる蘆庵文庫研究会や忍頂寺文庫の研究、そして鹿田松雲堂蔵書調査など、数々の共同研究でご一緒した(あるいは彼を巻き込んでしまった)のである。NW事業の普及の一環として阪大で発表・講演していただいたことも複数回あり、その流れでドイツのシンポジウムに一緒に参加したことも1度ならずあり、さらにはデジタル文学地図プロジェクトでも、お世話になっている。年度によっては同僚よりも会う回数が多かったかもしれない。

 そういうわけて、前書以上に、山本さんの思いが溢れている本書には、友人としての感慨を禁じ得ない。友人として認めてくれているかどうかはわからないけれど(笑)。

 そして目次をめくっていて驚いたのは第2部第2章に「古典再生ー『飛騨匠物語』」という論文があることだ。「えっ」と思った。初出も「〈古典〉再生ー石川雅望『飛騨匠物語』」である。2月11日・12日に行った国際シンポジウム「古典の再生」。「再生」はパワーワードだと言ってくれた人もいたが、なんと、すでに2003年に山本さんが論文タイトルに使っていたのである。この論文では『更級日記』はそれほど読まれていたテキストではないことから、雅望が、作品に持ち込んだ『更級日記』本文と考証が、『更級日記』という古典の再生になっているという。まさに「古典再生史」に欠かせない一齣だと言えるだろう。山本さんが使った「古典再生」という言葉を、はからずも、20年後、私たちは「再生」したことになるのであった。まさに奇縁である。
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2023年02月20日

和歌と暮らした日本人

 21年間の大阪大学在職中、卒論生は毎年1人〜4人であったが、それでも40人くらいは、いる。公務員や教員や、IT企業やアパレル関係や、いろいろなところに就職して、がんばっている。その中のひとりに、中堅の出版社に就職した人がいた。大企業からも内定をもらっていたが、出版社に決めた。それが淡交社にいた八木育美さんだ。私の敬愛する歌人伊藤一彦さんの連載の担当もしていたが、浅田徹さんの『和歌と暮らした日本人』も担当したという。これは、少し前に出た本ではあるが、このたび、少し連絡をしていただくことがあって、彼女から「自分が担当した中でもお気に入りの本」ということで、送っていただいたものである。
 雑誌に連載したものの単行本化であるが、国文関係の出版社ではないから、古典文学研究者でも気づいていない人がいるかもしれない。
 読んでみると、たしかにいい本である。4章構成だが、特に第3章と第4章は、浅田さんの専門的な知識、研究成果が惜しみもなく披露されている。しかし、一般向けに実にわかりやすく書かれている。私など、蒙を啓かれること少なからず。また、よい本には必ず備わっている、なぜか私の研究のヒントになる記述が、1つ2つに留まらない。さすがである。
 和歌がどう生活の中で使われてきたかに焦点をあてたもので、入門的な和歌の本としては、類書がないと思う。2019年9月刊。
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2023年02月14日

近世文学史論

 鈴木健一さんの『近世文学史論ー古典知の継承と展開ー』(岩波書店、2023年2月)が刊行された。
内藤湖南の名著と同題で、古典文学から近代文学への転換という大きな見取り図の中に近世文学を位置づけ、4つの視点から近世文学を史的に考察してゆこうとした論文集のようである。書き下ろしではないが、体系性をもたせようとしている。
 鈴木さんによれば、近世は1603年から1867年まで。
第一の視点は、「学問と文芸の融合ー知の共同体の形成」
第二の視点は、「〈型〉の継承と変容ー新しさの創出への苦闘」
第三の視点は、「画と詩の交響「絵画体験と美意識の浸透」
第四の視点は、「神秘性から日常性へー現実に対処する精神」
それぞれの視点は、いくつかの論文の集成である。
 このうち、土日に行われた国際シンポジウム「古典の再生」と、とくに関わるのが第二であろう。「変容」は作者の意識の持ちようで、「再生」とも捉えうるからである。
 また、第四の、神秘性から日常性へとは、確かにそういう流れは、怪談史などを構想するならばあり得る推移の一面ではあるが、全体として捉えられる見方といえるかどうかは保留したい。むしろ神秘に対する態度、日常に対する処し方が変わっていくという見方もあるだろう。
 ところで、「史」の問題は、前の投稿の「古典の再生」での、第2セッション「源氏物語再生史」でもディスカッサントの中嶋隆さんから重要なものとして言及されていた。メディアに注目する立場から、「アーリーモダン」という切り口を用意される中嶋隆さんは、鈴木さんの文学史をどう考えておられるだろうか。鈴木さんの切り口はおそらく「古典知」と言っていいだろう。だが、「古典知」の内容も、人によってバリエーションがある。「俗解された古典」知もあるので、古典だから雅というわけでもない。鈴木さんは、複雑な様相をわりと明解に説いているのだが、4つの視点はどう複合するだろうか。共同性と個性のバランスということを最後のあたりでおっしゃっている。私はシンポジウムで、和歌における「勅撰集モデル」(共通する心を表現)と「万葉集モデル」(自分自身の心を表現)を秋成が仮設していたというようなことを言ったが、それと重なるようにも思う。しかし、それは十八世紀後半に山があると見ている。
 鈴木さんの本はまだめくってみただけで、精読していない。私の見当が外れているかどうか、これからじっくり読ませていただきたい。
 
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2023年01月25日

国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」のお知らせ

国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」を開催します。オンラインです。
一つ前の投稿でお知らせしましたように、『大才子小津久足』(中央公論新社)を刊行されたばかりの菱岡憲司さんを、基調講演にお迎えし、他3名の方の発表とともに、さまざまな角度から、〈紀行〉研究の可能性に迫ります。ポーランドからは、アダム・ベドゥナルチクさんをお迎えしました。
興味のある方、是非参加登録をお願いします。

国際研究集会 〈紀行〉研究の新展開
日時 2023年2月22日(水) 15::00-18:40 (日本時間)
開催方法 Zoomによるオンライン
主催 科研基盤研究B「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」(研究代表者 飯倉洋一) 
使用言語 日本語

プログラム

基調講演 (15:10-16:10)
小津久足の生業(なりわい)と紀行文
菱岡憲司 (山口県立大学)
【講演要旨】
小津久足は干鰯(ほしか)問屋の主人であり、本宅のある松坂と江戸店の往復や、商用で京・大坂を訪れるついでに名所旧跡に足を伸ばし、多くの紀行文を残している。つまり、もともとは商用を目的としながらも、紀行文では風流の旅として描いている。事実を重んじる久足は、積極的に虚構を描かないが、何を書くか、どう書くか、において創作的営為をおこなう。その具体的な様相を、久足の選ぶ名所旧跡の基準とともに紹介したい。

研究発表(16:20-18:00)
飛鳥井雅有の紀行と蹴鞠―『春の深山路』における東宮への思いをめぐって―
湯書華(大阪大学大学院博士後期課程)
【発表要旨】
飛鳥井雅有(一二四一〜一三○一)は彼の日記・紀行文『春の深山路』(弘安三年、一二八○)で、東宮(後の伏見天皇)への思いや、東宮の即位への強い関心を表している。本発表では『春の深山路』に見える雅有・東宮の親しい関係の形成について、その理由を蹴鞠の側面から考えてみたい。また、雅有が『春の深山路』においてどのような方法で東宮への思いを表現するのかを、同時代や、雅有自身のほかの紀行文と比較しながら検討したい。


文体の要素の一つとして散文化―『海道記』を例に―
アダム・ベドゥナルチク(Adam Bednarczyk) (ニコラウス コペルニクス大学)
【発表要旨】
 『海道記』は和漢混交文体の重要な例である。この紀行は、漢文から借用された豊富な語彙だけでなく、漢文学への言及にも基づく高度な漢化を特徴としている。しかし、簡単な暗喩や引用の代わりに、『海道記』の作者は漢詩文の一部を散文化したことが多い。作者は、詩の形式を捨て、散文に変えることで、日本的でありながらその要素が漢文的な原型を持つ現実の姿を描き出した。発表の目的は、『海道記』に『和漢朗詠集』等から借用された詩句がどのような変容を遂げたか、そして何よりも、和漢混交文体の構成の一方法として散文化が果たした役割について論じることである。

歌枕を継ぐ―『継尾集』の位置―
辻村尚子(大手前大学)
【発表要旨】
『継尾集』(元禄五年)は、「奥の細道」の芭蕉を迎えた酒田の不玉が編んだ集である。芭蕉「象潟の雨や西施が合歓花」句を筆頭に、諸家の象潟吟を収録する。なかには、芭蕉の跡を追った支考の「象潟の紀行」もあり、いわゆる「後の細道」の最初期の集としても注目される。
象潟は能因・西行ゆかりの歌枕である。奥の細道以後、そこに、芭蕉が名を連ねることになった。歌枕への俳諧の接続はどのようになされたのか。『継尾集』の例を考察する。

総合討論 〈紀行〉研究の可能性 18:10-18:40
菱岡憲司、ユディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)、辻村尚子、中尾薫(大阪大学)
 司会 飯倉洋一(大阪大学)

参加登録はこちらからお願いします。

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2023年01月24日

大才子小津久足

 菱岡憲司『大才子小津久足』(中央公論新社、2023年1月)。
 馬琴から「大才子」と称された、伊勢松坂の干鰯問屋(ほかに兼業いくつか・・・)小津久足をクローズアップ。小津を通して、これまであいまいだった「江戸時代」の一面、文化文芸に商人の果たした役割や意味を浮かび上がらせた快作である。読んで面白いのは文章力の確かさ。雑学庵を称した小津と同じく、並外れた読書力・咀嚼力で得た知見と、文学的なセンスがそれを可能にしている。
本書第一章を読みつつ、次々に繰り出される専門書の引用に唖然としながら、それらが菱岡氏が一時期ツイッターで紹介し続けていた経済史・流通史・産業史の本であることを思い出す。確かに久足は商人だから、そこはきちんと押さえなければならない。しかし、その徹底ぶりが半端ない。それらに掲載されている一次史料を読み込んだ上での、商人としての小津(湯浅屋与右衛門)を描き出す。
 たとえば上田秋成は、紙油商の上田家に養子に入り、養父亡き後の10年ほどは、主人として過ごしたはずだが、秋成研究者でこれまで、近世中期の紙油商について、その経営のあり方、仕入れや販売ルートや商人間の取引の実態について調べようとした人がいただろうか?しかし、秋成の人生の前半生は紙油商の若旦那であり、店主だったのだ。そういうこれまでの文学研究・作家研究に対して本書は批判の言辞は一切ない。ただただ静かに模範を示すところが逆に刺さる。
 こういった、博引旁証から、いくつもの至言を我々は与えられる。第一章では、「江戸時代の商いの実情は、本業もさることながら、兼業に着目しなければ見えてこない」というのがそのひとつ。鰯のように獲れ高に左右される本業の不安定さを補う兼業が、商家の継続の鍵を握るのだ。「兼ねる」ということ。それは人格的にも言える。言うのは簡単であるが、それを等価に調べていくことはそう簡単ではない。また秋成になるが、晩年の秋成は茶人としても際立っていたが、茶人秋成は、文芸作品との関わりにおいて以外は、文学研究者は自分ではあまり調べようとせず、茶道研究者に任せている(あ、これは私だけかも、失礼しました)。もっとも、自ら茶の稽古をしている研究者の方もいらっしゃる(尊敬してます)ので、一般化してはいけないところ。
また江戸時代は「家」の概念が非常に重要だが、菱岡さんは小津家代々について、実に丁寧に叙述してゆく。その上で紹介されるからこそ、家訓書『非なるべし』の家訓に深く感銘を受ける。驚きますよ。「恥をかき、義理をかき、事をかく三角の法は、商いのためには四書六経にもまされるをしへ、陰徳などは必ず心がくべからず。人のためよき事も心がくべからず。まして世のため国家のためなどいふは無用にて、商の道にあらず。商はただわが家繁昌、得意繁昌を思ふの外、無用也。」。いきなり、これを読めば、「やっぱりあきんどやな」と思うだけかもしれないが、菱岡さんの描く干鰯を生業とする与右衛門の透徹した処世観を読んでくれば、この家訓にはむしろ感動する。あくまで「家訓」であり、個人の生き方を示しているのではないのだ。
 本書の中で、この第一章の意味は非常に重い。文学研究者は第2章から読みたいかもしれないが、第一章こそが必読なのだ。
 第二章では国学・和歌・紀行文という文芸活動を行なった久足。ここでは「雅俗」についての説明があるが、現在いちばんわかりやすい「雅俗」の説明だろう。これは「今古和漢雅俗もみな一致」を唱える久足の文芸観の解説につながっていく。雅俗をきちんと論じるためには、堂上歌壇を無視できない。菱岡さんはそこもきちんと押さえて叙述し、宣長学からの離反という経緯を時代状況の中できちんと描く。
 そして第三章。本好きにはたまらない、久足の蔵書「西荘文庫」の形成と、蔵書交流ともいえるネットワークの詳細な解明である。リアルな有様がわかる書簡や文書の的確な引用と、新事実の指摘もさることながら、きわめて重要な指摘をしている。それは江戸出版流通の整備と蔵書形成が深く関わっていること。とくに江戸時代後期になって富裕町人が大蔵書家になるための環境として、それが無視できないことを、わかりやすく説得力ある説明で教えてくれる。これも、出版流通に関わる先行研究の読み込みと、一次史料をきちんと抑える菱岡さんの学問的態度のなせる業である。また蔵書家同士の交流も、膨大な書簡の読み込みから明るみに出していて、ここらあたりは、本好きにはたまらないはずである。この章で重要なのは、えてしてありがちな、江戸・京都・大坂の三都文化圏だけで、江戸の経済や文化を論じようとするあり方への警鐘、そして、発信者(作者・著者)と受信者(読者)だけでなく、中継者という視点が必要で、その三者を総合したところに書籍文化論が成り立つだろうという提言。なるほどと頷かざるをえない。反省せざるを得ない。またまた秋成の話で申し訳ないが、秋成晩年の傑作『春雨物語』が、伊勢商人の間で重宝されている様子が、本書でも生き生きと描かれているが、宣長を生んだ伊勢で、その論敵秋成の作品が、ここまで人気があるという現象を知らないと、その意味はなかなかわからないだろう。秋成の本を写したり貸借する伊勢商人たちの嗜好はいかなるものなのか。これまでの秋成研究に欠けていた視点である(近年、少しずつ注目されはじめているが、これも菱岡さんや、青山英正さんたちの川喜田家蔵書調査の成果によるものである)。川喜田(遠里)は久足の蔵書仲間である。
 ところで久足は馬琴から「神速」と呼ばれるほど、本を読むのが早かったらしい。それについて菱岡さんは触れているが、菱岡さんや、菱岡さんが敬愛する松坂出身の柏木隆雄先生(大阪大学名誉教授。本書のあとがきに出てくる。本ブログでも時々とりあげさせていただいている)速読術も尋常ではない。まあ、読書量がだんだんと速度を上げていくのでしょうね。
 第三章では、秋成・馬琴・応挙などの本を、久足がどうやって集めていくか、そのさまざまなノウハウについても紹介されているとともに、なぜ久足が、それらを集めたのかという理由についても考察されている。ここも読みどころである。
 第四章は宣長学の、前のめりで、一つに収束するような思想に嫌気をさしてそこから離れ、バランスのよい「雑学」を身にまとった「雑学庵」としての久足を描く。古今和漢雅俗一致の思想は、価値の相対化と、「畸人」志向から帰結する。ここにも商人の生業が関わってくる。
 久足の膨大な量の紀行文は、そこから見える江戸時代のドキュメンタリーとして貴重である。その一端を示したのが第五章。興味がつきない記述がたくさん出てくる。
 さて、いくつもの顔をもつ久足。どれが本当の久足なのか、と、凡庸な問いを発したくなるのだが、菱岡さんは終章で、これまでの内容を見事にまとめた上で、さらに面白い実態、そしてなるほどという見解を披露する。「壱人両名」ということが黙認されていた社会、最後に正体が明かされる近世演劇の「実は」の作劇法は、観客に「名称使い分け」の日常生活があったからすんなり受容できたのではという仮説。そして最後に、久足が蔵書や旅行にお金を使うことが、実は商売を守ることにつながるという一見逆説的なポリシーを紹介する。もうけたお金を元に商売をさらに拡大することのリスク(これで潰れた現代の商売のなんと多いことか)を熟知するゆえに、財産は守るが拡張しない、それが家の継続のために重要な考え方だと。
 久足の考え方には今の我々が学ぶべきところが非常に多い。さりげない教訓書だったのか?いやそんなことを菱岡さんは考えてはいない。ただこの本は、読み始めたらやめられないくらいに面白く、わかりやすい。それでいいのだが、あまりにも学ぶところが、多いのだ。研究者には特に。
 最後に、拙論たくさん引いてくださってありがとうございます。嬉しかったです(笑)
さて、その菱岡さんを基調講演者としてお招きし、国際研究集会「〈紀行〉研究の新展開」を、オンラインで開催する。2月22日15:00から。改めてまたアナウンスします!
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2023年01月12日

古典と日本人

ブログの始動が遅くなってしまいました。本年もボチボチとやっていきますのでよろしくお願いします。
1月7日は、2020年以来の、対面での大阪大学国語国文学会に出席した。オンライン併用ではなかったこともあってか、予想以上に多くの方がいらしてた。久しぶりにお会いした方も多く、「旧交を温める」とはこのことか、と感じ入った次第である。
2月11日・12日に開催予定の国際シンポジウム「古典の再生」、私は司会、発表、そして運営スタッフでもあり、準備に追われている。私自身は、秋成の「古典」語りを通して、「古典の再生」のテーマに迫りたい。具体的には『万葉集』である。秋成は『万葉集』を読者として読むだけではなく、研究し、そして貴顕に対して教えた経験もあった。秋成の『万葉集』への向き合い方は複眼的なのである。『万葉集』評釈という語りを逸脱して自身を語るというあり方、近代古典評論とも異なるその語りは一考の価値があるということを問題提起したい。
 そして、「古典の再生」というテーマに非常に関係の深い本が年末に読みやすい新書で出た。前田雅之氏の『古典と日本人』(光文社新書、2022年12月)である。副題が「「古典的公共圏」の栄光と没落」。「古典的公共圏」は前田氏の造語。概念を創出し、それを通すことによって、文学史が俄然見えてくることがあるが、「古典的公共圏」もそのひとつで、私はこの概念を借りながら、文芸や文壇について様々に考えることができた。前田氏の「古典的公共圏」論が、読みやすい形で体系的にまとめられたらどんなにいいかと思っていたところ、まさにドンピシャの本が出たわけである。
 近時話題になることの多い、古典教育不要論も意識している。古典や古典教育を感情的に擁護するのではなく、厳しく冷めた目で現状を分析した上で、なぜ古典が、古典学びが必要であるかを説いている。まずは前田氏の「古典的公共圏」の定義をみておこう。124頁。
  古典的公共圏とは、古典的書物(『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』)の素養・リテラシーと、和歌(主として題詠和歌・本歌取り)の知識・詠作能力とによって、社会の支配集団=「公」秩序(院・天皇ー公家・武家・寺家の諸権門)の構成員が文化的に連結されている状態を言う。
  「古典的公共圏」は、ドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスのいう「代表具現的公共圏」と密接に関わる。前近代の公共圏である「具現的公共圏には修辞的語法がつきものである」(カール・シュミット)。行動・服装・言葉という礼儀作法が重要である。日本の古典的公共圏では、古典の素養や題詠和歌の詠作能力や、有職故実の知識が必須となるわけである。最重要の古典は、先に挙げた4つの古典で、万葉集や今昔物語は入っていない。
 この「古典的公共圏」は、古今集以下の4つの古典の注釈が現れ、本文校訂が現れ、徐々に形成されてゆき、それが確立した時代は後嵯峨院の時代であった。後嵯峨院は2度勅撰集を下命した。どちらも20巻であり古今集を継承する意識が明確である。そしてこの時代には古典のパロディーも現れた。
 戦乱の中でも和歌を読む事や古典の知識は重視された。それどころか和歌と政治は密接につながっていた。
 古典を写す行為は重要だった(松平定信は源氏物語を7回写している)。
 とはいえ、古典の教養と人格は関係ないことも、前田氏ははっきり言明している。これには強く共感する。多くの古典擁護論は、古典がよい人格を作るという言説をたてるが、これは何の根拠もない、ポジショントークといわれても仕方のない論なのだ。
 日本における前近代人と近代人の文章や論理の変化についても興味深い指摘をする。前近代の思考は、言葉と言葉の連想が基軸となっていた。記憶・連想による思考だ。対して近代の思考は、AだからBという線形論理である。また前近代の人間には「要約」という行為ができないという。これはなかなか大胆な仮説だが、確かに前近代の文章に「要約」というものを見ることがほとんどない。要約とは本質の摘出であるが、それをしない。彼らはこまめに抜き書きをするのである。面白いなあ。いやはや、100パーセントではないと思うが。とはいえ「近代」を論じた部分は、一等前田氏らしい議論が次々に出てくる。余談だが、「いやはや」「とはいえ」「一等」は前田氏の文章に頻出する前田節である。
 なかなか類書を見出し難い本である。肯定的であれ、否定的であれ、古典文学研究者はやはり必読だし、古典に関心のあるすべての人に読んでいただきたい本である。
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2022年12月30日

『やそしま』最終号と柏木隆雄先生

柏木隆雄先生(大阪大学名誉教授・大手前大学名誉教授)が、大阪市市民表彰を受けられたというニュースが少し前に届いた。おめでとうございます。大阪大学のウェブサイトにそのことが報じられたたが、先生のコメントに「上方文化芸能協会の機関誌「やそしま」第15号、最終第16号に寄せた拙文を読まれた方が、大阪文化への寄与の証として推薦されたのでしょう」とある。その「やそしま」最終号について書く。
柏木隆雄先生は、このブログでも度々紹介させていただいているが、松阪ご出身で、工業高校を出られて、化学関係の企業(住友金属)の研究所に就職されながら、文学への想いやまず転身、大阪大学文学部に入学され、フランス文学を専攻、バルザック研究の第1人者として、仏文学界隈では知らない方はいない。化学を学んだ先生らしく、「触媒」という概念を作品生成論に用いたという話を聞いて、「なるほど、さすが」と(わたしが)うなったことがある。しかし、先生のすごいところは、尋常ではない読書量でもって、古典から近現代作品まで、日本文学を自在に論じるところである。とても仏文学専門とは思えない。その豊富な知識と比較文学的方法で、日本文学関係の論文もすくなくない。それだけでなく、さまざまな文化全般、そしてワインにも通じていらっしゃる。まさに「教養」が服を着て歩いている感じで、ちょっとした挨拶にも、文学者の言葉を適切にさらにと引用する、その知の広さたるや、わたしの知る中でも一番ではないかなあと思う。
上方文化芸能協会は、南地大和屋女将の坂口純久(きく)さんが主唱し、作家司馬遼太郎氏と当時の大阪大学学長山村雄一氏に協力を得て、大阪府・大阪市・や大和屋贔屓の経済人・知識人らが賛同集結して、大阪の芸能文化を継承するために出来た財団法人で、昭和58年に設立された。平成19年には、当時の岸本忠三総長のお声がけで、阪大文学研究科が協力することになり、文学研究科の中に「上方文化芸能協会」の運営委員が何人かで組織された。私も当初から声をかけられてメンバーとなった。というと何か貢献をしたみたいだが、実際の貢献はほとんどなく、会議もほぼすわって先生方の蘊蓄をきいているだけ。むしろ、住吉御田植神事や上方の舞踊の舞台などに招待されて、文字通りの「役得」を味わってきたのだった。
さて前置きが長くなったが、柏木隆雄先生は、文学研究科は機関誌を刊行することに主として協力していこうということで、「やそしま」という雑誌を作ることになった。柏木先生は、毎号巻頭の座談会の司会として参加されていたと思うが、能であろうが、文楽であろうが、落語であろうが、どんな芸能の超一流のゲストが来られても、見事にさばいて、適切なコメントを入れていく。絶対にわたしにはできない芸当で、毎回「さすが」とやはりうなっていた。
さて、女将もご高齢であり、いろんな状況から、引き時とみられたのであろう、上方文化芸能協会は幕を閉じ、「やそしま」も16号で最終号となった。柏木先生が、「『やそしま』の十五年」として巻末に長い回顧を書いておられる。これは資料的にもすばらしい。編集にもずっと関わってこられた柏木先生にしか書けない文章である。そこで書いていただいているように、私も創刊号に拙稿を載せていただいた。「秋成と住吉」あたりで何か書けないか?と依頼されたようだった、なにか捻り出そうとした。秋成は確かに住吉のことを書いてはいるのだが、実際にどういう経路で行ったのかとか、考えてみるとイメージできなくて、住吉の地図や文献をいろいろ当時調べて、すごく短い文章を出した。あとで、編集のM丸さんから、「先生のはなあ、堅すぎたわなあ」と苦笑まじりに言われて、「嗚呼!」と、わが未熟さを嘆いたものであった(笑)。
 文学研究科は寄稿で貢献する、ということだったが、私はその後一度も貢献せず、大活躍されたのは橋本節也先生だった。2号以降、たぶん毎号、かなりの力作を寄せて、大阪の画家と芸能をつなぐ興味深い話を次々と投入された。橋本先生も、「大阪の画家たちを連載して」という回顧的な文章を寄せている。もちろん坂口純久女将のご挨拶のことばもある。あらためて、全号を読み返してみたいと思う最終号であった。
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2022年12月28日

源氏物語補作

 今西祐一郎先生編注の『源氏物語補作 山路の露・雲隠六帖他二篇』(岩波文庫、2022年12月)が刊行された。
源氏物語のいわゆるスピンオフを集めたもの、といえようか。
そもそも、「未完」的な終わり方をしている源氏物語の続きを、想像したくなるのは当然で、江戸後期、京都で和文の名手としてならした伴蒿蹊の主催した、「和文の会」(みんなで集まり、題を出して擬古文を作る会)では、「夢浮橋のあとを継ぐ」なんていう題で作文が行われている。また、源氏物語にあえて書かれていない場面を想像して、創作してしまうというのもある。それが「他二編」のなかのひとつ、本居宣長の「手枕」である。これは宣長が、源氏と六条御息所のなれそめを書いたものだ。そして、私にとっては、この「手枕」が岩波文庫にはいったのか、という感慨が大きい。
 今西祐一郎先生の解説も面白いが、ありがたいことに、秋成の「手枕」評に触れてくださっている。『文反古』という秋成の書簡を集めた版本の中に、宣長と秋成の仲介的役割をした荒木田末偶(すえとも)宛書簡で、秋成はこの作品をこきおろしているのだ。私が学生とともにこの『文反古』を注釈し、科研報告書として刊行したが、このほとんど知られていない地味な成果を、参考文献として取り上げてくださっている。ありがたいことである。
 
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2022年12月26日

芭蕉のあそび

深沢眞二さんの『芭蕉のあそび』(岩波新書、2022年11月)。
 帯に「芭蕉だって笑ってほしいに違いない」と、本書中の文章を使ってコピー風に書かれている。古池に何匹もの蛙が飛び込んでいる図とともに。
 芭蕉が、あまりにも真面目に、深刻に、崇高に解釈されてきていて、それは芭蕉の神格化には大いに意味があったのだろうが、芭蕉の作った句は、俳諧なのであって、そのベースは滑稽であったはず。そこを見過ごしては、本来の芭蕉の面白さを見失いますよ、という立場で、深沢さんは芭蕉の句の〈あそび〉を読み取って、一般的な芭蕉とは違う、人をくすっと笑わせてやろうというサービス精神を探り出す。もちろん、俳諧を風雅の文学に高めた崇高な芭蕉観を否定するためではなく、もうひとつの芭蕉の顔を見せようとするのである。
 深沢さんは、一見仏頂面、もとい真面目な外見なので、芭蕉句を哲学的に解釈している方のように見えるのだが、実はいつも人を笑わせてやろうと狙っている方ではないかと私は思う。深沢了子さんとの夫婦漫才風の宗因注釈を私は愛読していたが、了子さんがパッと面白いことを思いつくのに対して、眞二さんは、熟慮してウケを狙っているように思えるのだ(私の主観ですが)。つまり、深沢さんと、深沢さんの説く芭蕉とが重なって見えてしまうのである。
 ところで、句を面白く味わうためには、作者と読者の間に、共通の教養とか知識、それも学んで得たというより、私たちが自然に覚えたアニソンみたいに、もう体に染み付いているような言葉の世界があり、それがなければ逆に芭蕉の〈あそび〉は理解できないのである。古今集や論語などが、そうなのだろうが、江戸時代でアニソン的なのは、小謡集などに載っている、有名な謡の文句であろう。第三章がそれである。誰でも知っている謡曲を踏まえた句は、初期の俳諧によく見られるものである。しかし現代人は、その共通の教養の部分を、ほとんど持っていないので、むしろ高尚な人生論や世界観と芭蕉の句との間に親和性を読み取るわけである。それはそれでいいのだろう。現代人が芭蕉に近づく理由も敬遠する理由もそこにあるような気がするが、古典研究者は、芭蕉と同時代の人々の、誰でも知っている言葉世界に現代人を誘って、当時の人たちの読み方を紹介する務めがある。そこに、高尚な思想とは違う豊かな文芸の味わいがあるのだろう。
 しかし、この本の中で、私が注目したのは、芭蕉が句を少しずつ変えるのを、推敲とはみずに、人的関係や状況を踏まえたバリエーションと見る見方。さらには、同じ句なのに、芭蕉自身が解釈を変えてみせるというところだ。これは実に我が意を得たりというところがある。江戸時代の文芸の本質かもしれない。つまり、江戸時代における文芸作品とは、作った人とそれを味わう(特定の)人との間にあって、可変的(あるときはテクストそのものが、あるときは解釈が)であるということなのだ。このあたりのことを、深沢さんにさらに聞いてみたいと思ったことだった。
 
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2022年12月25日

シンポジウム「古典の再生」参加申込開始

先にアナウンスしておりました、国際シンポジウム「古典の再生」のウェブサイトが完成しました。
https://kotensaisei.wixsite.com/website

日時 2023年2月11日(土)12日(日)の2日間。
会場は京都産業大学むすびわざ館(京都市下京区)
|主催|京都産業大学 外国語学部 盛田帝子
|共催|京都産業大学研究推進センター
|後援|日本近世文学会/絵入本学会/一般社団法人美術フォーラム21
*本シンポジウムは、京都産業大学国際共同研究推進支援プログラム及びJSPS科研費20KK0006の助成を受けたものです。
(なお私は科研の研究分担者です)
登壇者のプロフィール、プログラム、発表要旨は上記のサイトから確認できます。
どうぞ、ご覧ください。参加登録も上記のサイトからできます。対面でもオンラインでも是非おはやめにご登録ください。

土曜日は「再生する古典」をテーマにパネルディスカッション。
日曜日は「イメージとパフォーマンス」「源氏物語再生史」「江戸文学のなかの古典」をテーマに3つのセッション。
登壇者は20名超。

image.jpeg

古典の再生_4th裏.jpg

以下、趣旨文です。

現代まで伝えられている「古典」は、これまで、さまざまな時代の波にさらされたが、「古典」みずからがもつ力によって、あるいは「古典」に関わった人々の努力によって、その波を乗り越えてきた。「古典」は過去の遺物ではなく、つねに時代と交わって新たな意味を生成し、存在意義を示してきた。いったん消滅したかに見えたテキストが、鮮やかに蘇ることもあった。

「古典」というテキストは、常に再生しつづけている。ある時は別のテキストと融合し、ある時は別のテキストに引用され、ある時は海外の人々の手にわたって翻案され、ある時は二次的な創作物として新生する。古典研究者としてのわたしたちは、このような「古典の再生」の現場を何度も目撃してきた。「古典」を復元し、憧憬し、再発見し、再利用し、再創造してきた人々の営為から、わたしたちは多くを学び、「古典」を未来に繋ごうとしている。

古典はいかに再生されてきたか、古典をいかに再生すべきか。このシンポジウムでは、その歴史を振り返り、未来に向けて、私たちがなすべきことを、日本の古典を学ぶ海外の人々とともに、国際的な視野からも考えてみたい。

是非ご参加ください。お待ちしております。
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2022年12月24日

うすがみの銀河

私の教え子のひとりに、角川短歌賞を受賞した気鋭の歌人がいる。
鈴木加成太くんである。私の元で黄表紙で修士論文を書いた。論文も発表している。
彼が第一歌集を出版した。『歌集 うすがみの銀河』(角川書店、2022年11月)。

歌は透明感があって繊細で、切り口が独自。静かで落ち着いた日々の中で、注意深い感受性が切り取った穏やかな世界が表現されている。
読んでいる時間は至福の時間。
坂井修一さんたちの「栞」の文章もそれぞれ興味深い。NHK短歌で坂井さんとの出会いがあったという。
その歌、「八月の空に青葉のあお満ちて〈戦争は白黒でない〉と気づく」17歳の時の歌。たしかに非凡である。
大学キャンパスで詠まれたと思しい歌も散見して、楽しめた、
「菊花の約」も詠まれた「お辰宗旦」の一連、近世文学研究者の面目躍如というところ。

カバーは川瀬巴水。国会図書館のイメージバンクから。おお、なるほど。さすがライブラリアン。
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2022年12月03日

追悼楊暁捷先生

 1冊の本が送られてきた。『戯れる江戸の文字絵』(マール社、2022年11月)。十返舎一九の『文字の知画(ちえ)』という滑稽本を紹介・解説した本である。著者は楊暁捷(ヤン ショウジェ)さん。監修は板坂則子さん(専修大学名誉教授)。楊さんは、カナダのカルガリー大学で、長い間、日本文学を教えてこられた方で、とくに絵巻・絵本の研究にすぐれ、それをデジタル活用することに熱心に取り組んでこられた。この本は、絵の中に文字を隠して忍ばせる文字絵の面白さを、懇切丁寧に解説し、くずし字学習の教材ともなるすばらしい本である。板坂さんと何度もメールを交わして作ったという。
 楊さんは、2022年10月13日にこの世を去られた。本書を完成させた直後だったという。楊さんの最後の著作となったのである。日本と日本文学を愛した、この稀有の研究者の著書を、多くの方が手にとってくださればと思う。
 ここで、私の楊さんへの思いを述べることをお許しいただきたい。楊さんは私より少し年下の方であったが、WEB上で「絵巻三昧」と題するブログを開き、非常に意欲的に発信をされておられたので、お名前はよく知っていた。ほぼ同世代で、くずし字学習にも熱心に取り組んでおられたので、一度お話しをしたいと思っていた。たまたま日文研の荒木浩先生のプロジェクトでご一緒することになり、ある日の研究会の懇親会で、じっくりお話しも出来て、意気投合するところがあった。私がオーガナイザーの一人である来年2月の国際シンポジウム「古典の再生」で、古典のイメージとパフォーマンスによる再生をテーマとするセッションを企画したが、そのセッションの発表者の一人として、楊さんに絵巻のことでお話しいただきたいとお願いをした。すばらしいテーマだとおっしゃってくださり、ご快諾を得た。(シンポジウムにつきては、ひとつ前の投稿をごらんください)
しかし、9月はじめごろ、思わぬことに、治癒の見通しの厳しい病気となったこと、発表は辞退せざるを得ないと思うということ、一方でこんな構想で準備を進めているので録画を作成することはできるのだがあまり好ましくないだろうということが書かれたメールをいただいた。ご病状が不幸にして回復しない場合は、録画を流し、無理のない範囲で質疑応答のみオンラインで行うという提案をすると、前向きに考えていただき、10月までには録画を作成できるというご返事をいただいた。そして約束通り、10月9日に発表動画をいただいた。なくなる4日前のことだった。その後訃報を知り、ショックを受けた。動画をいただいたあとに、メールが途切れていたので気になっていたが、まさかと。そして苦しい中で、約束を果たされた責任感の強さと研究への熱意に打たれた。その上に、著書まで完成されていたとは!
 2月のシンポジウムでは、楊さんからいただいたプレゼンセーション動画を流す。そして、感謝とともに追悼の意を表したいと思う。
 それにしても、本当に惜しい方を亡くしてしまった。『戯れる江戸の文字絵』やプレゼンテーション動画など、楊さんが残してくれた素晴らしい業績で、偲ぶしかないのである。
 
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国際シンポジウム「古典の再生」を開催します。

来年2月、国際シンポジウム「古典の再生」を京都で開催します。
そのご案内です。

古典はいかに再生されてきたか、古典をいかに再生すべきか。
その歴史を振り返り、未来に向けて、私たちがなすべきことを考えます。
海外の日本古典文学研究者も多く参加します。

日時 2023年2月11日(土)・12日(日)
会場 京都産業大学むすびわざ館(京都市下京区) オンライン併用 

プログラム
2023年2月11日(土)〈1日目〉 13:30-17:40

【パネルディスカッション 再生する古典】 司会 飯倉洋一(大阪大学)
〈基調講演〉「古典×再生=テクスト遺産 過去文化の復興における文学の役割」 
エドアルド・ジェルリーニ(ヴェネツィア・カフォスカリ大学)
〈発表〉
「18-19世紀における王朝文学空間の再興」  盛田 帝子(京都産業大学)
「琉球における日本古典文化の受容」       ロバート・ヒューイ(ハワイ大学)
「古典の再生−古事記・日本書紀・風土記の翻訳と海外における受容」 アンダソヴァ・マラル(早稲田大学)

〈討論〉エドアルド・ジェルリーニ+盛田 帝子+ロバート・ヒューイ+アンダソヴァ・マラル
ディスカサント 荒木 浩(国際日本文化研究センター)

〈特別プレゼン〉  司会 加藤弓枝(名古屋市立大学)
「古典本文をWEBに載せる−TEIガイドラインに準拠したテキストデータ構築」 
永崎研宣(人文情報学研究所)+幾浦裕之(国文研)+藤原静香(京都産業大学非常勤研究員)

2023年2月12日(日)〈2日目〉 10:00-17:15
【セッション1 イメージとパフォーマンス】司会 盛田帝子(京都産業大学)
「絵巻と『徒然草』絵注釈の間―デジタルアプローチの試みをかねて」 故 楊暁捷(カルガリー大学)(動画)
「人麿画像の讃の歌」佐々木 孝浩(慶応義塾大学)
「霊媒〈メディウム〉としての古典:初期テレビと1956年の幽霊」 ジョナサン・ズイッカー(カリフォルニア大学バークレー校)
「女房装束の変遷―平安期女房装束の復元を通じて―」 佐藤 悟(実践女子大学)
ディスカサント 山田 和人(同志社大学)

【セッション2 源氏物語再生史】 司会  加藤 弓枝(名古屋市立大学)
「女房たちの源氏物語―『阿仏の文』を視座に」 田渕 句美子(早稲田大学)
「『源氏物語』享受史における詞の表象」 松本 大(関西大学)
「樋口一葉における和歌と源氏物語」 兵藤 裕己(学習院大学)
ディスカサント 中嶋 隆(早稲田大学)
  
【セッション3 江戸文学のなかの古典】 司会 有澤 知世(神戸大学)
「江戸幕府の儒臣と朝廷の文物 ― 柴野栗山の事例を中心に」 山本 嘉孝(国文学研究資料館)
「紀行文の中の古典」 ユディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)
「上田秋成における〈古典〉語り」 飯倉 洋一(大阪大学)
ディスカサント 合山 林太郎(慶応義塾大学)

参加登録方法は追ってお知らせいたします。対面・オンライン併用です。
ご興味のある方は、ご予定ください。


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2022年11月29日

絵入本ワークショップ13をオンライン開催。

絵入本ワークショップXVがオンラインで開催されます。今回も公開で行います。
発表は10本+講演。土曜日は、平安女房装束復元の小特集です。
開催校は大阪大学(実行委員長門脇むつみ先生)、形態は完全オンラインです。
ぜひご参加ください。

参加登録フォーラム、若干不完全ですが、
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScsg-0D1kllAZM1nwefRneAJ0a7oBkYIYqdN4wcFqXCCVFMjQ/viewform?usp=sf_link
メールアドレス(必須)
氏名(必須)
所属(任意)
で入力してください。12月6日が登録締切です。

参加登録者者にはZoomのURLが送られます。

以下プログラムです。

12月10日(土)
14;00
開会

小特集趣旨説明 佐藤悟
1 井孝 絵巻による平安期女房装束復元の試み
2 倉永佳 『源氏物語絵巻』 宿木二の女房装束の描写
3 佐藤悟・永井とも子 『源氏物語絵巻』に見る裳の形状

休憩

18:00
zoom懇親会

12月11日(日)
9:30
4 樋口純子 平安朝物語の絵入版本の挿絵について
5 波瀬山祥子 近世上方狂歌壇における肖像画制作の背景 ―鯛屋貞柳像と栗柯亭木端像について―
6 李俊甫 山東京伝の『水滸伝』絵本―『梁山一歩談』『天剛垂楊柳』について
7 北川 博子 北斎の「詩哥写真鏡 在原業平」を読み解く

12:20
総会 議長選出・新会長選出・新事務局長選出・実行委員追加 昼食休憩

13:30
8 伊藤美幸 明治期における切附本の認識とその位置づけをめぐって
9 日並彩乃 吉田初三郎『嚴嶋新案内』における厳島図の影響について
10 江南和幸 17世紀〜19世紀の江戸時代の絵入り刊本と浮世絵に用いられた用紙の科学分析休憩

15:30
特別講演会 芳澤勝弘 画賛について――絵と文字のコラボレーション
新会長挨拶
閉会
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2022年11月28日

日本近世中期上方学芸史研究

 稲田篤信さんの最新の研究論文集『日本近世中期上方学芸史研究 漢籍の読書』(勉誠出版、2022年11月)が刊行された。
 稲田さんは私より9歳年上で、学会では頼り甲斐のある先輩である。大学院生のころ、学会の懇親会ではじめて言葉を交わした時に、秋成よりも、「金砂」とか「をだえごと」という国学的著作が面白いとおっしゃっていて、私も同じ気持ちだったので、嬉しかったという記憶がある。もう40年以上も前の話か。その後、ご著書の書評をさせていただいたり、シンポジウムにお招きしたり、座談会でご一緒したのは、やはり秋成の縁だった。
 しかし、当初から稲田さんは、秋成個人というよりも、時代思潮に関心があり、雨月物語を論じても、閉じられた作品として論じることはなく、時代思潮と関わらせて論じられていた。若い頃の私はそこにあまり気づいていなかった。「近世中期上方学芸史」の構想はかなりはやくからあったのであろう。
 都立大学では、高田衛先生の跡を継ぐポストにいらっしゃったので、外から見ても、秋成研究者としての稲田さんという印象があったのではないか。高田先生との雨月物語注釈の共著もある。しかし、実は学芸に関心のあった稲田さんは、都立大から二松学舎大学に移られて、「近世漢学」の研究者として活発に研究を展開される。本書もその初出は多く二松学舎でのお仕事だといえる。
 、とはいえ、秋成に言及する3本の論文は気になる。とくに第9章「上田秋成の『論語』観」は、『経典余師』を補助線に使うという、従来の秋成研究では見られない方法である。鈴木俊幸さんの研究を踏まえているようだ。それだけでなく、つねに最近の研究をしっかり踏まえる論述は、研究者としての誠実さを窺わせるものである。
 本書は重厚で、実を言えば、これからじっくり拝読するという段階である。
 おそらくは、副題にあるように、都賀庭鐘の『過目抄』や奥田拙古の読書録など、近世上方文人の読書録が稲田さんのこの研究の基盤にあるのだろう。近世中期の上方文化を、漢籍の読書という人々の営為から浮き彫りにしようという本書は、地道な文献研究に根差しながらも、さまざまな示唆に富む発言が散りばめられた魅力的な研究書であろう。取り急ぎ、刊行を祝う気持ちを表してみた次第である。
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2022年11月26日

古典文学研究は社会とどうつながるのか

いいお天気の土曜日。本当に久しぶりに西に向かう新幹線に乗った。
岡山の就実大学で講演をするためである。
研究の社会発信について、話をしてほしいというご注文だったので、「古典文学研究は社会とどうつながるのか」などという大上段に構えたタイトルで、90分弱話させていただいた。
古典文学研究は、その時代の社会と古典をつなぐ役割を果たすのだという、いつもの私の持説を話したあと、自分自身の社会連携・社会発信の経験に即して、具体的事例を話した。特にくずし字アプリ開発の話とデジタル文学地図の話を中心に。
質問を受けるため、5分ほど時間を残して終わった。司会の瓦井さんが、「質問はありませんか」というと、さっと手があがった。「古典文学研究は役に立つというお話でしたが、いままでに先生の経験した具体的例はどういうことですか」という、いきなりグサリと刺さる質問が・・・。驚いたのは、それから次から次へと質問が続き、15分くらいのやりとりがあった。すべて学生の自主的な質問である。こういう経験はあまりない。しかも、なぜか質疑応答が終わるたびに拍手が起こるという。
教員になる予定だという学生さんからの真摯な質問もあり、聴講してくれた学生さんたちが、「自分の事」としてこの話をきいてくれたのが何よりも嬉しかった。なにか私自身が希望を感じた講演会だった。
阪大OBである川崎さん、瓦井さん、そして岩田さん、近世文学研究仲間の竹内さんら、知っている方がたくさんいらっしゃったので、非常にリラックスして講演ができた。岩田さんの夫で私のゼミ生だった岡田さんにも会えてたいへん嬉しかった。就実大学のスタッフの皆さん、ありがとうございました。
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2022年11月21日

久保木秀夫さんのレクチャーを聴く

 非常勤の出講日の今日、たまたまではあるが、久保木秀夫さんが、その大学に講演に招かれていた。院生たちが呼びたい研究者を呼ぶイベントらしい。私の授業に出席している学生さんが、「先生もいらっしゃいますか?」とかねてから誘ってくれていたので、「(ラッキー!)もちろん」と、楽しみにしていた。 折りしも、今日は名物クリスマスツリーのイルミネーションの準備も完璧のようである。授業が終わって、さっそく講演会場に移動。控室に久保木さんはいなくて、すでに書画カメラのところで、数十の古典籍を積んで、準備をされていた。
 「これ、全部持って来られたのですか?」「ええ、あの海外旅行用のキャリーバッグに」「(ひょえかー!)全部、ご自分のですよね?」「ええ」。
 講演は「古い書物の面白さー國文学研究と書誌学ー」と題して、久保木さん自身の研究経験(学生時代・国文研時代、鶴見時代)をほぼ時系列に辿って、現在の集書に至るまでの、気づきや、集書テーマの形成をお話しいただいたあと、具体的にどのように古典籍を扱っていくか、興味深い具体例をいくつも示された。小学生向け和本レクチャーでは、小学生が有名古典の原本よりも、明治ごろの雑本に興味津々だったという経験を話された。たしかに、明治の和本にはモノとしての面白さが満載だ。和漢洋が融合した試み、英語教科書の和本や、新約聖書の和本などの実物を紹介された。左綴じの和本や、鳥羽絵の絵本とその板木のなど。小学生ならずとも面白い。
 しかし、やはり真骨頂は古写本・古筆切の話だ。若い頃から、のコツコツと集めた古筆切の写真は何万点。その知見があってはじめて、とてつもない原物を入手するチャンスをものにできるという話の実例をいくつか。入手方法もさることながら、わずか一葉の紙と記載内容から、これだけの情報が引き出されるという超スリリングな展開。むかし、中野三敏先生から伺った、「本の方からしかるべき人のところにやってくる」の話を思い出した。
 超レア本を含む、古典籍を、全て学生に開放、学生さんは、大喜びで、本を触っていた。
 とても、いいレクチャーを受けた。教室に出ると、とっぷりと暮れていて、クリスマスツリーのイルミネーションが無数の光を放っていた。
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2022年11月18日

蝶夢全集続

田中道雄・田坂英俊・玉城司・中森康之・伊藤善隆編『蝶夢全集続』が届いた。正編から九年、待望の900頁超。書簡編が圧巻である。そして、田中先生の「列島にくまなく蕉風俳諧を」と題した解説。要熟読。しかし、今はこの本を手にした昂揚感を記すにとどめたい。書簡編を摘読すると、文芸への熱い思いが伝わってくる。これが田中先生の熱い文学観と重なって見えるのは私だけだろうか。帯にも記された、光格天皇が新しい御所の壁に掛けた座右の銘のことを記す書簡。蝶夢は、情報の切り取り方も一流だ。この書簡編は、安永から寛政にかけての上方文壇を研究するものには必読であろう。
そして、蝶夢の文芸への確かな信頼を説く田中先生の解説には、時々目が釘付けになるような記述がある。
蝶夢が、火災にあった知人に「風雅(文学)は、かかる時の役に立申候ものにて候」と書き送ったことをとりあげて、「蝶夢の〈文芸は人を苦しみから救う力を持つ」との認識は、甚だ深く、また新しく、近代的とさえ言えよう」と。
本書については、あらためて書きたい。まずは、ご上梓への祝意を表したく、かくのごとく候。
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2022年11月13日

賀茂社家古典籍セミナー参加記

 11月12日(土)は、国文研共同研究が主催する「第1回賀茂社家古典籍セミナー」に参加した。京都である。まもなく告知する2月の国際シンポジウム(私も運営に関わっている)の会場で行われるので下見の意味もある。会場となる箱は立派なもので、安心した。アクセスと周囲の様子も検証したが、周囲に飲食店があまりないようである。もすこし調査を続けよう。
 セミナーは3本立てで、宇野日出生さんの基調講演「上賀茂神社と社家のふしぎ」、小林一彦さん(共同研究代表)の「鴨長明『方丈記』の性格」、家人である盛田帝子の「賀茂季鷹と王朝文化復興」である。いろいろ学びがあった。
 ここでは小林さんのご講演について。方丈記の流布本系の本文の性格を考えるという問題意識だが、実に興味深いのは、本文の性格を考える際に、後代、それも江戸時代の天明飢饉・沖縄戦・阪神大震災での証言などの画像資料や証言資料を使うという斬新な方法である。まさにデータサイエンスのモデルとなる発表である。方丈記の本文には、圧死で目玉が飛び出すとか、災害で亡くなった母親の乳を子供が求めているという記述が出てくるのだが、その記述は長明が現場で見たものなのかどうなのか。災害や戦争では、多くの「死体」が現場に残される。それがどのような有様であったか、江戸時代の飢饉の記録、沖縄戦の記憶を描いた映像、阪神大震災後の被災者の証言が、驚くほど方丈記で描かれたそれと一致することを示した。これにより、長明が、現場に出向き、死体のありさまを正確に描写し、それを伝えようとしたこと、つまり長明のルポルタージュの精神が浮き彫りにされた。こういう方法で古典本文を読むことができるのかという驚きとともに、「古典に学ぶ」ことができるという実例を示されたご講演であった。
 会場には国文研館長の渡部泰明さんもいらしており、久しぶりに、しばしお話することができた。「鎌倉殿の13人」の和歌考証がどのようになされているかなどの秘話を聞けたのはラッキー。
 個人的にお世話になっている賀茂季鷹のご子孫にあたる現山本家ご当主もはるばる香川からお見えで、ご挨拶ができた。ご本人は英文学の先生だが、古典籍の継承には非常にご理解がある。会場では展示コーナーがあり、京都産業大学所蔵の競馬(くらべうま)関係資料が展示されていた。立派なものだった。
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