2022年08月30日

日本のデジタル文学地図がアンケート開始

 デジタル文学地図のプロジェクトは現在進行中で、データやシステムは逐次更新されています。
 日本文学において長い伝統を持つ歌枕・名所はジャンルの境を越える空間的な秩序を形成しています。歌枕・名所は関連文献を呼び起こしながら、古来のテクストやイメージを連想させます。このプログラムは日本文学における歌枕・名所を地図上に表示し、その背景にある歴史的、文化的、ポエティックな意味を提供しています。「日本のデジタル文学地図」は、科研基盤研究(B)「デジタル文学地図の構築と日本文化研究・教育への貢献」(進行中)の研究成果であり、国文学研究資料館、ハイデルベルク大学日本学研究所との共同研究です。もともとはハイデルベルク大学のユディット・アロカイ教授がはじめたもので、もう10年くらい継続しています。今後も改良を重ねて参ります。
 さて、デジタル文学地図を授業や研究、趣味の支援ツールとして使っていただくべく、アンケートを実施することになりました。上述のリンクからトップページを開き、アンケートのリンクへと飛んでください。実際に使ってみた方も、見ただけの方も、率直なご感想、ご意見、ご提案を賜れば嬉しいです。
 アンケートの締め切りは2023年3月末です。よろしくお願いいたします。


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2022年08月29日

吉祥院本『稲生物怪録』

 杉本好伸さん著『吉祥院本『稲生物怪録ー怪異譚の深層への廻廊』(三弥井書店、2022年7月)が刊行された。
 杉本さんが二十年ほどまえからか、『稲生物怪録』に正面から取り組み、こつこつと成果を重ねてこられていたのは、いただいたご論文や偶然に目にした雑誌などで知っていたが、そのひとつの区切りとなる、堂々たる一書が成ったことは、慶賀の至りである。
 稲生物怪録は、怪談好きでなくとも、その書名を聞いたことがある人は多いに違いない。いわゆる屋敷怪談、これでもか、これでもかと執拗に化け物に来襲されるというストーリーを有する奇書である。しかし、杉本さんによれば、その諸本の関係、実態、その全貌はほとんど理解されていなかった、というより多くは誤解されていたようである。かなりきちんとしているはずの研究書においても、である。
 原本に相当する本はいまだに不明。しかし現時点で判明する諸本の関係を整理し、重要な本文をもつ吉祥院本をきちんと位置づけ、その全貌を明らかにし、影印、校訂本文、注釈を提供する、吉祥院本『稲生物怪録』研究の決定版が本書である。
 その解題にあたる総説は、本書の虚実、本文の成立過程から書写者の意識、作品の構成、歴史的・地理的背景にいたるまで、きわめて厳密な研究的叙述に貫かれている。杉本さんの研究者としての誠実さ、そして稲生物怪録への強い思い入れを感じる部分である。本文の注釈も、長い時間をかけて醸成された、良質さが光っている。
 本書との出会いについて、杉本さんは「縁」の不思議さを述懐しているが、その縁をたぐりよせたのは、おそらく杉本さんの誠実なお人柄である。稲生物怪録という、世界の解明はこれからも続くだろう。後進に期待をこめつつ、杉本さん自身の探究もまだまだ続きそうである。
 
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2022年08月13日

〈作者〉とは何か

神戸大学文学部国語国文学会2022年度研究部会の2日目のシンポジウム「近世俗文芸の作者の姿勢=mポーズ]――序文を手掛かりとして」のラインナップは次の通り。8月27日午後2時から。ハイブリッドで行われ、オンラインではどなたも参加できるようだ。

丸井貴史(専修大学准教授) 序文の虚実――『太平記演義』を中心に
天野聡一(九州産業大学准教授) 『雨月物語』序文小考
飯倉洋一(大阪大学名誉教授) 作られた序者――『ぬば玉の巻』と『春雨物語』に即して
小林ふみ子(法政大学教授) 主体の虚構性と実体性――大田南畝周辺から
有澤知世(神戸大学助教) 自序に登場する〈作者〉――山東京伝の戯作から

私も登壇するのだが、あらためて気になるのは「作者」って何?ということである。
今回のシンポジウムでみなさんが扱う「作者」は、いずれも実体としての作者そのものではなさそうである。では作者とは?

そこで、手がかりになるだろう論集が昨年3月に岩波書店から刊行されたハルオ・シラネ、鈴木登美、小峯和明、十重田裕一編『〈作者〉とは何か』である。バルトの「作者の死」、フーコーの「作者とは何か?」とその後の〈作者〉論を受けて、現代社会におけるメディア・ネット文化の中で、歴史的に〈作者〉を問い直すという鋭利な問題意識(ハルオ・シラネ「はじめに」)の下、多様な立場の研究者が、多様な〈作者〉像を描き出している。
 中でも、今回のシンポジウムのテーマと最も関わり深いのが、長島弘明「変装する〈作者〉−上田秋成の小説を例として−」である。ここで詳細は述べないが、「模倣のオリジナリティ」というキーワードを据えて、精読者を対象とする創作のあり方を論じ、「戯号」に注目し、実体ではない、作品個別に存在する〈作者〉(これが変装する「作者」)について論じ、さらに読者もまた変装することを述べている。今回のテーマ「作者のポーズ」とぼっちり重なることを論じているのである。私もこの長島さんの論に共鳴するところが多い。
 鈴木俊幸「江戸時代の出版文化と〈作者〉」も、近世小説の社会的位置が低かったことと戯名との関わり、そして誰でも「作者」であった時代における作者と読者の距離の近さを指摘するなど、看過できない論文である。
 さらに金文京「東アジア前近代における〈作者〉の語義とその特徴」は、中国における「作者」の意味とその変遷を明らかにしてくれていて貴重。「作者」の原義は古代の聖天子であり、それに続く人々は、聖人の言葉を祖述する「述者」、選ぶ「選者」、顕在化させる「著者」、編集する「編者」であると。もちろん意味は派生するが、原義からすれば「作者」とは優れた作品を創った人を聖人に擬えていうことば、日本の「作者」も優れた詩歌を作る人といった意味が中心にあるのだと。「作者」を論じる上で押さえておくべき基本的論文であろう。
 さて、本論集の多くの人が引用しているのが「機能としての作者」の概念を提示した、ミシェル・フーコーの『作者とは何か?』である。いくつかの論文を読んで、バルトの「作者の死」に基づくナイーブなテクスト論はおおむね乗り越えられてはいるが、「機能としての作者」はまだ生きている、現状はそういう認識段階だと感じた。
 『作者とは何か?』(清水徹+豊崎光一訳、哲学書房版)でフーコーは「機能としての作者」の四つの特徴を指摘している。しかしそれを要約することは、ちょっと困難だ。ただ今回のシンポのテーマに即すると、次のくだりあたりがリンクしてこよう。「作者を現実の作家の側に探すのも、虚構の発話者の側に探すのも同様に誤りでしょう。機能としての作者はこの分裂そのもののなかで−この分割と距離のなかで作用するのです」。
 さて、『作者とは何か』に戻ると、商偉「『石頭記』と〈作者〉」が興味深かった。というか『石頭記』という作品そのものが面白い。
 シンポジウムは、「序文」を手がかりにして、という副題がついているが、これは「作者」=「序者」、つまり「自序」を扱いますよ、ということになる。しかし自序にはもともと、謙譲、韜晦が含まれるのが常である。他序はその反対。それをもポーズというのであれば、型としての序を前提とした議論が必要となるだろう。
 おそらく、それぞれの登壇者が自分の関心のある「作者」の書いた「序」について、そのポーズについて事例報告をし、ディスカッションで論じあうという形になると思う。自分の発表準備は出来ていないが、楽しみである。
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2022年08月11日

鈴木淳さんとゴンクールの『北斎』

 鈴木淳さんの『エドモン・ド・ゴンクール著『北斎』覚書』(ひつじ書房、2022年8月)が上梓された。大変瀟洒な横書きの研究書、表紙のゴンクールの写真がなんだか鈴木さんに重なってくる。
 鈴木淳さんには『江戸和学論考』『橘千蔭の研究』『江戸のみやび』など、多数の著書がある。「和様文人」というタームを作った方であり、国学・和学というより、とくに江戸における和風の文人のいとなみを探究されてきた。その延長で絵画への関心も深く、多くの業績がある。海外に渡った江戸の絵本、とりわけ北斎のそれを求めて、欧米への訪書を重ねてこられた。そのなかで、ゴンクールの『北斎』への思いは特別だったようである。鈴木さんは最近大病をされたが、奇跡的に研究に復帰した。2018年に我々の科研で出した『文化史のなかの光格天皇』にご寄稿をお願いしていたものの、病状のことを仄聞し諦めていたところ、きっちり原稿を出してこられたので驚いた。ただ、鈴木さんの場合、「研究への執念」というのとはちょっと違うかも知れない。「あくなき好奇心」が、鈴木さんを研究の世界に生還させたのではないか。
 本書の「まえがき」を読むと、それが伝わってくる。まずゴンクール『北斎』を自力で翻訳されたこと。語学がお好きなことも存じあげてはいたが、そこまでやる!?と唸った。しかもそれは結果的に出版されずに終わるが、翻訳を手元におけば研究上、検索に便利だったという。ご病気が発症する直前の訪書のことが詳しく書かれているが、海外での単独調査をすこしだけ経験したことがあるので、不安の中での閲覧の日々、胸が痛むくらいに伝わって来た。
 不如意の執筆環境の中で、最大限の学問的な手続きがきちんととられ、ようやくご上梓にこぎつけた感激はいかばかりだろうか。
 私も少しだけ在仏の北斎に触れたことがある。柏木加代子先生の科研の連携研究者となり、柏木隆雄先生・加代子先生とともにニースのシェレ美術館に所蔵される『北斎漫画』の調査に、同行した。同館所蔵の書き入れを読むのがミッションだった。ニースのあとはパリに渡り、柏木先生ご夫妻の伝手もあって、VIP待遇の美術館巡りのすばらしい旅を経験させていただいた。加代子先生(私も連名)の報告書(京都市立芸術大学美術学部研究紀要58、2012年)には、フェリックス・ブラックモンと親しかったヴィタ男爵がコレクションをシェレ美術館に寄贈したと解説されている。鈴木さんの本には、フェリックス・ブラックモンも出てくるので、辛うじて縁があることよと、私は勝手に喜んだのである。
 本書を評する資格は私にはないが、近世文学研究者の目から見た、しかもゴンクールに寄り添った、ゴンクールの北斎研究が見事に描き出されているのではないだろうか。
 鈴木淳さんは、博士論文を中野三敏先生に提出されたし、蘆庵文庫の研究でも長い間ご一緒し、研究上では兄のような存在である(兄貴的存在は何人か他にもいることはいるのだが)。北海道の学会の時には、その蘆庵文庫研究関係で同宿した際、囲碁の手合わせをしたこともある。どちらが勝ったかは忘れたが、同じくらいの棋力だったような。それももう10年以上前の話である。とりあえず、私のことを、無知な研究者だと呆れながらも、暖かい眼差しで見守ってきてくれた(と思いたい)。
 私は修士課程2年の秋に、始めて近世文学会に参加したが、その時に鈴木さんは秋成の『春雨物語』「目ひとつの神」について発表されていたと思う。いつごろから言葉を交わすようになったか憶えていない。九大の助手時代だろうか。昭和60年で私が実務をやった九大での近世学会の時に、展示のことでチクリと一言刺されたことが記憶にある。次第に口をきいてもらえるようになったが、一流の皮肉な言い回しの中に親しみをこめる独特な会話術をお持ちであった。私の科研研究会でもご講演いただいたことがある。
 私的な思い出の方が多くなってしまった。あらためて本書のご上梓を心から祝福したい。
 
 
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2022年08月05日

茶と日本人

 佃一輝『茶と日本人 二つの茶文化とこの国のかたち』(世界文化社、2022年3月)。
 どうも「茶文化の歴史」を学ぶことが苦手だった。秋成が茶人でもあったので、茶に関するいろいろな本を少しは読んだが、なにかピンと来ない。自分が茶を嗜んでいないからかもしれない。
しかし、この本はほんとうに腑に落ちた。たぶん、これまでこういう切り口で茶文化を論じた人はいなかったのではないか。それほどユニークな茶文化論である。
 副題の「二つの茶文化」とは、「わび茶」(=「茶道」)と「文人茶」である。ほとんどの茶文化の本は、利休を中心とした前者中心で論じられ、後者は添え物的に記されていたのではなかっただろうか。しかし著者は、「わび茶」を国ぶり、「文人茶」を異国ぶりと見立て、その違いを見事に説明している。特に茶会の場に即した違いの説明を行う第三章は、著者が茶人であることを活かして緻密に論じられている。いわく、露地と園林、懐石と醼席、聖性とその喪失、序破急と起承転結、型物と自娯など。その二つの文化のせめぎあいが茶の歴史を作ってきたのである。
そもそも茶を「ぶり」の文化と規定したところが非凡である。そして文学的表現として捉えるところもである。さらにふたつの茶文化の〈場〉のありよう、その意味を「道」と「情」で表す。「利休にかえれ」という江戸時代前期の茶道のスローガンを支えたのは徂徠学だという卓説に唸る。そして朱子学・徂徠学・陽明学と茶文化の関係が鮮やかに浮き彫りにされる。
春に京都近代美術館で大坂画壇の展覧会があり、私も観に行ったが、そこで本書の著者をホストとして、中谷伸生先生など四人の美術史家が、著者のご子息がいれた茶を飲みつつ、大坂の美術品を自在に論じるというビデオが上映されていた。この自由なあり方こそが「文人茶」の流儀だったのである。そしてまたこの本自体が「文人茶」の精神を体現しているのだ。
著者は「文人茶」の伝承と再生を図り、「文会」としての茶事を提唱している方である。その論じ方はどこか哲学的でありながら、モダンで、軽やか。ここにも本書の特徴があると思う。快著である。
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2022年08月04日

ボストン美術館展

上野の都立美術館で行われている「ボストン美術館展」。目玉の「平治物語絵巻」、「吉備大臣入唐絵巻」、本展示のために修復された増山雪斎の「孔雀図」は評判通りに素晴らしかった。「平治物語絵巻」はとにかく細部がすごい。こんなことが描かれている!と驚いた。余りにリアル。そして「孔雀図」の鮮やかさ。「いつの日か「第2の若冲」と呼ばれるようになるかもしれない(ナカムラクニオ氏『ボストン美術館修復探訪記』)」というが、まさに。そしてお殿様だけあって隠せない品性がある。しかししかし、目を剥いたのは、光格天皇の新内裏入りを描いた「寛政内裏遷幸図屏風」だ。全くノーマークだったので驚愕。このモチーフの図は以前たしか内閣文庫でも見たことがあるが、ボストン美術館のは屏風だし、鳥瞰的迫力と彩色の鮮やかさが半端ない。吉村周圭、やるな。都の町人たちが大なる期待と興味を持ってこぞって見物していたのがよく分かる。天皇の乗る輿の周囲には百人を越える官人、そして行列は全部で何人いるのだろうか。その長さも凄い。どういうコースで遷幸したかも一目瞭然。横開きになる特別なクリアファイルが売っていて思わず買いました(笑)。
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2022年08月03日

歌枕展(サントリー美術館)


六本木のサントリー美術館で「歌枕 あなたの知らない心の風景」展が開催中である。「デジタル文学地図」で歌枕をめぐる共同研究をやっている者としては見逃せない。
展示は素晴らしかった。学ぶところが多いのは言うまでもないが、何より平安時代あたりから江戸時代にかけての、人々の歌枕に対する思いのようなものが、感覚的に伝わってくる。中でもいくつか注目したもの。
〇伊勢物語下絵梵字経断簡 現在認められる最古の伊勢物語絵。東下りを描いたものだが、定番の燕子花ではない。
〇清涼殿名所絵下絵 寛政に再建された御所の清涼殿の障子画。諸国の名所(歌枕)を一望する構図。有名歌枕に囲まれる全国の縮図。畿内を中心におく配置や季節感など周到に構成されたことがわかるとともに、王朝復古のイメージの具体的事例として貴重。
〇松川十二景色和歌画帖 相馬藩主が、藩内の新しい歌枕創出を目指して成った十二景。実景を見ずに作ったというところに「歌枕」を考えるヒントがある。
歌枕の展示を見ると、やはり歌枕のイメージは作られたものという感をあらためて認識させられるが、一方で西行はそれを実際確かめるように旅をした。そこで詠んだとされる和歌がまたイメージを増殖する。その西行に憧れて芭蕉も旅をし、その芭蕉に憧れて現代に至るまで歌枕を旅する人々がいる。
 歌や絵だけではなく、人を介することで歌枕イメージが膨らんでゆくということを感じさせられた。
 また、歌枕を並べること、尽くすことに、いろんな意味があること。もちろん本としてそのようなものは、宗祇を初めとして多くあるのだが、それぞれに思惑があるのだと。
 とまれ、さまざまなこと思わせる展示かな であった。
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2022年07月25日

『雅俗』復刊十周年記念号

 近世文学研究誌の『雅俗』21号(2022年7月)は、復刊十周年記念号を謳う。
特集は、昨年末行われたシンポジウム「雅俗論のゆくえ」。登壇者5名の論考とディスカサント、傍聴記も。
川平敏文さんの「雅俗論史」は、今後の雅俗論の基礎文献になるだろう。小西甚一の雅俗論をとりあげている点がユニークである。
深沢了子さんの「雅俗の境目」は、宗因に即して「雅俗」を考察。
私の「浪花人秋成」は、秋成の意識に即して、都=雅、浪花=俗という空間的雅俗論の可能性を検討したもの。
小林ふみ子さんの「「雅俗」をどう語り直すか」は、国際的な視座からの雅俗論を提案、南畝の雅俗意識を検討しながらも、雅俗の価値意識が研究者に内面化けるされているのではという警鐘?を鳴らす。分析は正しいが、俗文学研究の低調打破には、別の論点が必要だろう。
菱岡憲司さんの「馬琴と小津桂窓の雅俗観」は、標題通り当時の文人の雅俗観を探る。
まさに基調報告1+事例報告4という形にきれいに構成されているように見えるが、各論文は事例報告という意味ではなく多面的な問題意識に基づく大胆な提言を行っている。それが絡んだのはシンポジウムのあとの懇談会の席だったようにも記憶するが、あらためて思うのは「大事なのは問い」という研究の基本である。
論考編では、高松亮太さんが上田秋成『毎月抄』の完本の紹介。これは貴重。写本流通論にも論を展開している。
高山大毅さんの「「石鏡」=鏡山詠の展開−徂徠学派の定句表現」はよくある〈詩語の歴史的展開を追う〉論文のようなタイトルだが、その根っこにある問いが「なぜ徂徠学派中心の文学史理解が江戸期において受け入れられたいたのか」というユニークなものである。徂徠学派の文学史的記述、つまり文学史の創造が「石鏡」という詩語を普及させたからくりを解き明かすのだが、もちろんこの構想自体が高山さんの学術的イマジネーションである(いい意味で)。「詩と文学史叙述を総合して彼らの作品であると見なしてもよいのではなかろうか」ときた。このくだりを読むと、いろんな問いが生まれる。問いを誘発する論文はやはりいい論文なのだ。
 これでまだ半分も紹介していないのだが、今回は220頁超のボリュームとなった。学会誌がやせ細っている状況なのに、研究同人誌は元気。この元気をまた学会誌に返すことができればいいのだが。いやもっと根本的な地殻変動が起こるのかも知れない。
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2022年07月06日

日本書物史ノート

 書物史とは、「モノとしての本」の歴史のことである。私は師の中野三敏先生から、とにかく原本をたくさん見ろという教えを受けた。私自身はあまり守れていないが・・・。「原本を見る」とは、その字面を画像で確認するという意味ではない。江戸時代に刊行された、あるいは写された本を、実際に手にとって、その感触を確かめろという意味である。そうしないと、その本の江戸時代における意味はわからない。大きさ、重さ、紙質、紙のつかれ、綴じ糸、墨付きの感じ、運筆のあり方、綴じ糸、刷りの良さ、埋木のあと、汚れ方、それら全ては江戸の人の営みの跡であり、その本の性質を考えるヒントであり、誤解を怖れずにいえば「本を読む」ことである。
 書物史学の第一人者である佐々木孝浩さんの「日本書物史ノート」という連載が、岩波書店のPR誌『図書』で始まった。初回は「写本と版本で織り成す和本の歴史」。その冒頭に「みなさん本はお好きですか?」という問いがある。これは「モノとしての本」のことなのだ。そして言う「書物の形態や外見の意味するところを見極める行為も、広義の読書と呼んでもいいのではないでしょうか」と。これに同意する人が、佐々木さんのいう「本好き」である。我が師はこれを「本道楽」と称した。いや、そこまではなかなかという人も、この連載を読むと、「本好き」になるかもしれない。
 今回は、写本と版本の特徴を押さえ、両者を見比べながらでないと、バランスの良い書物史は出来ないという。これが今回のポイントだろう。
 一般向けに書かれているので、非常にわかりやすいが、専門知が惜しげもなく披瀝されていて、今後の展開が楽しみである。

 ここからは私のたわごとだが、写本と版本の違いは、前者が原則として誰か特定の人(自分であったり、子孫であったり、友人であったり、依頼者であったり)のために作られたものであり、後者は原則として特定ではない複数の人のために作られたものであるとも言えるだろう。つまり写本は縦につながり、版本は横に拡がる。とはいえ、佐々木さんも述べている通り、もともと版本は写本をコピーするという意識で作られているので、どこか写本意識を引きずっているのである。だから版本であっても実は特定の人を読者として想定しているケースもあるだろう。
 特定の誰かのためであれば、字形や本の装丁にも気を遣うわけで、つまりモノとしての本は、人的交流の産物として捉えられるのではないか(またまたポジショントーク)。本を書いた人と、それを読む人との関係を明らかにすることも、書物学の延長に、あるいは書物学の一部ではないだろうか。
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歴史で読む国学

國學院大學日本文化研究所編『歴史で読む国学』(ぺりかん社、2022年3月)。国学史の新しい入門書を標榜している。これまでの国学史は、どちらかというと主要な国学者の言説内容を時系列に並べるという体のものが多かった印象だが、本書は共同執筆ながら、国学を政治史的・文化史的に位置づけるという方法で一貫している。つまりその言説内容よりも、それが生まれた背景の説明に注力している。具体的にいえば、朝幕関係、儒学や神道、あるいは歌壇の動向、出版史などによく目配りしているし、人的交流にも叙述を割いている。荷田国学と懐徳堂との関係など、注目すべき指摘も備わる。江戸時代の中では荷田派国学の動向に紙幅を割いている点で国学院色を出しているが、全体的には最新の研究成果を十分に取り入れつつバランスのとれた国学史になっている。
 以下は本書に導かれた述懐であるが、「国学」ということば自体は近代に生まれたものであり、江戸時代に和学・古学と呼ばれる学問を指すものとされるが、有職学・史学・歌学、そして神道などとの線引きも難しい。我々は、どうしても既存の枠組に呪縛されていて、当時の学のあり方をありのままに見ることが出来ていないように思われる。その言説の歴史的意味や現代的意義を考えることも重要だが、その言説がどういう場で生成したかという点にも注目すべきではないだろうか。それはわりとグローバルな問題意識であるように思うからである。どういう場で生成したかというのは、言説主体の人的交流をおさえる必要があるだろう。本書はその視点も有している。
 この投稿の後半は、「人的交流と文芸生成の場」の研究の重要性を主張している私のポジショントークですな。ははは。
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2022年07月04日

秋成新資料考

『東海近世』30号(2022年5月)に、長島弘明さんの「秋成新資料考」が掲載されている。東海近世文学会の記念講演の活字化である。ご講演のことは仄聞していたが、活字化はまことにありがたい。新資料がなんと48も!秋成の資料がまだまだ眠っていることを知らしめる、長島さんならではの論考である。的確な解釈と位置づけも流石である。村田春海の季鷹宛書簡に、伴蒿蹊の和歌を拝受した、そして蒿蹊への謝礼を秋成に託したと。これだけでも凄い情報量。この資料を持っていたのが塩村耕さんというのがまた唸る。
 以下余談。なぜか後半の安田文吉先生、服部仁さん、服部直子さんの東海近世300回記念鼎談の中で、私が服部仁さんに「服部さんがそんな敬老パスなんて、そんなダメだ」と言ったという話が紹介されているんですが、記憶にありません。忘却しました。
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2022年07月01日

羈旅漫録

 7月に入りました。退職後は時間がいっぱいあるから、ブログも毎日のように更新、というのは絵に描いた餅でした。いただくメールは確かに激減したが、なぜか余裕がない。その結果、依然としてコメントすべき本が山のようにあります。さて、猛暑の中、今日はやや熱中症的な症状を発してしまいました。そこに届いた涼風、いやそうではなく、平凡社東洋文庫の『羈旅漫録』。木越俊介さんの校注。ようやく、丁寧で信頼できる注で、この本を読めるときが来たのかと、感慨深い。
 かつてこのテキストを大学院の演習で読んだことがある。各自興味のある条を選んでの注釈である。だから懐かしくもある。
 馬琴が上京した前年に大田南畝も大坂に仕事で長期滞在したが、毎日生き生きと名所旧跡を訪ね回っている。この当時の馬琴はまだまだ全国区ではない。南畝の紹介状を携えて、あこがれの上方へやってきた。そのワクワク感が伝わってくる。しかしさすがは馬琴、あとあと創作に役立つだろうと、戦略的に細かく記録を作っている。これが一流である。真似したくても真似できない。
 秋成のことも高く評価している。「京にて今の人物は皆川文蔵と上田余斎のみ」といい、「余斎は浪花人」と注記する。南畝から何か訊いていたのだろうか?いろいろ想像が膨らむ。南畝もそうだが、やはり一流の文人の見聞記は、ポイントを衝いていて面白く、勉強になる。
 デジタル文学地図プロジェクトの観点からも、この注釈付きの決定的テキストの刊行は、まことにありがたい。
 
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2022年06月16日

人的交流データベースが日本の人名データベースと連携

私たちの「近世中後期上方文壇人的交流データベース」https://jintekikoryu.is-trm.net/top が、ベティーナ・グラムリヒ=オカ先生(上智大学)主宰の「日本の人名データベース」(JBDB)https://jbdb.jp/ja/front/と連携、「妙法院日次記」データがJBDBに追加されました。少し試してみましたが、非常に面白いですね。このJBDBが発展することを期待します。
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2022年06月12日

学会記(中京大学・オンライン)

 6月11日・12日、中京大学を会場校(ただし全面オンライン)として、日本近世文学会が行われた。土曜日は学会70周年記念シンポジウム「独自進化する?日本近世文学会の研究」。パネリストは5人。40年以上学会を引っ張ってこられ、今なお高い問題意識で次々と刺激的な提言を行う中嶋隆さん、ハーバード大学で理論的研究を学び、紆余曲折(本人談)の後東大駒場のロバート・キャンベルさんに文献実証学を叩き込まれた山本嘉孝さん、若手俳文学研究の期待を担う河村瑛子さん、中国出身の書物史研究者の陳捷さん、日本の古典芸能に造詣の深いイタリアの研究者ボナヴェントゥーラ・ルペルティさん。後二者は学科以外からのコメントである。
 ここでは中嶋さんと山本さんの発表について述べる。
 中嶋さんは、いつも通り明晰な文学史論、研究史論。暉峻康隆・野間光辰・谷脇理史という戦後の西鶴研究の流れを見事に整理し、中村幸彦の仕事を高く評価した。中嶋さんの17世紀=近代初期論については、かつてここでも取り上げたところであるが、ポイントは出版メディアである。出版研究が近世文学研究にとって重要であることは、ここ30年ほどの研究動向から明らかである。しかし、文学史というパースペクティヴの中で出版メディアを論じている人は、それほど多くはない。中嶋さんの今回の発表は、西鶴研究を具体的事例として、これまでの近世文学会の研究の流れを総括するとともに、今後への指針ともなる70周年記念に相応しい基調講演的なものであった。
 山本さんは、山本さんがアメリカで学んだフランス文学研究者のスレーマン先生が、〈ホロコースト〉経験によって人間の知性や歴史への不信を抱き、そこから理論的研究にいったんは向かいながらも、結局は「実証主義者」を自称するようになっていく「物語」を枕に、「実証的研究の普遍性」を説き、その実証的研究を展開してきた日本近世文学会が、初学者のサポートとして、研究会やゼミでの伝達に閉じられている注釈のノウハウを開いていくべきだと提唱した。理論的研究を本場アメリカで学んできたからこそ、それを否定的に言及することに説得力があったわけであるが、今回のシンポの「独自進化?」というのは、これまで実証的研究の方向をまっしぐらに歩んできたかにみえる近世文学会のありかたの是非とは?という意味を持たせていたので、山本さんの、理論的研究を否定し、実証的研究こそ普遍というテーゼは、交流会をふくめて質問や議論をまきおこした。
 理論と実証を二項対立的に把握していいのか? それは車の両輪では?そう思った人は多いはずである。しかし、山本さんのやや挑発的な理論的研究批判は、やはり本シンポジウムの最大のヤマ場だったであろう。
 大高洋司さんが閉会の挨拶でも述べ、ご本人も触れていたように、40年ほど前、30歳くらいだった中嶋隆さんが、好色一代男のはなしの方法という発表(タイトルはうろおぼえ)をされた。これは日本近世文学会ではきわめて珍しい「理論的発表」だった。20代だった私も驚いた。中嶋さんは、この時を回顧して、中村幸彦先生から、「君のは美学だ」と言われたというエピソードを披露していた。しかし、大高さんはこの時の発表に大きな影響を受けたと言っていた。それはおそらく、読本研究で一時期おおいに話題をさらった「読本的枠組」という「理論」だった。いや、これはたぶん「理論」ではないだろうが、演繹的方法が多分に用いられたものだっと思う。そしてこの「読本的枠組」をめぐる、追随的、対抗的読解が出ることで、読本研究は盛んになったという側面があると思う。
 ただ、山本さんのいう「理論的研究」を多くの人はやや誤解していたのではないか。いわゆるパースペクティブや、テクストだけで読むという方法なども理論だと認識して反発していたかもしれない。とはいえ、それも含めて、大きな反響を呼んだ山本さんの発表は、これまた記念シンポに相応しいものであった。
 2日目は、多様な6本の発表があったが、ここでは中森康之さんの奥の細道の冒頭文についての発表について触れよう。
 まさに前日のシンポで問題になった「理論的研究」といえる発表であった。井筒俊彦の考えを応用した部分がある。しかし非実証的研究ではなかった。芭蕉が引用する「荘子」。『荘子けん斎口義』の和刻本を見せながら、従来の解釈に欠けていた「文脈」を考慮することの提言。さらに『笈の小文』冒頭文と対応させての読み。さまざまな切り口、理論、比較などをとりいれた、美しい読みである。結論よりもその論証過程に美しさが宿る。質問した川平敏文さんが「中森ワールド」と称したが、まさに。
 私は初日のシンポジウムのディスカサントで、やや挑発的に、学会の外に向けて、どう研究をアピールするのかという問いを投げたが、これは自分の役割を少し意識したものだった。「発信」というキーワードを、コーディネーターから与えられていたからだ。その回答として、中嶋さんが個々の研究者が現代との接点を問題意識として持つ以外にないと言われたことに、胸を打たれた。
 最後にコロナ禍のつづくなか、難しい運営を見事に乗り越えられた柳沢昌紀さんはじめとする事務局、実行組織のみなさん、シンポの企画を立てられ、猛獣使いよろしく司会をこなされた藤原英城さん、そしてすべての登壇者のみなさんに感謝する。
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2022年06月02日

人とつながる文学

 あっというまに新年度も2か月過ぎました。退職の後始末はほぼ終了。引っ越しの片付けがまだ終わらないものの、ありがたいことに、いろいろなお仕事がはいってきております。きのうも新たなプロジェクトについて某先生と電話対談・・・・それでも、大学の業務がないのは本当に精神的に楽ですね。
 さて2日は、東京日帰り。ぜミ生ではないけど教え子のTさんに呼ばれて、S女子大で日本文学の「特殊研究講座」いう学科クローズドの講演会で、秋成をしゃべりました。タイトルは「知られざる秋成の魅力―人とつながる文学」。ハイブリッド。会場は数百人入るホールですが、感染対策のため対面は1、2年生中心で200名ほど。3,4年は原則オンラインでというスタイル。しゃべった内容は例によって秋成晩年の「特定の読者を想定した文芸。亡き妻や、小沢蘆庵、神医谷川氏に贈った歌文について。
 講演前に、この大学図書館に所蔵される文化五年本(桜山本)『春雨物語』を見せていただきまいた。前日に思いついてお願いしたにもかかわらず、ご快諾いただきありがたかった。そのためかテンションがあがり、饒舌になっちゃって時間配分に失敗。ただ、居眠りする人もおらず、概ね好反応(だと私が思えるということですが)でほっとしました。
 古典に興味をもつ学生が結構いるということで、持参した秋成短冊にくらいつく学生が少なからずいたのには感激しました。
 秋成に限らず、前近代のとくに自筆テキストは、誰かのため(神のため、死者のため)に、誰かを想定して書かれたものが多い。誰を想定していたのか、ということを追究するのが必須、ではないでしょうか。

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