2019年02月02日

男色大鑑〈武士編〉

西鶴の『男色大鑑』の全訳第1弾、武士編が昨年12月に文学通信から刊行されている。
染谷智幸さん、畑中千晶さん編で、数名の若手西鶴研究者が担当。イラスト陣にあんどうれい、大竹直子、九州男児、こふで、紗久楽さわ。
西鶴研究者がこれまで正面から取り組んで来た、とはいいがたい『男色大鑑』という作品。やはり、避けられてきたのである。
しかし、ここ数年のBLブーム、さらにいえば「性文化に起きつつある地殻変動」(染谷さんあとがき)と歩調を合わせるかのように、まずKADOKAWAコミックでコミカライズされ、学界でも議論されるようになり、『男色を描く』という本も出版された(本ブログでも紹介)。やがて若衆文化研究会なる研究会が何度も開かれ、ついに男色大鑑祭りとなって爆発したのが昨年の8月、怒濤の勢いでの現代語訳出版である。
原文は付けずに現代語訳だけ。しかし注をつけることで、本作品が「古典」であることを実感させているようである。
そこで、コンテンツビジネスとしての古典の事例として、この出版の動きを注視したい。続編の〈歌舞伎若衆編〉が出て完結した時に、あらたな波が起こるのかどうか。センター試験の玉水物語の反響を顧みると、〈萌える〉古典シリーズなんてのも、ありそうではないか。教養としての、だけではなく、コンテンツビジネスとしての古典を考えていくこと、重要ではないか。この点も、「古典は本当に必要なのか」で学んだことなのである。


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2019年02月01日

明治の医師の日記翻刻

日下古文書研究会が明治の医師の日記、末田茂吉『忍耐堂見聞雑誌』を翻刻。2019年1月刊。明治30年〜40年代。全部が揃っているわけではないようだが。全体にざっと見ると、文語体(漢文訓読体)から徐々に口語体へ移行している感じがある。これは国語史資料として面白いかも。もしろん医学史資料としても貴重なものに違いない。原文は漢字カタカナ交じり。やはりこの時代の人で、漢詩・和歌・俳句を嗜んでいる。浜田昭子氏による詳細な解説付き。とてもいい仕事だと思います。
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2019年01月22日

「上田秋成の人と文学」という題目で講演します。

一応告知しておきます。1月26日土曜日14:00から大手前大学で講演いたします。題目は「上田秋成の人と文学」。申し込み要、無料です。『雨月物語』のことはほとんどお話いたしません。秋成の人生をざっくり説明し、いくつか、「人と繋がる文芸」として、秋成の歌文を紹介するという感じです。怪談作家ではなく、歌人、国学者というのが、当時の評価です。そこのところを説明する感じです。ご案内はこちら
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2019年01月21日

「古典は本当に必要なのか」シンポの司会として

1月14日に明星大学で行われた標記シンポの模様は、Youtubeで公開されています。司会をしました。いろいろと考えるところがあり、総括をしたいと思っていましたが、いろいろなことが重なってなかなか書けないでいました。しかし、これ以上遅延するのも問題かなと思い、やや雑ですが、まとめてみたいと思います。

既に、ブログ等で貴重な「まとめ」やご意見がいくつも出ておりますが、主催者の方でまとめられるであろう報告書にフィードバックされることと思います。シンポ開催前から、非常に関心を集めておりましたが、シンポ後もアーカイブ動画が公開されていたことと、ツイッターでハッシュタグ(#古典は本当に必要なのか)が一時上位ランキングに出たこともあり、シンポ参加者・視聴者以外までも、古典についていろいろ発言されるという、まったく意想外の展開となりました。これにセンター試験での古文出題(玉水物語)がこれまた話題となり、相乗効果もあったようです。

今回、とくに否定側で登壇していただいた、両先生にはまず深く御礼申し上げます。お二人が所属を名乗らなかったのは、所属先の見解と誤解されないため、ということだとうかがっています。主催者側の趣向ではありません。肯定派側で登壇いただいた両先生にも感謝申し上げます。そして、なにより、遠方からも含め、120名ほどの参加者の皆様に、心より御礼申し上げます。発言を希望されていた方はとても多かったのですが、司会の不手際で、取り上げることができなかった意見が多くありました。まことに申し訳ございません。

 このシンポジウムの模様にご興味のある方は、全体をまとめてくださったこちらのサイトを御覧下さい。また、討論の優れた分析としては、こちらがあります。他にも多くの方がブログで触れています。

 噛み合った議論を期待しましたが、論点設定の問題もあり、私の司会スキルの問題もあって、否定派と肯定派の議論は噛み合わなかったといえます。もっと言えば、否定派の論理の枠組で議論するのは、肯定派にはちょっと厳しかったのだと思われます。

 否定派の枠組は、教育全体の中での「古典」の「優先度」を再考せよということ。高校で必修から外し、芸術の一科目として選択にせよと。否定派が提示した問題提起のキイワードでした。もし否定派がこれをひとつに絞って(たとえば行列)きて、行列か古典か、それぞれがプレゼンして、どちらを選ぶかフロアに問う、という議論の方向がありえたかもしれません。この「優先度」は、教育の基本・基準は何かと言う問題と関わりますから、教育は何のために行われるか、という議論へ展開することになりますね。否定派は、経済成長・国際競争のための効率のよい教育という考え方ですね。肯定派はこの枠組ではちょっときびしかったわけでしょう。それと関わるのが「幸福」というキーワードでしょう。フロアから、両方の主張の中に、共通して指摘できるキーワードだという発言がありました。「幸福」ですから個人に即して言うわけですが、収入がUPすることか、精神的な幸福感か?、という選択です。しかし、この議論も、建設的に行う論点としては難しそうです。

 ではそうでない論点はなかったのか。私は「国語力」ではないかと思います。これが大事だということは両派に共通しています。英語でのコミュニケーション力やプレゼン力も「国語力」が大事であることは否定派もおっしゃていました。それなのに「古典」が「国語力」にどう関わるかが、議論されませんでした。この問題は、「古典」を「芸術」科目にしようと提言する否定派の考え方とも関わります。

 私は「古典」必修の主張として、「国語力」の水準の維持、あるいは向上のためには古典教育が必要だからだ、ということを申し上げたく思います。つまり、現代文理解のためにこそ、古典そして古典(文語)文法が必要だということです。

 現代文と古文は切り離されているわけではなく、接続しています。「走る」「防ぐ」「立つ」「見る」などの動詞や、「多い(多し)」「古い(古し)」などの形容詞、「顔」「足」「水」などの名詞など、現在使っている言葉と変わらない言葉(基礎語)が沢山あることはご存じでしょう。現代語は、新語もたくさんありますが、古語から続いているものの方が基本用語には多い。古語は死語ではないのです(ラテン語とは少し意味が違う)。古文の構造は現代文と全く同じ、その点はなにも難しいことはありません。文語文法は、現代語文法よりも法則性が強い。むしろ現代語文法よりも本当は学びやすい。しかし、むずかしく感じるのはなぜか、それは必修レベルで、やや多くの語彙や文法を教えすぎているからではないか、と思います。助動詞などはもっと減らしてもいい。源氏物語などの中古作品と、中古文に連なる徒然草や擬古文を中心に置いたために、敬語をはじめとして、ややこしいことをたくさん教えなければならなかったわけです。高校における古典必修を私は主張しますが、あくまで現代文を理解するための基礎として考えるということから、柱になるのは、漢文訓読文のスタイルではないかと思います。現代の論理的な文章にもよく出てくる「いわんや」とか「なきにしもあらず」とか、そのような言い回しは、現代語訳ではなく、そのまま使えるようでありたい、そのためには、現代文にも使われるような語句がたくさん出てくる読みやすい古文を必修で学ぶことでしょう。源氏などの中古文はむしろ選択で学ぶようにすればどうだろうかと思います。古典は情緒的だという先入観も、これまでの教科書のテキストの編成に原因があるのではないでしょうか。漢文訓読的文章を中心に、より広い分野のテキストを配列すればよい。

 「古典」が芸術科目にできない、というのは、そういう意味で「古典」とは文学作品に限定されないからです。宗教思想・歴史学・本草(薬草)学・天文学など、文理を越えた古典が沢山あります(福田氏のプレゼンでも)。それを読むのです。すでにこれもどなたかが指摘していましたが、古典とは古いと同時に、現代にも通じる普遍的なテキストです。「典」がその意味を持ちます。逆に現代にインパクトをもたないもの、読む価値のない文は、単なる歴史的文章であって、古典ではない。古典とは読み続けられる価値のあるもので、しかも時代時代によって、その価値を発見されつづけるものです。百年読み継がれれば、つまり漱石あたりから、もう古典といってよいでしょう。淘汰されてきてなお新たな価値を見いだされ続けているものが古典です。それは現代語訳で学ぶだけでは無意味です。現代語訳とともに学んでこそ意味があります。
 古典は、文章自体が、重層的に出来ているものが多い。文章の背後に和歌や、それより古い古典が隠れているという時間的重層もあるし、掛詞や連想ということばレベルの重層もあります(前田雅之氏の「記憶と連想」発言参照)。これは現代語訳では消えてしまう。だから原文で読むことが必要。その粹(すい)は、和歌でしょう。『和歌のルール』という本がありますが、かなり売れています。和歌は情緒的だと思われがちですが、そうではない。きわめて知的で論理的。和歌のルールのマスターは国語力の基礎たりえます。また漢文は、もともと漢籍をよむために工夫された日本語の文体。それを読み下したのが漢文訓読です。この漢文を学んだおかげで、日本人が明治以後西洋の抽象概念を漢語で次々に造語した。この造語力、いまでも必要ではないか。「共創」などという漢語も結構新しいですよね。それだけではなく、「しかるに」とか「けだし」とか、今でも普通に使われることばは漢文訓読から。またちょっと前の法律を読んだり、文書を読むためには、漢文力が絶対に必要となります。ビジネスでもそれは必要ではないか。
 しかも、それらの漢文・古文は、何百年も価値を認められ続けて生き残ってきたものでありますから、内容的にも今読んでも必ず学びがあります。ここでは詳しく触れませんが。
 
 でもポリコレがあるでしょう?と反論されるかもしれない。古典にはもちろん古い価値観や道徳観があります。ないと言ってはいない。しかし、それは古文だけではない、昭和、いや平成でも、そういう作品・映画・ドラマ・漫画はいくらでもあります。それらを教室で読むときには、当然それらを注意して読む。これは教師の役目です。古典で、男尊女卑や年功序列をすり込まれるというのは、かなり無理のある主張と言わねばなりません。むしろ、逆に気づきを与えるチャンスだとも言える。ここはだから論点にはならないと思います。

 このように書いてくると、否定派のご主張は自体あまり有効ではないように思われるのですが、いかがでしょうか。にもかかわらず、私自身の古典教科書観は、否定派と案外近いようにも思います。もし高校必修が攻防線でなかったら、同じ陣営だったかもしれません。それは、私が否定派になったというよりも、否定派のおふたりが肯定派になっていたのでは、という意味ですが。

 なお、フロアから出た意見で、すでに古典は高校によっては、ほとんどやられていない。現代語訳で教えられているところもある。そういう現実を見ないで議論するのはエリートの議論であるという批判、また教科そのものの枠組を考え直すべき時に来ていると思うがいかがか、という意見がありました。この意見は、SNSのご当人の書き込みを読み、それをふまえて動画を見直すと、「すべての先生に」、つまり私自身にも向けられていたようなのです。それをネグレクトした形になったことで、私への人格批判もありました。私へも回答を求めていたとはちょっと気づきませんでしたし、気づいたとしても、他の質問者との間で私が答える場面はなかったので、答えなかったとは思いますが、この場を借りて、お答えしておくと、エリートの議論というのはその通りで、現状すでにこうなっているというご教示はありがたいです。もっともこの討論は、直前になって論点が定められたので、司会の私を含め、現在の高等学校の国語の現場についての情報が不足していました(どちらかといえば、古典の意義とは何か、という議論を当初は想定していたので。しかし否定派の論理を傾聴するという趣旨で、高校必修の論点となりました)。また教科の枠組については、私はさきほどの理由で、古典は「国語」だと思っているので、その枠組を変える必要はないという考えです。この問題を論点にすることも出来ましたね。
 
 なお主催者は報告書(書籍になるかどうかわかりませんが)を作成すると思いますので、そこでまとめをされることと思います。やや拙速ですが、以上です。

 



 
 
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2019年01月06日

古典は本当に必要なのか

 1月14日(月)14:00から17:30まで、明星大学で、古典は本当に必要なのかを、古典否定(不要)派、古典肯定(必要)派が火花を散らしてガチ議論する公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」が開催される。主催は明星大学日本文化学科、コーディネーターは直前のエントリーで紹介した『怪異を読む・書く』の編者、勝又基さんである。詳細な内容は、明星大学のこちらのウェブサイトでご確認いただきたい。入場無料・予約不要・使用言語は日本語である。関心のある方々のご来場を、お待ちしている。
 人文学の危機、文学部不要・縮小論が言われはじめて、すでに10年以上たつだろうか。流れは加速しているように見える。これに抗するかのように各大学の文学部では、文学部の意義を再確認したり、逆襲の論理を模索するシンポジウムが開かれるようになった。
 今回は文学部の存在意義を議論するのではなく、古典の存在意義を議論するものだが、重要なのは、人文学や文学部の存在意義に疑問を抱いている識者が登壇し、古典不要論を説くのに対し、実際に古典教育・研究を行っている側が、これに反論するという基本的構図があるということである。
 不要派の一人猿倉氏は「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」という挑発的な、しかし論点の明確な題目を出されている。もうひとりのパネリスト前田氏は、某大手電機メーカーOBであるが、理系目線から「古文・漢文より国語リテラシー」と題する発表を行う。迎え撃つ形の肯定派パネリストは、和歌文学研究者で昨年角川源義賞を受賞した渡部泰明氏と、「医学書のなかの文学」という著書もあり、江戸の「理系」書も博捜している近世文学研究者の福田安典氏である。二人ともオーソドックスな日本文学研究者ではなく、結構とんがっているところがあると私は思う。
 否定派は厳しい論理で、「古典」不要を説くだろう。今回のパネリストはガチの否定派であって、まったく容赦はないはずである。日本文学の研究者はこのような古典否定派の批判にほとんどさらされたことがないのが実情である。文学部の中だけで、その支持者だけで、文学部の意義とか、力とか、逆襲といっているのは、やっぱり温室の議論ではないのか。コーディネーターの勝又さんの問題意識はそこである。相談を受けて私も共感した。当初、本当に壇上に立ってくれる否定派がいなさそうだったが、本物の否定派、日本文学研究者に全く知り合いのいない、つまり遠慮する必要のない立場の方とコンタクトが取れた。もしかすると、最強の古典否定論者かもしれないという方々である。
 私が司会をすることになった。勝又さんも私も、古典を教育・研究しているが、現在の古典教育研究のあり方に問題があることを感じている。我々はまず、シビアな不要論を受け止めるところから始めなければならない。古典擁護派がこれまで説いてきた議論が、本当に否定派に通じるのかどうかを確かめなければならない。
 どっちが勝つか、というイベント性を装っているし、事実、添付したチラシの図案は映画「仁義なき戦い」をもじったものである。しかし、このイベントから、古典教育研究のめざす方向が見えてくるのではないか、あるいは全く意外な副産物があるのでは、という期待がある。本気の批判を受け止めてからではないと、本気の改革は始まらないのではないか。議論の時間は90分が予定されている。フロアからの質問や意見も交えて進めてゆきたいと考えている。是非是非、シンポジウムにご参加いただきたい。image.png
 
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2019年01月05日

『怪異を読む・書く』

怪異といえば、昨年出た本でこの本を逸することはできない。
国書刊行会から出版された『怪異を読む・書く』(2018年11月)である。
木越治・勝又基編となっている。
もともと、木越さんの古稀記念論文集として企画されたものだった。しかし、本が出来上がるのを待たずして、木越さんは逝去されたのだった。
しかし、論集は、予定通り、古稀の誕生日に出版され、霊前に捧げられた。結果的には追悼論文集となった。
本書は、「怪異」を読む・書く、つまり読者と作者という観点から、様々なアプローチで「怪異」を論じた、本格的な論文集である。
「読む」に関わるもの13編、「書く」に関わるもの13編ときっちり同数の二部構成である。
論者は、木越ファミリーの皆さんがほとんど、あとは木越さんが特に寄稿をお願いした方である。
木越ファミリーとは、木越さんの金沢大学時代の教え子、北陸古典研究会メンバー、私淑された高田衛先生の門下生で木越さんと親しい方、上田秋成研究会メンバー、上智大学時代の教え子、そして文字通りのファミリーである奥様の木越秀子さんと、ご子息の木越俊介さんである。お二人も近世文学の研究者。内容をみると、近世を中心に、中世から近代、そして中国の怪談も俎上に載せられている。しかも、斬新な視点をもつ、かなりレベルの高い論文が集まっている。いくつか触れておこう。
 高橋明彦さんは怪異における実在論と観念論の問題を論じる。大きな問いがそこにある。
 木越俊介さんは、『四方義草』という、前期読本の系譜の最語尾に位置する作品を取り上げるが、これは、父の治さんが論じたものをを引き継いだもの。対象作品だけでなく、論のテーマそのものが「引き継ぐ」ことを問題にしているところが面白い。
 木越治さんは、勝又さんが選んだLong Distant Call という「吉備津の釜」論。かなり前の論文だが、全く古びていない一級の作品論である。
 勝又基さんの「都市文化としての写本怪談」は、近世中期の写本怪談と江戸の前期戯作に発想の繋がりを見出したもの。
 井上泰至さんは、秋成を「音の作家」と位置づけて分析。眼疾のあった秋成の聴覚が研ぎ澄まされていたのは疑いなく、私もかつて「血かたびら」の聴覚表象を分析したことがある(引いてくださっている)。
 もちろん、この他の論文も読みどころがたくさんある。帯の裏には木越治責任編集の、現在5巻中4巻が刊行された『江戸怪談文芸名作選』のラインナップが載る。このシリーズの姉妹編が本書だと位置づけていいだろう。そしてこれから出る最終巻の校訂代表は、勝又さんと木越俊介さん。これもまた感慨深い。私はこのシリーズの方に参加させていただいたが、声をかけていただきありがたかった。
 私が背中を追いかけた研究者のお一人が木越治さんだった。末尾の木越さんの著作目録が載る。これも編者渾身の仕事である。「その他」の終わりから4番目に「飯倉洋一氏へ」というタイトルがある。「菊花の約」をめぐる作品論のあり方についての論争をした。本当に正面から拙論を批判していただき、それへの私の反論に、さらに答えたのがこの文章だった。背中を追いかけてきた研究者が振り向いて、「勝負」してくれた。これは研究者冥利につきることなのである。
 
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2019年01月04日

新選百物語

あけましておめでとうございます。

本日仕事はじめで早速会議でした。

それはともかく2019年の初投稿である。昨年紹介したかったのに紹介しきれない本が数冊。
そのうちの1冊が、『新選百物語』(白澤社、2018年11月)。
ハンディな造本だが、これ、〈江戸怪談を読む〉叢書の1冊である。監修は篠原進さん、翻刻・注・現代語訳は教え子の岡島由佳さんである。
百物語の翻刻は、藤川雅恵さんの『御伽百物語』に続いてで、ありがたい。堤邦彦さんと近藤瑞木さんという、近世怪談研究最前線のお二人がコラム執筆というのも贅沢。
さて、明和五年(1768)に大坂で刊行されたこの本、浮世草子っぽいところがあるが、例によって「奇談」書のひとつである(「奇談」書については何度も書いてきたが、『日本文学』2012年10月号の「近世文学の一領域としての「奇談」」が概観的なもの)。未翻刻の「奇談」書が翻刻されていくのは、「奇談」書研究者(?)としてはまことに嬉しい限りでして、着々とひとつひとつ進んでいるのです。版元の吉文字屋も「奇談」書の担い手の一人で、作者でもあり、版元でもある。江戸時代は本屋作者って結構いるのですよね。さて、明和五年といえば、秋成が『雨月物語』を脱稿した年(序による)ということになっているが、かなり味付けが違うにもかかわらず、女性の嫉妬を主題とする類話もあって、比較すると興味深いと思う。
岡島さんには、『新選百物語』についての論文もあるが、その一部をここで披露してもよかったのではないかと思ったが、本書では解説を師匠が担当したのですね。
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2018年12月25日

慶長軍記

井上泰至・湯浅佳子編『関ヶ原合戦を読む 慶長軍記 翻刻・解説』(勉誠出版・2019年1月)。関ヶ原合戦が最初に描かれた作品である『慶長軍記』二種の全編を、上下段に組んで翻刻したもの。関ヶ原ファンにはこたえられない出版である。以前紹介した「アジア遊学」シリーズの1冊『関ヶ原はいかに語られたか』の資料編ともいえる1冊。コラムも9編。去年の映画も思い起こされる1冊。500頁超のボリューム。労作である。
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2018年12月24日

懐徳堂の天皇観を反映した和文小説

 むちゃくちゃ面白い。天野聡一さんが紹介する加藤景範の擬古物語(和文小説)『いつのよがたり』。いままでほとんど知られていない、懐徳堂の和学者が書いた写本の作り物語。でも実は、この物語の主人公の帝は、桜町天皇なのだ。しかも、ここに実際に起こった年貢増徴事件が組み込まれている。年貢の増加に困窮した農民は大挙して京都の公家方に押しかけ哀訴した。しかしこれは聞き入れられず、関与した人々は処罰される。ところが、物語では、帝が取りなし、年貢が減免されるというのだ。なんというアブナイ内容!
 なぜ桜町天皇なのか。景範は烏丸光栄を同じ歌の師系とする桜町天皇を近しく、かつ理想の君主に相応しい帝だと思っていたのだと。だがそれだけではなく、史実の桜町天皇がなしえなかった大学寮の再興・諡号天皇号の再興・御修法の変更(儀式における仏教的要素の排除)などが書き込まれているが、これは中井竹山の『草茅危言』などに見える懐徳堂の朝廷観・天皇観と重なっており、しかものちの光格天皇という君主を先見的に表出しているというのである。光格天皇は『草茅危言』を褒めていたという『野史』の言説もあり、和文小説研究からとんでもないデカい問題に展開しそうな勢いである。
 さて、この論文が収められているのが『近世和文小説の研究』(笠間書院、2018年12月)。和文小説というカテゴリーの位置づけは難しい。かつては読本成立と絡めて論じられており、近年は近世和文の流れで捉えられもする。天野さんは和文小説を国学者のつくる擬古物語と、和文の読本という両極のあり方を踏まえた上で、様々な角度から切り込んでゆく。総論である和文小説の概説と和文小説史に、これまでの彼の研究がまとめられている。まとめていただかないと、なかなか彼の構想は、見えにくかっただろう。
 五井蘭洲の『続落窪物語』についての考察。蘭洲が作者であることを考証するその手続きが徹底している。これが天野流である。そしてじわじわと、しかし決してすべることなく、大きな問題へと話を進めてゆく。もっと派手に書けそうなところも決して踊らない。あくまで冷静。これは人柄を反映しているのだろうか。
 あとがきにも書いているが、1年だけ学振特別研究員として私が受け入れたことがある。演習に参加してくれ、貴重な発言をしてくれたことを憶えている。しかも私の出身である九州に赴任した。あとがきで名前の出ている研究者は、私が知っている人ばかり。そういう意味でも繋がりを感じる本である。そういえば、次に開く科研研究会ではゲストとして発表していただく予定、楽しみになってきた。
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2018年12月23日

水田紀久先生追悼文集

 水田紀久先生追悼の特集が、先生を中心とする研究会、混沌会の雑誌『混沌』で特集されたことは既報したが、このたび「水田紀久先生を追悼する会」から、「水田紀久先生追悼文集」が上梓された。
 皆さんがよく書かれているのは、水田先生から賜ったお手紙・お葉書のことである。ともかく端正で美しい楷書、そして素早いご返事。それが震える字になることは、最後までなかった。この楷書に憧れて、これを真似されているとおっしゃる研究者の方もいる。著書をお送りしたらご返信にお歌を添えることもよくある。
 私の教え子で、雨森芳洲の漢詩を研究した康盛国君(現ソウル神学校)も、「水田先生からの手紙」と題して、先生の思い出を綴っている。私も聞いたことのないエピソードだった。
 「芳洲の漢詩は研究テーマにしないほうがいい、平凡だからね」と、初対面の時に言われたそうだ。康君は、「芳洲についてあれだけ調査された水田先生がそうおっしゃるなら、芳洲の漢詩に手をつけた人はいないと思っていいだろう。よしやってみよう」と、「おこがましくも、むしろ自信を得ていた」という。その2年後、『雨森芳洲の漢詩についての考察』という題の修士論文を書いて、それをお送りしたところ、讃辞と激励の手紙をいただいた、その喜びについて書いたものである。
 水田先生のお人柄と康君の誠実さ、そして康君の水田先生への尊敬が実によく伝わる文章で、感銘を受けた。
 
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2018年12月16日

絵入本ワークショップ記(明知大学校)

12月2日のエントリーに書いた、第11回絵入本ワークショップ、15日・16日の2日間、ソウルの明知大学校で、みっちり行われました。発表者が多く、初日の午前の部は2会場に別れました。私がこのワークショップで発表するのは、去年に次いで2回目ですが、学会と違って、運営がいい意味で融通が利いていて、臨機応変という印象を受けます。佐藤悟さんの献身的なご尽力によるものです。今回は韓国の日語日文学会との共同開催ということで、賑々しく行われました。

私はトップバッターの予定でしたが、指定討論者の先生が交通トラブルに巻き込まれて遅くなるということで、3番目になりました。発表は、『摂津名所図会』の人物風俗図を描いた丹羽桃溪の絵を全体的に考察し、名所案内・臥遊の書とされてきた『摂津名所図会』を、別角度から読み直してみる試みです。やや妄想的な仮説を提示したもので(それができるのがワークショップの良さだと思いますが)、指定討論者の先生をはじめとして、ご質問やご教示をたくさんいただき、また発表後も好意的なコメントをいろいろな方からいただき、もしかすると相手にされないかもと戦々恐々だった私にとってはとてもありがたかったです。とにかく、私がご教示を受けたいなと思っていた先生方がことごとく質問してくださった、という感じです。

私も今回は2回ほど質問しました。和歌絵本についての神作研一さんの発表と、忍びの装束についての吉丸雄哉さんの発表です。後者は私の学生のテーマと重なりますので、かなり熱心に聞きました。また、いま授業や読書会で読んでいる『絵本太閤記』の話題も1度ならず出てきて、これまた収穫でした。

今回のハイライトは延広眞治先生と佐藤悟さんの基調講演でしたが、延広先生のご講演は、かつて大阪大学に集中講義に来て下さった時の『奇妙図彙』のご解説をさらに進化させたもので、阪大の名前も出して下さり、とても嬉しかったです。佐藤悟さんのご講演は、ソウル大学に所蔵される、世界的な合巻コレクションについてのご紹介でした。私もソウル大の日本古典籍目録に参加して、合巻のカードを取るお手伝いをしたことがあったので、これまた懐かしく拝聴しました。

明知大学校の崔京国先生をはじめ、金美眞先生ほか韓国側のスタッフの素晴らしいおもてなしに感動・感謝の2日間でした。
そして、絵本に疎い私にとって、すべての発表が勉強になるもので、とりわけ2日目の草双紙をめぐる発表と質疑には感銘を受けました。発表は、文学史の定説に挑戦する刺激的なもの(松原哲子さんなど)もあり、またそれへの質疑が実に興味深く勉強になるのです。浅野秀剛先生など美術史研究者からの指摘に目から鱗という場面もありました。これは、ソウルまで来て、本当によかった。

ソウルは、実に久しぶりで、今回はとても寒かったですが、空気がとてもよく、ワークショップ前日には今はソウル神学大学校で教員となっている教え子に、ソウル歴史博物館を案内してもらい、美味しい韓料理をふるまってもらうなど、これもまた楽しい思い出となるでしょう。

2日目は懇親会途中で疲れが出まして、お先に失礼いたしました。みなさま、お疲れ様。カムスハムニダ。


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2018年12月06日

信州の本屋と出版

鈴木俊幸『信州の本屋と出版』(高美書店、2018年10月)。
ご紹介が遅れてしまったが、これは鈴木さんのフィールドとする信州・長野県の本屋と出版についての20数年にわたる調査研究の成果である。
江戸の本屋・出版といえば、三都(京・大坂・江戸)の他は、そんなに盛んじゃないよね、と思いがちだが、江戸の後期となると、地方都市にも、本屋がどんどん生まれ、書物が流通する。そのことを、信州を事例に明らかにしたのがこの本である。
 今に続く高美屋という本屋を中心に、残存する貴重な資料を読み込み、明治にかけての信州の出版状況を多数の図版を用いて鮮やかに描き出している。これぞ鈴木俊幸の仕事。しかし、これだけ学術的に高い水準の本を次から次へと、本当に敬服します。
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2018年12月05日

松野陽一先生のこと

松野陽一先生が亡くなられた。
30代のころ、松野先生が国文学研究資料館の文献資料部部長時代に、客員助教授として、呼んでいただいたことがある。
あの時は、小峯和明さんや、キャンベルさんも在籍していたころだった。
部長室には3時から4時ごろに、三々五々先生方が集まって、いろいろと座談をするならわしがあって、古書の話や研究の話をされていて、勉強になった。
中心には、いつも穏やかな笑顔の松野先生がいらっしゃった。それが今でも脳裏に浮かぶ。
松野先生は中世和歌がご専門ではあるが、近世和歌和文についても多くの業績があった。その集成が『東都武家雅文壇考』(臨川書店)である。
そこにも収められている和文の研究に導かれて、私も近世の和文を考えたことがある。岩波の『文学』で、中野三敏先生、上野洋三先生と近世歌文について鼎談されたものは、何度も繰り返し読んだものである。一度、山口にいらっしゃた時には、「ちょっとお会いできたらと思ったのですが」と留守電を残されていて、あー、しまった、もったいないことをと、在宅していなかったことを悔やんだこともあった。
先生は、国文学研究資料館始まって以来はじめての「生え抜き」の館長であった。つまり国文研の中から選ばれたはじめての館長であった。これは現在に至るまで、先生だけなのである。そして松野館長時代に、私もさんざんお世話になっている。
先生の館長時代、韓国での国文研の調査で、ご一緒したことがあり、たしか明洞のスタバだったかで、その時は食事のあとで、もう少人数になっていたと思うが、近世和歌の研究状況について、思いの外厳しいことを言ったりされたことも記憶にある。先生は私の師と、早稲田時代の同期だったと思う。それもあって、勝手に敬愛していた。
どうか安らかにお眠りください。






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2018年12月02日

絵入本ワークショップ in ソウル

今年の絵入本ワークショップは12月15日と16日に韓国ソウルで開かれる。
韓国日語日文学会との合同開催。
プログラムが固まったということで主催者から案内があった。

ソウルに行くことは10回目めくらいだが、最近は2011年だったかの、日本近世文学会高麗大大会以来久しぶりなので、大変楽しみである。
そして、発表者の多さよ。
もともと美術史と日本文学の学際的なワークショップだが、今回は加えて国際的、というわけである。
私は『摂津名所図会』で発表する。予稿集の原稿は送ったものの、パワーポイントの作成はこれからである。
むこうに行ってからでも少しは・・・と思っていたら、なんとトップバッターだった。
焦りますな。

韓国日語日文学会
2018年冬季国際学術大会
日時:2018年12月15日(土)11:30-18:00
   2018年12月16日(日)10:00-16:00
場所:明知大学
( ソウル市西大門区南加佐洞50-3 )
<国際シンポジウム>
日本文学と挿絵リテラシー
主催: 韓国日語日文学会 明知大学日語日文学科
共催: 日本絵入本学会, 国文学研究資料館, 東洋文庫, 一般社団法人 美術フォーラム21, 実践女子大学文芸資料研究所, フランス極東学院
∎古典文学3(絵入本ワークショップⅪ) 2018年12月15日(土)    
第 3 発表会場
座長 : 이준섭 (경북대)
11:30-12:00 受付
12:00-12:30
飯倉洋一(大阪大)
『摂津名所図会』における挿絵の役割
        討論:이현영(건국대) 司会:최태화(광운대)
12:30-13:00
高永珍(同志社大) 
「意馬心猿」図と『紀三井寺開基』の挿絵
−相違の要因としての演出と図様の展開−
        討論:김학순(고려대) 司会:최태화(광운대)
13:00-13:30
高杉志緒(釜山日本文化研究所)
斎藤秋圃の挿絵本について
  討論:康志賢(全南大) 司会:神林尚子(鶴見大)
13:30-14:00
개 회 식 개 회 사 :허영은(한국일어일문학회 회장)
축 사 :
사 회 :
14:00-15:30 국제심포지엄
주 제 : 일본문학과 삽화 리터러시 (日本文学と挿絵リテラシー)
강 연 : 延広眞治(東京大学), 佐藤悟(実践女子大学)
지정토론 :
사 회 :
15:30-16:00 休憩
                                  座長 : 구정호(중앙대)
16:00-16:30
洪晟準(檀国大)
知識伝達媒体としての挿絵
        討論:편용우(전주대) 司会:박희영(대진대)
16:30-17:00
神作研一(国文学研究資料館)
〈和歌絵本〉と絵入り歌書刊本
     討論:金裕千(祥明大) 司会:上野英子(実践女子大)
17:00-17:30
18:00- 懇親会
∎古典文学4(絵入本ワークショップⅪ)  2018年12月15日(土)
第 4 発表会場
    座長 : 황소연 (강원대)
11:30-12:00 受付
12:00-12:30
武藤純子(跡見学園女子大)
『絵本小倉錦』の出版経緯と特色−跡見学園女子大学図書館蔵本に注目して−
    討論:手島崇裕(慶煕大)司会:小林ふみ(法政大)
12:30-13:00
小笠原広安(駒澤大)
「蛇を咥える蛙」の図に関する一考察
  討論:斉藤歩(ソウル大) 司会:吉丸雄哉(三重大)
13:00-13:30
片龍雨(全州大)
歌舞伎における老いの描写
        討論:韓京子(慶煕大)
        司会:河合眞澄(大阪府立大学名誉教授)
13:30-14:00 개 회 식 개 회 사 :허영은(한국일어일문학회 회장)
축 사 :
사 회 :
14:00-15:30
국제심포지엄 주 제 : 일본문학과 삽화 리터러시 (日本文学と挿絵リテラシー)
강 연 : 延広眞治(東京大学), 佐藤悟(実践女子大学)
지정토론 :
사 회 :
15:30-16:00 休憩
16:00-16:30
金英珠(韓国外国語大)
視覚化から見る神話の生成と変容
討論:홍성목(울산대) 司会:木越俊介(国文学研究資料館)
16:30-17:00
井上泰至(防衛大)
絵入り本の「黄昏」−正岡子規の受容−
           討論:河野龍也(実践女子大)
           司会:木越俊介(国文学研究資料館)
17:00-17:30
18:00- 懇親会
∎ 古典文学5(絵入本ワークショップⅪ)  2018年12月16日(日)
第 1 発表会場
座長 :佐藤悟(実践女子大)
9:30-10:00 受付
10:00-10:30
金美眞(ソウル女子大)
ソウル大学図書館所蔵合巻の装丁-文政期以後の作品を中心に―
    討論:神林尚子(鶴見大)司会:片龍雨(全州大)
10:30-11:00
松原哲子(実践女子大)
草双紙試論−呼称・内容と時代との関係について−
    討論:康志賢(全南大) 司会:片龍雨(全州大)
11:00-11:30
神林尚子(鶴見大)
『〈お竹大日如来〉稚絵解』の成立とその背景
討論:金美眞(ソウル女子大) 司会:洪晟準(檀国大)
11:30-12:00
曽田めぐみ(東京国立博物館)
幕末期の合巻からみる摩耶夫人のイメージ−朝鮮仏画「釈迦誕生図」とのかかわりから−
    討論:류정훈(고려대) 司会:洪晟準(檀国大)
12:00-14:00 昼食
         座長 : 服部仁(同朋大)
14:00-14:30
康志賢(全南大)
三亭春馬作合巻『紫菜浅草土産』の書誌考−摺付表紙及び、板元文会堂山田屋佐助と錦重堂上州屋重蔵を中心に−
  討論:吉丸雄哉(三重大) 司会:松原哲子(実践女子大)
14:30-15:00 山本和明
(国文学研究資料館) 覆刻本版下について−草双紙を例に−
  討論:木元(大妻女子大) 司会:松原哲子(実践女子大)
15:00-15:30
吉丸雄哉(三重大)
絵入本にみる忍び装束の発生と定着
    討論:최태화(광운대) 司会:韓京子(慶煕大)
15:30-16:00
崔京国(明知大)
浅井了意『三綱行実図』の挿絵
 討論:斉藤歩(ソウル大)  司会:韓京子(慶煕大)
16:00- 懇親会
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2018年11月19日

妙法院宮真仁法親王とその周辺

11月22日、午後3時から、龍谷大学で講演をします。
光格天皇の兄である妙法院宮真仁法親王の文化圏について、特に小沢蘆庵との交流を軸にお話いたします。
龍谷大学で蘆庵の研究会をやってらっしゃるということで、それと関わりのあるお話をというご要請でしたが、その研究会の中に、私より詳しい方がたくさんいらっしゃるのですけどねえ。
授業の1コマでもあるらしく、学生さんたちと、そういう専門家の方々が混じって講演を聴かれるらしいのですが、正直申し上げて、これはやりにくいですよね。もちろん、学生を優先してしゃべりますからね。物足りないなどという苦情は受け付けませんよ。
すこし前に、東山七条の妙法院は特別拝観で一般公開しておりました。すぐ近くには、刀の展示をしている京博。妙法院は江戸時代以来、豊臣秀吉の遺宝を管理しているわけですが、たまたま秀吉関係資料の特別展示が行われていました。非常に興味深かったです。そういうわけで、秀吉関係ネタも少しだけやるつもりです。

下記

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