2017年01月31日

専門図書館

『専門図書館』第281号(専門図書館協議会、2017年1月)に、「くずし字学習支援アプリKuLAについて」という文章を書かせていただきました。要は紹介の文章ですが。
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2017年01月21日

「投企する古典性」研究会

 日文研荒木班の研究会「投企する古典性―視覚/大衆/現代」の1月研究会に参加。
 実ははじめての日文研。阪急桂駅からバスに乗り換えてどんどん登っていくとまだ消えない雪が数センチもつもっているところがあって、噂にたがわぬ所にあるなあと感心。
 この研究会は、国際的・学際的なところが私にとってはありがたくて、まったく予想もつかないお話がきけることと、普段ではお目にかかれない方と知り合えてお話ができるという点、醍醐味である。今日は、絵巻と漫画をめぐる発表。
山本陽子(明星大学)
「絵巻はマンガの祖先か?―絵巻とマンガの表現を比較する―」
佐々木果(明星大学)
「漫画の成立における欧米の影響と日本語の問題」
の2本立。 楊暁捷(カルガリー大学)、李愛淑(韓国放送大学)両氏がディスカサント。
いろいろと知らないことを教えてもらった。
 山本氏の「声」の表現の話興味深かった。また佐々木氏のグローバル漫画史のスケールの大きさ、論点のたしかさに舌を巻いた。いずれも明星大学とはまた自分勝手な文脈だが、この前行ったばかりで奇縁。お二人ともお話ができたし、なによりくずし字教育で独自のアプリを開発している楊先生とはじめてお会いでき、いろいろ意気投合したのは楽しかった。また日本「文」学史の河野貴美子さんも共同研究員で、はじめてお会いできた。他にも日文研のユニークなメンバーたちや、若い画家の方など、非常にいい出会いをさせていただき、元気をもらった。次はどういう発表になるのか、また楽しみである。
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天皇と和歌

鈴木健一さんの新著『天皇と和歌 国見と儀礼の1500年』(講談社選書メチエ、2016年11月)。日本文化と、天皇の和歌を関わらせて通史的に考えようと言うものだが、最初にあえて、現代の歌会始のことをもってくる構成である。たぶん講義なら、これは当然の導入だろう。鈴木さんは誰しも認める筆力の持ち主だが、先行研究を疎かにしないところがすごくて、この本の場合も、参考文献一覧を付してくれているが、実に目配りが行き届いていることに感心する。
江戸後期のところがちょっと物足りないのだが、それはこちらでひそかに(?)計画している論集があり、それで補わせていただけるかなと思っている。鈴木さんの本は、どの本も決して奇を衒わないベーシックなものなので、結局いつも参照させてもらうことになる。実にありがたい。
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『英草紙』の韓国語訳出版

丸井貴史さんと金永昊さんが『英草紙』の韓国語訳を出版した。
これは、快挙である。
是非紹介すべきであるが、全部ハングルだから、途方にくれていたところ、韓国文学に精通する日本近世文学者の染谷智幸さんが、ブログで詳細にその意義について紹介してくださっている。そういうことだったのか、と勉強になる。是非読んでいただきたく、リンクを張らせていただく。こちらである。
んー、染谷さんの文章を読むと、この本の注釈や解題の日本語訳が読みたいです。
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山本秀樹さんの江戸時代出版研究

山本秀樹さんの『江戸時代三都出版法大概』が出たのは2010年。そんなに前だったのかと驚く。この本は、三都の出版については、それぞれの都市の町触れを確認しなければならないということを、明らかにした。
その後も、山本さんの江戸時代出版システムの研究は続いている。次から次へと新しい事実、仕組み、資料を発見している。お送りいただいたので、その中から紹介しておこう。

「元禄二年「異説」の捜索―『大坂御仕置御書出之写』によって新たに知られる実態の考察」『岡大国文論稿』44、2016年3月
「せん年より御ふれふみ」『大坂岡山御触留』で補われる江戸時代大阪出版法令について(副題省略)」『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』42 2016年11月
「江戸時代大阪本屋仲間行司の固定的性格」『岡山大学文学部紀要』65 2016年7月

去年出ただけでもこれだけ。3つめの「固定的性格」は、はじめて行司一覧を表にしてみせたものではないだろうか。ここから交替制のはずの行司が、限られた少数の人間によって独占されていたことがわかる。その理由も明らかにされる。出版史がかわれば文学史も変わる。先に挙げた、江戸時代三都出版法大概も、非売品ということであり、もっと多くの方の目にとまるように、できればどこぞの本屋さんから出版という形でお願いしたい。

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2017年01月20日

『アプリで学ぶくずし字』刊行近し!

 くずし字学習支援アプリKuLA(クーラ)は、おかげさまで、5万ダウンロードを越えたが、このたび、私達は、大学などのくずし字教育でアプリを使う場合の参考書(マニュアル)として、またふだんWebに接することがなく、KuLAの情報をあまり知らないという方への情報提供書として、そして学校や図書館などにも置いていただくことを想定して、『アプリで学ぶくずし字 くずし字学習アプリKuLAの使い方』(笠間書院)を刊行することにした。価格は800円+税。オールカラーでわかりやすく親しみやすく作っている。2月中旬に刊行予定である。いま「くずし字」授業のシラバスを書いている方は、参考文献として、この書籍を挙げていただくのに間に合うと思い、刊行前ではあるがここにアナウンスした。版元はもちろん、楽天ブックスでも予約できる。内容紹介はこちらで、このページから、試し読みへと進める。どうか立ち読みのつもりでご覧ください。
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高麗大との研究交流で思ったこと

 昨日、高麗大日語日文科の先生お二方、学生さん三名が、大阪大学文学研究科日本文学研究室を訪問され、研究交流などを目的とするワークショップが開催された。
高麗大から3名、阪大から3名、それぞれ大学院生が20分の枠で発表。活発に質疑応答が交わされた。
高麗大側の発表は、時代・ジャンル・研究領域を超える発想のものばかりであり、日本文学研究側は、細部の実証的手続きを踏まえながら大きなテーマへの飛翔を模索するものであった。ここでは高麗大の発表について記す。
 高麗大側の発表は、@『平家女護島』と『平家物語』、また芥川などを引いて、俊寛とその周囲の人物イメージの変化を捉えようとするもの、ANHK大河ドラマにおける家康と三成の人物像の変化から日本の歴史観・文化観を探ろうとするもの、B日本の武士道の淵源に、鎌倉時代の東国武士の性格があるのではという仮説を主張するもの。というもので、これは日本における日本文学系の学会では、いずれも「ない」発表である。
 NHK大河ドラマについては、原作や脚本の志向・個性、小説・マンガ・ゲームなど他メディアでの扱われ方など、(日本的研究でいう)手続き的な問題についての質問も当然でたが、それ以前に、大河ドラマで日本思想、日本文化を論じると言う研究領域があるらしい(結構先行研究があって)ということが軽い驚きであった。一見、学問的に無理がありそうであるが、そういう問題設定が成り立つというところに、韓国からの日本の見方を理解する鍵があるように思う。つまり発表の中身よりも、発表の問題意識の方に興味を引かれるのである。
 もっとも高麗大の学生たちも、日本側の質問に虚をつかれたり、参考になったと、心から思っているらしいということで、この研究交流の意義はあったと思う。懇親会でもいい意見交換ができた。佛教大学の大学院生のTさん、わざわざ来ていただきコメントもいただいて感謝。また阪大の日本文学・国語学の教員の方が多く参加していただき、貴重なコメントをいただいたことにも感謝したい。
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2017年01月12日

「みんなで翻刻」が好スタート! 「みんなで翻刻」が好スタート!

 京都大学古地震研究会が10日にリリースしたWebアプリ「みんなで翻刻」が、スゴイことになっている。

 これは地震史料の画像を公開し、そこにアクセスした方に翻刻をしてもらうというものだ。一定のルールに基づいて翻刻してもらい、史料としての利用を便利にしようというものである。初心者でも参加できるように、このWebアプリの中には、くずし字学習支援アプリのKuLAが組み込まれている。PCでKuLAを使いたいというご希望も、私のところに寄せられていたのだが、この問題もこれで解決だ。

 約3000枚を公開、3日とたたず、300枚にすでに手がつけられ、100枚は翻刻が終わっているというのだ。全部終わるのに3年はかかるだろうと見られたのが、このペースでは半年以内には終わってしまう勢いだ。

 一つの史料には、誰でもアクセスできるので、間違いもどんどん訂正されていき、想像以上に正確な翻刻になっているようだ。だから遠慮せずに力試しのつもりで翻刻に参加してもらっていいのである。
 
 翻刻参加者がどんどん現れ、14000字翻刻した猛者もいるのだ。ランキング形式になっていて、誰が何文字翻刻したかが表示される。この翻刻史料を使って、研究も飛躍的に進むというものである。
 
翻刻はプロがするもの、という固定観念は崩された。一般の人でも読める人はかなり正確に読める。そして、力を合わせれば、相当正確な物になっていく。
 
 これって、いろいろなことに応用がききそうだ。
 たとえば「みんなで注釈」とか、「みんなで翻訳」とか。後者はすでにあるかもしれないですね。
そして、この「みんなで翻刻」プロジェクトに、次なるビッグニュースがありそうだ。しかしそれはまた、後日報告となるだろう。ワクワクするような話なので、どうぞお楽しみに。
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2017年01月09日

世界の写本、日本の写本

 本日、1月9日、明星大学で開かれた勝又基さんのコーディネートによる国際シンポジウム「世界の写本、日本の写本―出版時代のきらめき―」に参加しました。想像を超える有意義な会で、日・中・欧における写本のありかたの違いが浮き彫りになりました。まずチェアの勝又さんが趣旨説明。写本を理解するには版本を無視できないこと、江戸時代は出版の時代と言われるけれど、出版の時代だからこそ、写本がきらめいていたのだというお話。勝又さんはUCバークレーの写本2800点の全点調査をベースに、写本の意味について、学際的・国際的な視野で発信をしていこうとされています。いわば世界のManuscript Studiesの中での位置づけです。
 
 最初の発表者野口契子さん(プリンストン大学図書館司書)のお話で印象に残ったのは、北米の大学図書館では大学の研究・授業との関わりが深いということ。司書のステイタスが高いということは知っていましたが、人文系の授業のほとんどのシラバスが図書館の利用について触れているとうかがって、日米の違いの大きさを知らされました。また、たとえば北米の中世研究をしている大学の授業や、文献を持っている大学、学会、研究会などがWEBで検索できるというのにも驚いた。日本でもやればできそうだがそういう発想はなかったと思う。2360校のうち150校くらいが中世研究に関わる授業を扱っているということがわかるということです。

 次いで高橋智さん(慶応大学斯道文庫)は、写本から版本へという大変革が宋の時代に生まれたとし、我々が認識している中国古典は宋時代以降に作られたものであって、それ以前の姿がわからないと説明されました。その後の写本はよき版本を作るために存在するものであって、中国には写本学はないと。正しく美しい版本が重要なのであり、価値があると。

 次いで松田隆美さん(慶応大学文学部)は西洋の写本から印刷本への過渡期のお話をされ、これまた興味深かったです。グーテンベルク博物館で、聖書の写本が印刷されたように美しいフォントで書かれていて、また手彩色で美しいのを思い出しながら話をきいていました。西洋の写本技術は最高峰に達したときに、活版印刷技術が入ってきた、活版印刷は手彩色で仕上げて、写本並に美しくなることを目指したと。
 中国も西洋も日本とどうもちがうのであります。

 入口敦志さん(国文研)とジェフェリー・ノットさん(スタンフォード大学大学院博士課程)も、半ば発表に近いコメント。入口さんは、複数の写本の校訂で「古典」が作られた時代から、今また画像データベースの公開で再び個別の古典「籍」への着目がはじまったと解説、ノットさんは「世界写本学」というのは成立するのかという問いかけを行いました。ノットさんの問いはきわめて重要で、現時点では「情報交換」「方法の違いの相互理解」の段階であって、世界写本学の構築にはまだ時間がかかるだろうと、パネリストのお答えを聞いて思ったのでありました。

 それにしても、3人の発表時間を1時間15分程度、質疑応答も同じくらいの時間とるのは、私がドイツで経験した研究会の方式と同じ。さすがアメリカ留学経験を生かしているなと思いました。会場には、古典書誌学のSさん、電車が同じだった中世文学のOさん、Kさん、Uさん、近世漢詩文のMさん、Yさん、中古文学のTさんなど顔見知りの面々が。明星のM先生もおみかけしましたが挨拶しそびれてしまいまいた。そのあと、隠れ家的なお店に場所を移して談論風発。楽しくも有益な会でした。ありがとうございます。
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2017年01月07日

大阪大学国語国文学会

恒例の大阪大学国語国文学会が本日、豊中の大阪大学会館で行われました。
たいへん盛況でした。蜂矢先生もお見えになりました。
学生3名の発表ののち、山本嘉孝さんと出原隆俊先生の講演がありました。
山本さんの講演は、室鳩巣の辺塞詩が、『唐詩訓解』の学びから生成していることを、非常に丁寧に説き、その擬古的手法の中に、時勢への諷諌や感懐が実は込められているということを、訓解の注釈を重ねつつ読み解いて行き、さらにそれを『赤穂義人録』と関連づけるというスリリングな展開で、面白かったです。
出原先生の講演は、透谷・一葉・漱石・鷗外を通してご自身の研究を振り返りつつ、研究することの意味を自問する苦悩についても語るという、「自分語り」色の濃いご講演で、なかなか日頃はきけない貴重なお話でした。「〇〇論」というタイトルを論文に付けたことがないという話をきいて、そうだったのかと思いました。出原先生の論文は「論」のイメージがありましたが、そこには全体を論じなければ論ではないという先生の美意識があったようです。出原先生が阪大に着任されたのは平成元年のことだそうで、28年間の長きにわたっての阪大での教育研究であったわけです。
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2017年01月05日

高麗大訪問研究 日本文学ワークショップ

韓国高麗大の日本文学を研究している教員・学生が大阪大学を訪問し、ワークショップを開催します。発表するのは、それぞれの院生です。2015年にも行われたもので、互いの研究方法を知るよい機会となります。

高麗大学校訪問研究 日本文学ワークショップ

日時 2017年1月19日(木) 14:00〜17:30
会場 大阪大学文学研究科本館大会議室

14:10〜15:10
1.金潾我 (高麗大学大学院博士課程)  
近松門左衛門 『平家女護島』の俊寛像考察―『平家物語』との比較を通して
2. 金智慧(大阪大学大学院博士前期課程)
明治前期における散切物受容の諸相  

15:20〜16:20
3.朴祉R (高麗大学校大学院博士課程)
NHK大河ドラマと関ヶ原合戦―家康と三成の人物像変遷
4. 岡部祐佳 (大阪大学大学院博士前期課程)
「往来物」、「書簡文例集」と「文学」―ジャンル越境的研究への挑戦

16:30〜17:30
5.朴眞鉉 (高麗大学校大学院修士課程)
中世日本文学に現れた関東武士の特殊性ー『平家物語』を中心にー
6. 有澤知世(大阪大学大学院博士後期課程)
錦絵新聞を読む―近世文芸からの影響に注目して―
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2017年01月03日

くずし字出前授業in名古屋

日本近世文学会では、くずし字を教える出前授業を行っている。学会HPにPDFを置いている『和本リテラシーニューズ』2号ではその実践報告もあるのでご参照いただきたい。
さて、名古屋大学附属中学校でも、加藤弓枝さんと三宅宏幸さんが出前授業を行い、その報告を、同校教諭の加藤直志さんとともに、『名古屋大学附属中・高等学校紀要』第61集(2016年12月)に掲載している。これを報じた中日新聞の記事も再掲している。どのように授業を展開したかがよくわかり大変参考になる。
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10年目

本年もよろしくお願いいたします。

2008年にブログをはじめたので10年目となる。

「読んでますよ」と言ってくださる読者の方の声にはげまされて、ここまで細々と続けることができた。
カウンターを付けているが、どういう数え方なのか、運営側のアクセス解析とは数字が違う。実際は大体毎日500〜1000くらいのアクセスをいただいているようです。しかし付けているカウンターでも50万アクセスに近づいてきたので、これを当面は目標としてゆきたい。
学界時評のつもりも、書評のつもりもない、単なる感想ブログである。公的性格はまったくないし、バイアスがかかっているのはお許しいただきたい。とりあえず3点。

 藤田真一さん編注『蕪村文集』(岩波文庫、2016年12月)。江戸時代の『蕪村翁文集』の配列を軸に編まれたもの。画は載せられないけど画賛の文もあり。特別な関係の中で書かれた文に興味ある私としてはありがたい。
 田中道雄先生をはじめとするグループによる方壺宛蝶夢書簡の翻刻が『ビブリア』146号(2016年10月)に載る。まず50通のうちの23通。あとは次号。35通目に宣長批判があるらしい。
 野澤真樹さんの「『世間妾形気』最終話と伏見」(『国語国文』2016年11月)。非常によく調べていて感心。成長を感じました。

今年は「短くても書かないよりはまし」をモット―にいたします・・・。



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2016年12月28日

忘れ物・失せ物

 2008年にスタートしたこのブログで、はじめのころは忘れ物・失せ物の話題をしていた。カテゴリーにも立てているくらいで。しかし、それから9年たって、忘れ物、失せ物はほとんどなくなった―、なんて嘘っぱちで、ますます増えている。今日も小さな忘れ物をしたし。ハイデルベルクでは、宿舎の鍵、研究室の鍵をなくさないように、首から吊るしていたおかげで、鍵を探したことはない。しかし日本で鍵を探す事はしょっちゅうだった。帰国して首から吊るすというのをまたやっている。ハイデルベルク大学の先生が、10月に阪大にお見えになったときに、首から下げるストラップ(ハイデルベルク大学のグッズのひとつ)をお土産に持ってきてくださったので。その効果があって、鍵だけは探さなくなった。感謝である。財布・携帯・手帳・メガネなどは相変わらずである。探し物の時間でどれだけ人生を浪費しているのだろう。
 久しぶりにこのカテゴリーで記事を書くのは、来年こその思いがあるからだが、思いだけではどうにもならない。なにかいい方法はないものだろうか?忘れ物・失せ物癖を克服した人の話があれば教えてほしいものだ。
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徒然草への途

 ドイツ滞在中にご恵投いただいたご著書で、本ブログに取り上げたいものがある。なんとか年内にと思っていたのだが、厳しい状況になってきた。
 研究書を賜ると、まず「あとがき」を読む。多くの方もそうであろう。それから前書きか序文・序論に相当する部分を読み、そこから1頁ずつとりあえず最後まで繰って行く。その間に自身の現在の関心に関わるところにっひっかかることがあり、そこでは目を止めて拾い読みすることもある。その至福の時間で気持ちが高揚してくると、ブログに書き始める。書評と根本的に違うのは、著者の文脈をさほど考えずに、自分の文脈で読んでいくことだろう。申し訳ないと思うが、自分の持つ問題系というかアンテナに引っかかるところが大切なのだ。
 たとえば、荒木浩さんの大著『徒然草への途―中世びとの心とことば』(勉誠出版、2016年6月)。私の関心は、『徒然草』は誰に向けて書かれたものなのかということである。私が授業などでよくいうことは、前近代において人が著作するとき、それが出版など多くの人を最初から読者として想定していない時、ほとんどの場合は、ある特定の読者(それは神仏である場合もあるし、故人である場合もある)に向けて書かれている。そこを無視して作品を読解することはできない。またその特定の読者をまさに特定することは、研究上重要な作業であると。
 では『徒然草』はどうなのか。その序段によれば、あたかも「こころにうつるよしなしごとを」誰に向けてということなく書き綴ったかのようなイメージが作られているのではないだろうか?荒木さんは、そこをどう考えているのだろうか。そう思って、先に述べた私なりの読書法で読みはじめるのである。そうすると、どうやらヒントが示されているらしいと感じる。だが、「あとがき」を読んで、まず圧倒される。
 荒木さんが阪大にいた時、私は研究室が隣だった。今は斎藤理生さんがいる部屋だ。隣室で否応なく感じた荒木さんについている「筆力の神」。この筆力の神はどうも私が赴任する直前に降臨したようだ。あとがきを読むとそういうことらしい。荒木さんが「スランプを感じた」という時期の直後のことだ(スランプといっても我々とはレベルが違うが)。
 そして、序論に返ると、ああそうだった、いつもそうだったとあらためて思い知らされつつが、荒木ワールド、つまり著者文脈に引き込まれてしまうのだ。自分文脈では読ませない、「筆力の神」の為せる業である。とりわけ「心」と「書く事」との関わりについての考究は他の追随を許さないほど深い。それが、あとがきと呼応しているのである。
 むしろ、全部の頁をめくった時に、私の今の問題意識はどこかに消えて、ずっと忘れていた疑問を思い起こさせていただいた。それは『春雨物語』序文と『徒然草』序段との関わりであり、書き始める契機をどのように装うかの問題である。また歌人が散文を書くと言うことはどういうことかという問題。本書の評価などできないが、本書がどういう研究者にも与えうるインパクトの可能性について、それは限りなく豊かだと言うことだけは断言できるのである。
 そして、最初の疑問に戻る。『徒然草』は誰に向けて書かれたものなのか(と、江戸人は考えていたのか)。それについて少しヒントになる記述はある。それを手がかりにまた考えてみたい。
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