2017年01月05日

高麗大訪問研究 日本文学ワークショップ

韓国高麗大の日本文学を研究している教員・学生が大阪大学を訪問し、ワークショップを開催します。発表するのは、それぞれの院生です。2015年にも行われたもので、互いの研究方法を知るよい機会となります。

高麗大学校訪問研究 日本文学ワークショップ

日時 2017年1月19日(木) 14:00〜17:30
会場 大阪大学文学研究科本館大会議室

14:10〜15:10
1.金潾我 (高麗大学大学院博士課程)  
近松門左衛門 『平家女護島』の俊寛像考察―『平家物語』との比較を通して
2. 金智慧(大阪大学大学院博士前期課程)
明治前期における散切物受容の諸相  

15:20〜16:20
3.朴祉R (高麗大学校大学院博士課程)
NHK大河ドラマと関ヶ原合戦―家康と三成の人物像変遷
4. 岡部祐佳 (大阪大学大学院博士前期課程)
「往来物」、「書簡文例集」と「文学」―ジャンル越境的研究への挑戦

16:30〜17:30
5.朴眞鉉 (高麗大学校大学院修士課程)
中世日本文学に現れた関東武士の特殊性ー『平家物語』を中心にー
6. 有澤知世(大阪大学大学院博士後期課程)
錦絵新聞を読む―近世文芸からの影響に注目して―
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2017年01月03日

くずし字出前授業in名古屋

日本近世文学会では、くずし字を教える出前授業を行っている。学会HPにPDFを置いている『和本リテラシーニューズ』2号ではその実践報告もあるのでご参照いただきたい。
さて、名古屋大学附属中学校でも、加藤弓枝さんと三宅宏幸さんが出前授業を行い、その報告を、同校教諭の加藤直志さんとともに、『名古屋大学附属中・高等学校紀要』第61集(2016年12月)に掲載している。これを報じた中日新聞の記事も再掲している。どのように授業を展開したかがよくわかり大変参考になる。
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10年目

本年もよろしくお願いいたします。

2008年にブログをはじめたので10年目となる。

「読んでますよ」と言ってくださる読者の方の声にはげまされて、ここまで細々と続けることができた。
カウンターを付けているが、どういう数え方なのか、運営側のアクセス解析とは数字が違う。実際は大体毎日500〜1000くらいのアクセスをいただいているようです。しかし付けているカウンターでも50万アクセスに近づいてきたので、これを当面は目標としてゆきたい。
学界時評のつもりも、書評のつもりもない、単なる感想ブログである。公的性格はまったくないし、バイアスがかかっているのはお許しいただきたい。とりあえず3点。

 藤田真一さん編注『蕪村文集』(岩波文庫、2016年12月)。江戸時代の『蕪村翁文集』の配列を軸に編まれたもの。画は載せられないけど画賛の文もあり。特別な関係の中で書かれた文に興味ある私としてはありがたい。
 田中道雄先生をはじめとするグループによる方壺宛蝶夢書簡の翻刻が『ビブリア』146号(2016年10月)に載る。まず50通のうちの23通。あとは次号。35通目に宣長批判があるらしい。
 野澤真樹さんの「『世間妾形気』最終話と伏見」(『国語国文』2016年11月)。非常によく調べていて感心。成長を感じました。

今年は「短くても書かないよりはまし」をモット―にいたします・・・。



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2016年12月28日

忘れ物・失せ物

 2008年にスタートしたこのブログで、はじめのころは忘れ物・失せ物の話題をしていた。カテゴリーにも立てているくらいで。しかし、それから9年たって、忘れ物、失せ物はほとんどなくなった―、なんて嘘っぱちで、ますます増えている。今日も小さな忘れ物をしたし。ハイデルベルクでは、宿舎の鍵、研究室の鍵をなくさないように、首から吊るしていたおかげで、鍵を探したことはない。しかし日本で鍵を探す事はしょっちゅうだった。帰国して首から吊るすというのをまたやっている。ハイデルベルク大学の先生が、10月に阪大にお見えになったときに、首から下げるストラップ(ハイデルベルク大学のグッズのひとつ)をお土産に持ってきてくださったので。その効果があって、鍵だけは探さなくなった。感謝である。財布・携帯・手帳・メガネなどは相変わらずである。探し物の時間でどれだけ人生を浪費しているのだろう。
 久しぶりにこのカテゴリーで記事を書くのは、来年こその思いがあるからだが、思いだけではどうにもならない。なにかいい方法はないものだろうか?忘れ物・失せ物癖を克服した人の話があれば教えてほしいものだ。
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徒然草への途

 ドイツ滞在中にご恵投いただいたご著書で、本ブログに取り上げたいものがある。なんとか年内にと思っていたのだが、厳しい状況になってきた。
 研究書を賜ると、まず「あとがき」を読む。多くの方もそうであろう。それから前書きか序文・序論に相当する部分を読み、そこから1頁ずつとりあえず最後まで繰って行く。その間に自身の現在の関心に関わるところにっひっかかることがあり、そこでは目を止めて拾い読みすることもある。その至福の時間で気持ちが高揚してくると、ブログに書き始める。書評と根本的に違うのは、著者の文脈をさほど考えずに、自分の文脈で読んでいくことだろう。申し訳ないと思うが、自分の持つ問題系というかアンテナに引っかかるところが大切なのだ。
 たとえば、荒木浩さんの大著『徒然草への途―中世びとの心とことば』(勉誠出版、2016年6月)。私の関心は、『徒然草』は誰に向けて書かれたものなのかということである。私が授業などでよくいうことは、前近代において人が著作するとき、それが出版など多くの人を最初から読者として想定していない時、ほとんどの場合は、ある特定の読者(それは神仏である場合もあるし、故人である場合もある)に向けて書かれている。そこを無視して作品を読解することはできない。またその特定の読者をまさに特定することは、研究上重要な作業であると。
 では『徒然草』はどうなのか。その序段によれば、あたかも「こころにうつるよしなしごとを」誰に向けてということなく書き綴ったかのようなイメージが作られているのではないだろうか?荒木さんは、そこをどう考えているのだろうか。そう思って、先に述べた私なりの読書法で読みはじめるのである。そうすると、どうやらヒントが示されているらしいと感じる。だが、「あとがき」を読んで、まず圧倒される。
 荒木さんが阪大にいた時、私は研究室が隣だった。今は斎藤理生さんがいる部屋だ。隣室で否応なく感じた荒木さんについている「筆力の神」。この筆力の神はどうも私が赴任する直前に降臨したようだ。あとがきを読むとそういうことらしい。荒木さんが「スランプを感じた」という時期の直後のことだ(スランプといっても我々とはレベルが違うが)。
 そして、序論に返ると、ああそうだった、いつもそうだったとあらためて思い知らされつつが、荒木ワールド、つまり著者文脈に引き込まれてしまうのだ。自分文脈では読ませない、「筆力の神」の為せる業である。とりわけ「心」と「書く事」との関わりについての考究は他の追随を許さないほど深い。それが、あとがきと呼応しているのである。
 むしろ、全部の頁をめくった時に、私の今の問題意識はどこかに消えて、ずっと忘れていた疑問を思い起こさせていただいた。それは『春雨物語』序文と『徒然草』序段との関わりであり、書き始める契機をどのように装うかの問題である。また歌人が散文を書くと言うことはどういうことかという問題。本書の評価などできないが、本書がどういう研究者にも与えうるインパクトの可能性について、それは限りなく豊かだと言うことだけは断言できるのである。
 そして、最初の疑問に戻る。『徒然草』は誰に向けて書かれたものなのか(と、江戸人は考えていたのか)。それについて少しヒントになる記述はある。それを手がかりにまた考えてみたい。
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2016年12月26日

阪大所蔵資料の画像公開

 国文研が進めている古典籍の画像データベース化の事業を展開する拠点校のひとつとして大阪大学が選ばれ、私がその委員をしています。さて、平成27年度に国文学研究資料館の「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」事業により撮影した画像がさきごろ公開されました。懐徳堂文庫と適塾資料のかなり重要なものが、多数あり、研究に資するところも大きいと思うので、ここで告知いたします。
(阪大図書館のニュース)
http://www.library.osaka-u.ac.jp/news/20161222_common.php
(画像公開の案内ページ)
http://www.nijl.ac.jp/pages/cijproject/database.html
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2016年12月24日

萩原広道研究への歩み

 森川彰著『萩原弘道研究への歩み―森川彰先生卒寿記念論文集』(関西大学図書館手紙を読む会編、2016年9月)。森川彰先生のお名前はもちろん存じ上げているが、面識はなかったと思う。卒寿記念として、手紙を読む会のメンバーが、先生の論文をくまなく集めて、2冊本として刊行した。1963年から2012年、つまり50年にわたって執筆された諸論文を再編、電子複写化して収録したものである。5部構成で、
1 萩原広道研究
2 国学研究
3 書誌学
4 随筆
5 図書館学
であり、研究業績目録も付されたもの。森川彰全集と呼んでいいものだろう。
1 の広道研究は、書簡の翻字紹介が大部分を占め、広道研究には必読のものだろう。このようにまとめていただいた意義は非常に大きい。
 手紙を読む会のみなさんが、それぞれ一人ずつあとがきを書いていらっしゃり、森川先生のお人柄がうかがえるものとなっている。
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2016年12月23日

ことばの魔術師西鶴

 篠原進・中嶋隆編『ことばの魔術師西鶴 矢数俳諧再考』(ひつじ書房、2016年11月)。
「矢数俳諧」とは不思議な「文芸」である。「通し矢」に準えられる、速吟・独吟。記録を争う競争性とイベント性。西鶴浮世草子つまり散文との位置関係。さまざまな問題に満ちていて、様々なアプローチを可能にする。
 西鶴と俳諧の研究者が、この矢数俳諧に、それぞれの流儀で挑む。驚くほどその人の研究手法が浮かび上がる論集であり、かつそれがどれもこれも面白い。つまり、これは矢数俳諧を主題とする論集という企画の勝利だなと思った。
 もう5年も前に伊丹の柿衞文庫で行われたシンポジウムが本書の原点だという。そのシンポジウムに私も出席していた。実はこのブログでも書いている。非常に緊迫感のある、面白いシンポジウムだったということを思い出した。
 しかし、それから5年の間に西鶴について私なりに考えることもあって、今この論集に触れると、散文における議論の閉塞感(それは私だけが勝手に感じているものかもしれないが)に比べて、この矢数俳諧の議論の自由さ、発想の斬新さには目を見張る。
 西鶴は俳諧師。ここを論じて、やはり西鶴・・・、と改めて思う。個人的に面白かったのは染谷さんの「命がけの虚構」。アサートンさんの「アメリカにおける矢数俳諧研究の可能性」。いろいろ考えさせてくれました。
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2016年12月22日

長崎先民伝注解

 本ブログを書評ブログだとか、近世文学研究者必読だとか、言ってくださる方がいるのは、まことに恐縮至極なのであるが、実際はそんな大層なものではない。ときたま力は入るときもあるが、大抵は、さっさと目を通して、これは紹介しとかなきゃと思い(思っただけで終わることもあり)、自分の興味のあるところを拾い読みしては、主観的な感想を書き付けているだけなのである。そのようなものだと思ってお読みいただければ幸いである。
 さて若木太一・高橋昌彦・川平敏文編『長崎先民伝注解』(勉誠出版、2016年11月)が刊行された。私を育ててくれた九州の研究会が作った、研究会の成果であり、とても嬉しい。
 西の先哲叢伝という言われ方もしているように、長崎の主要な近世人物事典として、基本中の基本となる本で、丁寧な注解はまことにありがたい。例によってこの本の生まれたいきさつを記した川平敏文さんの「あとがき」を先ずは読むわけだが、これがとてもいい。これはもちろん私が雅俗の会というこの研究会にいたから、であるのだが、川平さんが、寥々たる状況になってしまった研究会を再興せんと、この『先民伝』を読むことを始めたというあたりはぐっときてしまう。先民の墓碑廻りで、ビデオとカメラを駆使する「准会員」の合山林太郎さんの姿が彷彿とするところも面白い。
 長崎といえば若木太一先生で、長崎に調査に行くと、必ず若木先生がお見えになり、さまざまなご教示を下さったことが、いろいろと蘇る。この先民伝を読む会にも、いつもお見えになっていたという。さもありなん。仄聞するところによれば著書をおまとめになる計画もあるとか。鶴首鶴首。
 
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2016年12月21日

書籍文化史18

 悉皆といえば、高木浩明氏「古活字版悉皆調査目録稿」の連載が8回目となる、『書籍文化史』18号。年末恒例となったが、もう18号か。鈴木俊幸さんが科研で出し続けている書籍文化に関わる論考をあつめた研究誌である。18号ということは1999年に第1号を出したということか?それならば奇しくも岩瀬文庫悉皆調査開始と同じころということになる。勉誠出版の『書物学』は、本誌のマインドから生まれた雑誌よなあ。ともかく、このごろの書物学ブームに火を付けた立役者が鈴木さんであることは間違いない。
 その『書籍文化史』がある時から、やたらに分厚くなる。それも道理、100頁を超えようと言う高木氏の古活字本の悉皆調査目録の連載が開始されたからである。どういう方なのかと思っていたが、何年か前に立命館大学でお会いして、結構お若いので吃驚したものである。これまた強固な志がないと、やろうとは思わない一大事業ではないか。
 悉皆といえば鈴木さんの書籍関係論文目録も果てしない。この仕事には何度もお世話になっている。またページを繰るだけでも、書籍文化研究の推移を感じ取ることができる。まことに、塩村・高木・鈴木の三人は、悉皆者!・・・ですね。
*追記:間違いを高木さんからご指摘いただきましたので、タイトルと文章を改めました。
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三河に岩瀬文庫あり

 塩村耕さん。このブログでも何度かご登場いただいている。塩村さんの人生をかけた一大仕事といえば、岩瀬文庫の悉皆書誌調査である。愛知県西尾市にあるこの岩瀬文庫、知る人ぞ知る、くせもの揃いの本が山のようにある、岩瀬弥助旧蔵の文庫である。塩村さんは2000年から、この文庫の悉皆調査をはじめた。来年調査完了だという。とにかく近世文学の研究を本格的にやりはじめると、ここの文庫にどうしてもお世話になることになる。稀本・珍本ぞろいである。展示や書籍で発信してこられ、また西尾市が「本のまち」として市あげて文庫をサポートし、その名はかなり本好きには広まった。根本には、塩村さんの悉皆調査への強い志がある。
 塩村さんは1000点完了時点で、途中経過を報告しているが、1点1点内容をきちんと読んだ上での記述であり、これが万に及ぶのだから、気が遠くなる。普通出来るとは思わない。しかし塩村さんは時間の許す限り文庫に通い、ゴール間近に来ているのである。前にもここに書いたと思うが、悉皆調査のような、壮大なことをやり遂げるためには中途半端な志ではだめで、かなりのことを捨てないとできない。塩村さんのように、こころおどるような論文が書ける人だと、いろいろと書きたいことも山のようにあるだろうに、ある程度あきらめなければならないはずだ。これが非常にむずかしいのである。また、頼まれる仕事についても、かなり断っておられるはずだ。ある程度非情にならないとできないし、対象への並々ならぬ持続愛がなければできないのである。言うまでもないが、私などののようなものには絶対に真似できないこと。まったく敬愛に値する。
 さて、悉皆目録刊行への序幕ともいうべきブックレットが刊行された。『三河に岩瀬文庫あり』(風媒社)だ。岩瀬文庫の概要がわかりやすく記され、珍本の一部が紹介され、達人達の座談会があり、と豊富な内容だ。コラムの「古典籍豆知識」は単なる豆知識ではなく深い洞察に裏打ちされた文章で示唆に富む。書名は本の作り手の意志を尊重するなら「外題」でとるべきこと、書籍史料は「現状維持」ではなく積極的に補修されるべきであること、などなど。850円+税、とお得である。
 
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2016年12月20日

加藤十握氏の「菊花の約」論

加藤十握「孤独を超克する「信義」―『雨月物語』「菊花の約」小考―」(『武蔵高等学校中学校紀要』第1号、2016年10月)。
まだまだ「菊花の約」の読み方には決着がついていない。加藤さんは研究史を丁寧に踏まえて、新しい注釈的指摘と、あまり考えてこられなかった場面の考察を行う。その2点につき私はこの論文が研究史に残る論文になったと考える。
そのひとつは「軽薄」の用例として「杜甫」詩に着目し、その江戸期的解釈として『唐詩選国字解』を挙げていること。
もうひとつは左門が宗右衞門を待っている間の何気ない情景描写の中に、経済活動を行うものの損得勘定が話題になっていることを、左門の関心をまったくひかない事例として指摘し、左門が経済活動への興味がないこと、そのことが彼を「信義」に向かわせたこと、と解釈すること。
結論は、木越治氏の、〈「信義」の相対化〉に近いかと思われる。ありがたいことに私の説も引用していただいている。最後の「となん」に秋成の嘆息を重ねるのは、私としては?であるが、全体としては好論だと思います。
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近世文学の深度

 これから年末年始にかけて怒濤の更新をしてゆきます(自分に鞭をあてているが、有言不実行に終わるかもしれません・・・)。
 日本近世文学会秋季大会で行われたラウンドテーブルという新しい形の試み。3会場で行われたが、そのうちの一つの、人情本・恋愛などをテーマとするラウンドを仕切ったのが木越俊介さん。この会場の真ん中に、発表者たちの3つのテーブルを三角に組むという斬新なセッティングをしたことが、学会のツイッターで写真入りで報告されていた。木越さんは、西鶴論争の火付け役でもあり、非常に頭脳が柔軟で、アイデアマンである。その木越さんから、学会でいただいたのが、神戸大学文学部国語国文学会が刊行する『国文論叢』51号。特集号であり、そのタイトルは「近世文学の深度」。すごくセンスを感じるタイトルだが、編集をしたのはやはり木越さんだ。
 原稿依頼3編と、神戸大学関係の3編からなるが、いずれも魅力に満ちた論考である。
 堤邦彦、西田耕三、稲田篤信、木越俊介、天野聡一、田中康二。
 この中で稲田さんの「「樊かい」考―絵詞として読む『春雨物語』―」に注目。タイトルが物語っているように、絵巻春雨物語を幻視する作品論である。実は私も「目ひとつの神」で、「絵のない絵巻」という幻視をしたことがあり、大いに共感する。稲田さんは、私の、「春雨物語論の前提」(初出「国語と国文学」→『上田秋成―絆としての文芸』に一部所収)の論を踏まえてくださっている。前に紹介した高松亮太氏の論もそうであるが、少しずつ拙論も受け入れられているようで、ありがたい。ちなみに「樊かい」は実は「奥の細道」を意識している。「奥の細道画巻」が存在するように「樊かい」絵巻が存在したとしても、というより「樊かい」絵巻を前提として「樊かい」が書かれたとしても不思議ではないのである。
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2016年12月08日

懐徳堂の企画展・図録・事典

 12月もどんどん過ぎて行く。うっかりしていると、歩いて5分ちょっとの大阪大学総合学術博物館で展示中の企画展「大阪の誇り―懐徳堂の美と学問」を見逃したりしかねない。そんなことになったら大変と、本日見て参りました。数年前の大阪歴史博物館での展示と少し味わいが違う展示。ひとつは重建懐徳堂100年を記念した展示であるため、写真を含めてそこにひとつ照明が当たっているという点。そして、修復された谷文晁の「帰馬放牛図」などの絵画や書(例の秋成履軒合賛の鶉図もある)、また印章の展示に力を入れているところだろう。個人的には、江戸の懐徳堂が廃校ときまり、最後の教授並河寒泉が、学校を立ち去るにあたって詠んだ「出懐徳堂歌」が、じんときた。
 立派な図録も出ている。『大阪大学総合学術博物館叢書13 懐徳堂の至宝』(大阪大学出版会)だ。出品されていない物も多数掲載解説され、懐徳堂入門として最適の図録である。最初に秋成履軒合賛鶉図が載っているのは感激。またこの機に、使いやすい『懐徳堂事典』の増補改訂版がやはり大阪大学出版会から出版された。どちらも湯浅邦弘氏の労作。事典は大幅に項目が増えているようである。懐徳堂記念会の秋季記念講座も連動して講演会を開催したが、集客がよかった。
 大阪大学は、懐徳堂を精神的源流として位置づけている。今後も私なりに、様々なイベント・講義などを通して、微力をつくしたい。来年度は、そういう授業を担当することになっている。
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2016年12月04日

日文研荒木班研究会で発表しました。

 真山青果シンポジウムの余韻に酔いすぎて、翌日の日文研の発表の準備を、当日朝、発表開始の1時間前までホテルでやるという綱渡りで、会場の慶応義塾大学に着いたのは、3分前。今日の発表は私だけだったのに、発表者がこんなに遅くなって本当に失礼いたしました。

 さてこの研究会「投企する古典性―視覚/大衆/現代」というテーマ。なかなか難解だが、どういう発表をすればいいのか?座長の荒木浩先生からは、「ハイデルベルク大学でのご経験を通しての、国際的なくずし字教育の現状について、KuLAの紹介を含めてお願いします」みたいな感じで依頼されていた。

 それならば、経験をお話すればよいわけなので、お引き受けした次第である。一応タイトルはえらそうに、

国際的くずし字教育の現状と展望 ―学習アプリKuLAの利用を中心に―

お集まりの、日文研ならでの学際的メンバー20名ほどに、「KuLAをダウンロードして下さっている方、どのくらいいらっしゃいますか?」と聞いたところ、10名弱の方が手を挙げてくださった。KuLAの紹介は、やはり関心を引いたが、古地震研究会が取り組んでいる、近く公開されるというクラウド参加型翻刻システム「みんなで翻刻」の紹介に、大きな反響があった。これは私もしゃべりながら、ものすごい可能性を感じた。このシステムの中にはKuLAも組み込まれていて、くずし字コミュニティの形成に大きな役割を果たしそうである。
 しかし、さすが日文研の研究会だけあって、議論は非常に多角的である。くずし字未翻刻文献が1パーセントという数字は、「くずし字」を学ばない人は日本研究をしてはならないという強圧になっていないか、という観点は意外ではあったが、重要な論点である。また日本の実証的研究が海外の理論的研究に資するというのは、裏を返せば、日本的実証主義が理論主義の補助的手段としてしか位置付けられないことにならないかとか。この点に関しては河野至恩氏のバランス感覚にすぐれたコメントがあった。やはり、双方が両方のやり方を理解してはじめて、国際的な共同研究は実のあるものとなるのだろう。日本研究における議論を、国際的に共有できる議論にするために、考えるべきことは多い。
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