2021年11月03日

木越治さんから鼓舞される2冊の本

木越治さんが亡くなって3年半がたつ。しかし、木越さんの存在感は薄れないどころか、ますます大きくなっているのではないか。
「木越治さんをしのぶ」と最初投稿に題したが、実際は「木越治さんから鼓舞される」2冊の本だったので、そう書きかえた。
期せずしてか、期してか、私は知らないが、ほぼ同時期に、木越治さんの遺稿をベースにした本が2冊出たのである。

到着順に紹介する。まず木越俊介・丸井貴史編『ひとまずこれにて読み終わり』(2021年10月、文化資源社)。木越秀子さんと俊介さんからお送りいただいた。
瀟洒な文庫本のスタイルで、木越さんの多くのエッセイから編者が選び抜いたものだ。どれを読んでも木越さんらしく、文学と映画と音楽と人への愛情が感じられる。私だけかもしれないが、木越さんの文章、とくに常体の文章で「と思う」という言い方がよく出てくるように感じられる。これは感じられるだけかもしれない。ただ、この「と思う」というところに、木越さんの思いが非常に率直に語られている気がしている。「と思う」なんて、誰でも使うだろう、と言われそうだが、木越さんの「と思う」は何か強い。
そして木越さんのエッセイに感じられるのは若さである。膨大な読書量をほこるのに、衒学的なところがなく、いつも好奇心旺盛であり、若者に対して同じ目線で語るところがある。若者に対する敬意があり、「今の若い者は」的発想がない。それがすごいな、と思う。

そして今日届いたのが木越治・丸井貴史編『読まなければなにもはじまらない』(文学通信、2021年11月)。木越さんが書こうとして残された原稿の続きを丸井さんが書こうとしたが、それは不可能だと考え、丸井さんと同世代の研究者仲間、教育現場や社会で古典に関わり続けている人に声をかけ、「古典を読む」ことをテーマにした文章を集め、されに創作者たちとの座談会を付して、木越さんの遺志を継ぐ形を整えた。
結果として、本書は素晴らしい本になった。やはり若い人たちだけで作られているということが大きいのではないか。本書は一種の「古典文学への招待」本であるが、非常に爽やかで既視感のない仕上がりになっている。木越さんの遺した原稿の部分は「語り」から古典文学を読む実践を示したものだが、その中心テーマとなるはずだった近世文学の語りの解説が途中で絶えたままになった形であった。しかし、これだけでも非常にユニークな試みであった。すこし私的なことを言えば、一時春雨物語の語りについて論文を書いていた頃、木越さんにはとても重要な切り口だと、大分励まされた。木越さんは創作者に寄り添う人なので作者の語りの工夫に注目されるのだと思う。私はどちらかといえばその後読者側から作品を読む方向にシフトして行く。そこで「菊花の約」論争にいたったかと思うが、もう少し議論ができていればと惜しまれる。
さて、木越さんの遺志を継ぐ若い人たちの論考12編と、座談会。論考はいずれも、古典入門の授業を想定したような語り口になっている。つまりオムニバス授業の体裁である。ほとんどの方がよく知っている方なので、楽しく読み進められる。高松亮太さんは、最近出現した羽倉本も加えた春雨物語諸本論。なぜ春雨物語の本文は、同じ人物が書いているのに揺れ動いているのか、従来「推敲」という観点から考えられてきたが、本文を与える読者に応じて秋成は本文を変えたのではないかというのが私の仮説で、高松さんもその立場のようだ。孤立無援でなくなったことは大変嬉しい。いま学部で羽倉本を読んでいるが、学生は諸本の異同についてかなり興味を持ってきていて、深く考察された発表をする。意外にも古典入門の入り口になりうるんだな、とこのごろ思っているところである。現場の教員である加藤十握さんは冒頭「古典は本当に必要なのか」論争に触れる。古典教育について正面から論じた文章で、非常に参考になった。そして座談会は、オムニバス授業のスペシャル回か。なんだか頼もしくなった。
 その他の論考にひとつひとつ触れることはできないが、いずれも「読む」ことの可能性を示したものである。若者たちによる若者たちのための古典導入本、ありそうでなかった本が、木越治さんの遺稿から展開して成ったことに感慨を覚えたのである。




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2021年10月19日

連歌師の紀行とはそういうものなのだ

 ブログを何のために書いているかというと、ひとつには本や論文を紹介顕彰するためであるが、もうひとつは、私自身のための研究データベースという意味がある。自分に関心のあることを基本的に書いているので、検索することで、思い出せない論文を思い出したり、発想のヒントを得たりする。自分で、作っておけばいいではないかと思うかも知れないが、人に紹介するという前提だからこそ、ある程度きちんと書こうとするので、自分が読み返したときも、何のメモだっけこれ?ということがないのである。
 さて、必要があって島津忠夫著作集(第9巻)を読んでいたら、「旅と紀行文学」という講演録で、伊地知鐵男先生の『東路のつと』諸本研究に言及されていて、「いくつか終りの部分が違う諸本があることに着目し、その諸本を細かく調べ上げて、行く先々で世話になった人に与えるのに、そこだけ詳しく書いているのだ、連歌師の紀行というのはそういうものなのだ、ということを書かれているのを見て、私はたいへん納得しました」とある。これは私にとって、「おお!」という指摘で、今私が想定している近世中後期雅文の写本のあり方(おくる相手に合わせて文章をアレンジする)と同じなのである(最近見た「蒐められた古」でもそういうテキストがあったと記憶する)。連歌研究の人ならずとも、この伊地知先生のご研究のことはよく知られているのかもしれない。だがこのブログは半分は自分のために書いているので許されよ。そして情けないかな、この島津先生の講演録、一度読んだ記憶があるのだが、ここを読み過ごしていて記憶に残っていなかったのである。ありがたやありがたや。
 おっと、私の必要なことは、その先に書かれているのだった。論文ってこういう思わぬ収穫があったりすると嬉しいですよね。島津先生の論文だからだ、というのもありますが。
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2021年10月17日

近世文学・作者と様式に関する私見

 濱田啓介先生が、『近世小説・営為と様式に関する私見』を刊行されたのが1993年。この名著で先生は角川源義賞を受賞した。その時先生は63歳であられた。次いで『近世文学・伝達と様式に関する私見』を出されたのが2010年、80歳である。その後、『国文学概論』という、今日濱田先生以外には書けないだろう、とてつもなく分厚い日本文学通史を刊行されたのが2019年であった。これには度肝を抜かれた人も多かっただろう。しかし、驚くべきことに、「濱田先生は3冊めの近世文学の論文集を準備されている」と風の噂に伝わって来た。それが実現したのが、91歳で出された論文集『近世文学・作者と様式に関する私見』(2021年9月)なのである。なお、ここにあげたすべての本は京都大学学術出版会から刊行されている。
 本書の刊記は9月10日、その12日後、先生は逝去された。まさに濱田啓介学を論文集3冊、通史1冊(その他多くの注釈などのお仕事がある)として、集大成されて、往生を遂げられたのだ。見事というしかなく、感謝のことばも思い浮かばないほど感謝している。本書の「後記」には、「学界人として、論文集の刊行は不可欠の業務である」とあり、前2冊に収めなかった論文を後世のためにまとめようと思ったということが書かれている。
 濱田先生の学恩を受けた人は、数え切れないくらいだろう。先生の学問やお人柄については、それを語るに相応しい方が何人もいらっしゃる。私はただ、この本についての感想を述べることで、追悼の意を表したい。
 やはり名論文ばかりである。先生の御論文は、ある一作を論じるというものもないではないが、多くはすさまじい読書量と調査量による「遠読」的な読み方による知見をのべるものが多い。先生自身が気に入っていたタイトル名の「比較文学偏西風」を巻頭においておられるのはなんだか微笑ましい。スケールの大きい比較文学論である。また「秩序への回帰−許嫁婚姻譚を中心として−」は、読本の様式(枠組)をストーリー展開の類型から考えるものである。「〈愛想づかし〉概観」も膨大は調査の成果である。しかし、秩序への回帰とか愛想づかしをテーマに立てるというところが実は余人の真似できないところなのである。すさまじい調査量は、文学史の叙述にも反映する。「幕末読本の一傾向」や「吉文字屋の作者に関する研究」は何度も読み返したもので、これらの論文のお世話になった人は多いはずである。
 そして「外濠を埋めてかかれ」は、西鶴ワークショップを京都で開いたときに、全体講評をお願いした時の原稿化である。私がお願いした原稿で、『上方文藝研究』に寄稿していただいたものだけに、感慨深い。西鶴研究の指針を示されたものである。そのワークショップは京都近世小説研究会という研究会が拓いた物であったが、私がはじめてその研究会に出させていただいた2001年以来、濱田先生はほぼ毎回、出席されていた。濱田先生のいないこの研究会は私の中ではちょっと考えにくいものである。そこでどれだけのことを学ばせていただいただろう。先生の存在が本研究会の求心力になっていた。
 コロナ禍で、先生にお会いできないまま、お別れする日が来てしまったとはまことに残念でならない。いまはご冥福をお祈りするばかりである。
 
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2021年10月15日

詩文と経世

 山本嘉孝さんの『詩文と経世−幕府儒臣の十八世紀』(名古屋大学出版会)が刊行された。「詩文」と「経世」という言葉を書名に選んでいるのには、彼のこだわりがある。そもそも「漢詩文」という言葉は現代日本語の言葉である。当時の漢詩文は「詩文」と呼ばれていた。詩といえば、文といえば、漢字で書かれたものを指すのが前近代である。だが、近代になって新体詩が登場し、漢字かな交じり文が普通になることで、漢詩文とわざわざ「漢」を冠することになったというわけである。「経世」という言葉も、江戸時代に使われていたことばである。いまなら「治世」か。いずれにせよ、江戸時代の概念で江戸時代の詩文を把握していこうという志がこのタイトルにみられる(元となった博士論文ではこのタイトルではなかったようだ)。
 山本さんは書き下ろしの序論で述べている。中国の詩人はすなわち士大夫すなわち政治家・官僚である(あった)人々であった。しかし江戸時代の日本ではそうではない。渡辺浩によれば、格の低い芸能者の一種だった。平安時代の漢詩文研究が経世(経国)と漢詩文の関係が論ぜられるのはごく普通だが、江戸時代の漢詩は経世から離れた庶人の漢詩制作に関心が向いていたのは当然だった。漢詩文の根幹である経世ではなく、枝葉である技芸的側面が注目されてきたのである。しかし、枝葉を理解するためにはやはり根幹を知ることが肝要、江戸時代の政治の中枢である幕府の儒臣こそ、その根幹である。その儒臣の中でも、とくに江戸時代の中期である十八世紀の儒臣に注目する。真ん中を押さえることで前後も展望できるからである。かくして室鳩巣・新井白石・中村蘭林・柴野栗山らが、本書の中心に据えられる。
 本書では、従来比較的言及されることの少ない木門の儒者を重視する。脚光をあびる徂徠派とは違う木門の擬古的作詩の試行錯誤にあらためて注目し、祇園南海がとりあげられている。こうして、新視点による新しい漢詩文史の提言が、堅実な各論文の積み上げによって説得力をもってくる。
 最後の結語(これも書き下ろし)も読み応えがある。「経世」に注目したからこそ出てくる「朝野」という視座が提起される。木門の儒者の朝野の往来が指摘される。ちょっとまて!これは、まもなく出る予定のアナホリッシュ國文學の上田秋成特集で私が書いた「雅俗往来」概念とつながるし、大いに参考になる考え方だ。山本さんのいう「朝野」は「官民」とは微妙に違うが、「堂上と地下」という、どちらかというと歌壇や和文研究の世界でいわれる概念に近いのかもしれない。(ちなみに山本さんのいう「朝」とは幕府をさすが、「堂上」とは朝廷社会である)。だんだん自分のメモのようになってきたので、いったんここらあたりで筆をおいておこう。
 最後に、巻末の参考文献が圧巻だが、上手く使えば本書を窓口に、近世漢詩文をはじめ、近世文学のことがかなり勉強できると思う。それだけ信頼のおける本が並んでいる。
 十八世紀というのは、やはり中野学の流れである。拙編の『十八世紀の文学』(ぺりかん社)にも触れていただきありがとうございます。
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2021年10月10日

蒐められた古(いにしえ)

 さて、1年7ヶ月ぶりに東京。長らくできなかった資料調査を土曜午後、日曜午前で行い、なかなかの収穫があった。やはり、現物を調査するということで、ネットの画像データだけでは得られないものを得ることがあるが、今回もそれである。画像だけでは得られない情報とは、出納してもらってはじめて出てくる所蔵者のメモ(おおむね画像データでは省略されている)とか、紙質など。今回、私が土曜日に調査したある叢書の中の作品は、それだけ紙質が違っていたし、日曜日に調査したものは、旧蔵者の貴重なメモがあり、そのメモのおかげで重要なことに思い至った。調査自体久しぶりで、ただでさえ昂揚していたが、次々に「当たり」が出ると、目が覚めるというものである。
 そして、午後は、東京駅近くの丸善4階ギャラリーで行われている、慶應大学図書館所蔵貴重書展「蒐められた古(いにしえ)−江戸の日本学−」の展示へ。あらかじめ予約していた一戸渉さんのギャラリートークを聴きに行く。この展示、実は近世上方文壇における堂上と地下をつなぐキーパースンのひとり、橋本経亮旧蔵の書物や遺品の展示なのである。20人までと制限されていたが本当に20人くらいいた。中には、よく存じ上げている研究者の方も。
 さてこの展示、あらかじめ図録をざっと見ていたとはいえ、やはり現物とトークで格段に理解が深まった。一戸さんに感謝である。
 コーナーは「あつめる」「うつす」「しらべる」「えがく」「つくる」「つながる」「つかう」「つたえる」に分けられ、それぞれ、スゴイ目玉がひとつならずいくつもあるという贅沢な展示。いくつか1では、新出の自筆『橘窓自語』。これまで随筆大成で読んでいたが、異文があるということで、翻刻紹介がまたれる。2では、唐の許敬宗奉勅編の『文館詞林』の、佚文とされていた一部がこれでわかるというキツい写し。3ではまるで宝物だらけの「香果抜粋」。4では文晁えがく足利学校宣聖像など。6では経亮のために書いた蘆庵自筆の「ふりわけ髪」や蘆庵書簡、天明から秋成と経亮の交友を示す秋成の朱の添削。7では光格天皇の后となる欣子内親王の立后の儀式の敷物に使われた法隆寺の古い宝物のキレの写し。・・・あっ、自分の関心に引きつけて書いてしまいましたが、他にも満載。展示は12日までです。江戸の好古、尚古に興味のある方は、是非足をお運びください。駅の近くで交通至便。無料です。
 
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「テクスト遺産」という概念

 Edoardo Gerliniさんと河野貴美子さんの編による『古典は遺産か−日本におけるテクスト遺産の利用と再創造』(勉誠出版、2021年10月)が刊行された(もしかするとまだ書店には並んでないかもしれません)。
 ジェルリーニさんが提唱する、「テクスト遺産」という新しい研究視角。これは遺産研究(Heritage Studies)の考え方を参照にしつつも、従来「文化遺産」とは見做されていない文学作品をはじめとするテクストを文化遺産と位置づけることで、古典研究を学際的な研究対象とするとともに、「古典の危機」への打開策のヒントにする意味もありそうである。私は、この概念は有効であると今のところ思っていて、なぜくずし字教育が必要かを話す講演でも、使わせていただいた。しかし、今では定着している「間テクスト性」とか「カノン」のような概念も、当初「それって何?」「〜とどう違うの?」という反応があったように、「テクスト遺産」という概念も、既存の文学研究者たちに受け入れられるかどうかは、あと10年くらいたたないとわからないだろう。
 現に、ジェルリーニさんの趣旨に理解を示したと考えられるこの本の執筆者たちの「テクスト遺産」概念が、実はまちまちであることが本書巻末の「テクスト遺産とは何か」で示されている。そこには編者たちの依頼によって、各執筆者の考える「テクスト遺産」の定義が語られているのである。
 この事態は、「テクスト遺産」の理解の困難を示すとともに、「テクスト遺産」が議論すべき、可能性に満ちた概念であることを示すのではないか。本書の執筆者たちは、一筋縄ではいかない、研究の最前線を走る研究者たちであり、与えられた「テクスト遺産」という概念から、様々な問題系を引き出してきているのである。
 とはいえ、「テクスト遺産」概念はただの「おのころじま」のようなものではない。議論の叩き台としては、やはり冒頭のジェルリーニさんの緒論「なぜ「テクスト遺産」か」を挙げるべきであろう。あえていえば、古典研究者必読である。ここでは「テクスト遺産」という発想にいたる経緯として「遺産研究」の解説がまずなされ、「テクスト遺産」の概念の妥当性が主張される。そして「テクスト遺産」の好例として「古今伝授」が取り上げられている。「テクスト遺産」とは、単なるモノとしての資料や典籍ではなく、そこへの関わり、営みのプロセスそのものをいう。この切り口によって、「古今伝授」学が急に生き生きと動き出したと感じるのは私だけだろうか。テクスト遺産への関わりは、今だけではなく、過去においてもなされ続けていたから「テクスト遺産史」という構想も生まれるのである。
 さて、もはや各論に触れる余裕はないが、昨年7月に行われたオンラインワークショップの発表者に強力なゲストを加えた豪華な執筆陣は、さすがにこの新しい概念を縦横に活かして論述している。「所有性」「作者性」「真正性」の3本柱に、「テクスト遺産の広がり」を加えている。私もこの新しい概念で、江戸時代中期の読物に「作者」が明記されるようになることをからめて考えてみた(「近世中期における「テクスト遺産」と「作者」」)。
 最後になってしまいましたが、編者以外の執筆者は、佐々木孝浩、海野圭介、盛田帝子、兵藤裕己、高松寿夫、陣野英則、前田雅之、山本嘉孝、阿部龍一、Wdward KAMENS、荒木浩、Roberta STRIPPOLI、佐野真由子、林原行雄、稲賀繁美の各氏。https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101251

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2021年09月26日

デジタル文学地図国際研究集会覚え書き

昨日オンラインでおこなわれたデジタル文学地図プロジェクトの国際研究集会の覚え書き。ご多忙の中、40名ほどのご参加を得ました。
デジタル文学地図は、歌枕をマッピングし、それぞれの歌枕についての概要・特徴・連想を示し、古典文学テキストの用例で集積し、その底本としている国文研のオープンデータの画像にリンクをはり、またやはりオープンデータの名所絵にもリンクを張る総合的な名所WEB事典の役割をめざしています。歌枕の立項と、用例は日々追加していて、有用性は日々高まっていると思います。
今回は、このデジタル文学地図が、研究や教育にどう資するかの実践報告2本と、若い研究者による名所イメージ形成に関わる発表2本です。
デジタル文学地図は、着々と「拡張」を続けていて、歌枕の立項は75地点が準備されていて、八代集、伊勢物語、源氏物語、平家物語、奥の細道の用例が網羅され、現在は謡曲に力を入れています。今回は、杉本亘さんの能における「逢坂」についての発表から、和歌系と謡曲系で、異なるイメージ形成が行われていることが浮かび上がったことに興味を覚えました。また黄夢鴿さんの名所詩歌合についての発表を通して、中国と日本の名所の「組み合わせ」から、用例収集とは違う方法でのイメージ分析が行える可能性が示唆されました。ちなみに私は『雨月物語』「白峯」の冒頭や「浅茅が宿」の作中歌に出る「逢坂」についてデジタル文学地図を援用した考察を行いました。ハイデルベルク大学のアロカイさんは、文学地理学的方法からの作品アプローチの教育実践について報告されました。
フランコ・モレッティの提唱する「遠読」と日本の文献実証主義をうまく掛け合わせて、新しい方法による文学研究が生まれる期待も出てきましたし、教育への活用や、社会貢献まで、可能性が示されました。
とくに終了後の懇親会では、デジタル文学地図の今後へむけて、他のマッピングプロジェクトとのコラボの可能性や、「みんなで翻刻」方式によるクラウドソーシングの展望などについても意見交換ができました。だんだんと「使えるツール」になってきている実感を味わえました。
参加してくださった方々に感謝申し上げます。
このプロジェクトは今年度、ゲストをお招きしてのシンポジウムを予定しています。
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2021年09月13日

古典をトモダチにするには?(コテキリの会参加記)

 昨日オンラインで行われた第3回コテキリの会(古典教材の未来を切り拓く!研究会)には160名近くの方々が参加して盛況だった。現役の教員の方が多かったと思うが、発表はもちろん、質疑応答やグーグルフォームに寄せられた多数のコメントから、国語教員の皆さんの熱意を強く感じた。その概要は、コテキリの会代表の山田和人さんのまとめが委細を尽くしているので、そちらをご参照いただきたい。
 私なりの感想をここでは述べてゆく。正直、レベルの高さに驚いた。みなさんまぎれもないプロフェッショナルで、何度も唸った。ここでは仲島ひとみさんの基調講演にふれる。タイトルは「本当に必要なのかと言わせない古典」。「本当に必要なの?」と問うのは現役高校生という想定の講演と拝聴した。彼らにそれを言わせないためにはどうしたらいいのか。まず古典を教える/学ぶ意義として、コンテンツ・リテラシー・アイデンティティの3要素があり、それぞに肯定的立場、否定的立場があることを整理された。もっとも重要なのはリテラシーであるというご意見だと理解した。これは私も同意見である。「必要」「役に立つ」の観点から言えば、コンテンツもアイデンティティも客観的指標になりにくい。そしてなぜ「古典は本当に必要か?」と問われるのかといえば、「役に立つ」とも「面白い」とも実感できないからとされ、前者は外発的、後者は内発的な問題と整理された。これもその通りだと納得した。講演、そしてそのあとの3つの実践報告でも、内発的な問題について主に報告・提案・議論されていたように思う。仲島さんは、どんな授業がいいのかという問いに対して、3つの心理的ニーズを満たすことだという。ひとつは「できる」感。ひとつは自分で決める(選ぶ)という動機付け。ひとつは誰かと繋がるという関係性である。提案された具体的方法は、
〇助動詞などの活用表を参照しながら読むことでハードルを下げる。
〇本物(原本・くずし字)をみる。(解読のためのアプリも利用)
〇読みやすいものを読む。(むしろ近い時代から)
〇全文音読チャレンジ
〇翻訳・翻案チャレンジ
〇「推し」をつくる。推し作品、推し作者、推し歌人、推しキャラ、推し単語、推し助動詞・・・
 非常に理論的で説得力のある講演であった。
 第二部、三宅宏幸さんは授業に使えるデータベース。淡々と、でもとてもわかりやすく、具体的な実践例を示しながらの解説だった。
 第三部は、こてとも意見交換会「古典をトモダチにするには?」と題して、有田祐輔さん、岩崎彩香さん、江口啓子さんの現役教員の報告と、同志社大学でくずし字を教えるプロジェクト授業を履修している学生さんの発表であった。どういう学生を対象に、何を目的に授業をデザインするか、そのきめ細かさをみなさんお持ちであった。オタク語りを自称する江口さんの「面白さ」を伝えるんじゃなくて、「面白いと思う人がいる」ことを伝える。「好きなことを隠さない」という金言?が印象に残った。
 それにしてもコロナのために、ICT授業技術が一気に進んだ。古典的な黒板授業は、方法のひとつとしてはもちろん残るが、ベースではもはやないのだと実感する。我々が習った古典の授業とはまったく違う授業が、そこには展開されていたのである。
 今回はどちらかというと、「古典に親しむ」また「古典は面白い」ことを伝える工夫についての議論だった。現役高校生は、嫌いであろうが、面白くなかろうが、授業で実際に読んでいる人たちである。まずは彼らが、「読むのは楽しい」と思うのが第1歩である。そういう意味で、このような草の根運動は重要だし、ネットを活用して、徐々にでも広げて行けたら、コテキリの会の目標のひとつはかなえられることになる。古典の授業について語り合うプラットフォームとしての役割をコテキリの会が提供するという形が、今回かなり明瞭になってきたのではないか。

 もちろん、課題は残る。私は会のあとで、発表者の皆さんに意地悪な質問をした。「生徒は古典が好きになってよく勉強するようになった。ところが、その親御さんが保護者面談で、『子どもにはもっと英語など受験や将来に大事な科目を勉強してほしいのに、古典ばっかりやっているようです。先生、楽しいだけで今の社会に役に立たない古典ってそんなに勉強する必要ありますか?』と突っ込まれたら、どう回答しますか?と。これは「こてほん論争」に戻ってしまう論点でもあるのだが、あとでフォームに寄せられた中にも、いくつか同様のことを書き込んている意見があった。この点は、高校の先生ではなく、むしろ大学教員が考えていかねばならない課題なのであろう。
 
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2021年09月09日

デジタル文学地図国際研究集会のお知らせ(2021年9月25日)

国際研究集会のお知らせです。

国際研究集会「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」
 主催 2021年度大阪大学文学研究科国際共同研究力推進プログラム
「デジタル文学地図の構築と日本文化研究・教育への貢献」(代表者:飯倉洋一)
科研基盤研究(B)
「デジタル文学地図の構築と日本古典文学研究・古典教育への展開」(代表者:飯倉洋一)

日時9月25日(土) 15:00〜18:00
場所 Zoomによるオンライン

第T部 基調報告
1デジタル文学地図の研究への活用−『雨月物語』を例に 飯倉洋一(大阪大学)
2デジタル文学地図を利用した文学史教育の提案 ユディット・アロカイ(ハイデルベルク大学)
                    
第U部 研究発表    
1 『和漢名所詩歌合』における名所  黄夢鴿 (大阪大学大学院)
2 能の中の逢坂 杉本亘(大阪大学大学院)

参加申し込みはこちらからお願いします。また下記のチラシをご参照ください。(チラシのQRコードからも参加申し込みが出来ます)チラシには各報告・発表の要旨も掲載されています。
2021.09.25 研究集会案内(最終版)_page-0001.jpg2021.09.25 研究集会案内(最終版)_page-0002.jpg

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2021年09月06日

コロナとコロリ

 日比嘉高氏編『疫病と日本文学』(三弥井書店、2021年7月)は、名古屋大学国語国文学会のシンポジウム企画「疫病と日本文学」を元に、同会メンバーが論考をさらに寄せて成った論文集である。国文学研究資料館前館長のロバート・キャンベルさん編『日本文学と感染症』(角川ソフィア文庫、2021年3月)という国文研スタッフ中心で編まれた文庫オリジナル論文集もあった。この2年、急速に文学研究が「病」と向き合った。人間が過去、病にどう向き合ったのか、を知るには、記録(日記)と文学作品を読むことである。これまで日本文学研究は、「病」というテーマで縦断的に議論したことはあまりなかったわけだが、よく考えると、病は生きている者が、ほぼ必ず遭遇するものだ。それもほとんどの場合前触れもなく、急速に。自分だけではなく、家族や恋人の病も同じである。作者自身が病に苦しんでいる場合も少なくないし、医者の立場から書いているものもある。ちなみに上田秋成は、一生病に苦しみつづけ、病を描き、そして病を治療する医者でもあった。私は6月に、機会を得てその話をしたが、その時の講座のテーマも「病との対峙」だった。
 人にとって病は外から来るのか、中から生じるのか、というのも考えれば考えるほど謎である。新型コロナのような感染症は「外から」ウィルスが入ってくるのものだが、それを恐れる心、感染者への差別、病の拡散で起こる社会不安は、外から来るものとは言えない。過去の人間の心の動きを研究する学問ともいえる日本文学研究は、今こそ「病」と向き合う時を迎えているのである。
 さて、前置きが長くなったが、この本の編者の「はじめに」の最初に紹介されているのが、幕末のコレラの話を書き付けた見聞記録。本書の執筆者のひとり塩村耕さんが、例によって西尾市岩瀬文庫から見つけ出してきた珍書奇書のひとつ、『後昔安全録』である。タイトルは「コロナとコロリ」。コロリはコレラのことである。塩村さんはこの記録を「ルポルタージュ文学」と呼ぶ。おそらくほぼ虚構はない。しかしまぎれもなく「文学」なのだ。まさに、抜き書きされたところを少し読むだけで、十分にその呼び方がふさわしいことがわかる。塩村さんは、急遽大学の授業のテキストをこの本に代えて学生とともに読んだらしいが、古人を身近に感じることのできる絶好のタイミングでの予定変更だっただろう。学生はここから何を感じ取ったのか、それも聴いてみたい。さてこの本の著者は号「真木廼屋」ということしかわからないのだが、塩村さんは記録からわかる事実を手がかりに、どこの誰が作者なのかを特定していく。この考証の過程、事実が少しずつ埋められて、ジグソーパズルのように一人の人物が浮かび上がっていく叙述は、いつもながらエクセレントである。
 それにしても名古屋大学国語国文学会の取り組みは素晴らしい。毎回持ち回りでテーマ設定をし、シンポジウムを企画するのだという。さらに多くの論考を会員からあつめ、短期間で刊行するチームワークに感心した。今回は、現在の同僚である尹芷汐さんもコラムを寄稿している。
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2021年09月04日

『万葉集に出会う』

 学部生のころに受けた演習というのは記憶に残る。今井源衛先生の源氏物語、中野三敏先生の西鶴、洒落本。奥村三雄先生の平曲。そして、いちばん怖かったのが、非常勤でお見えだった鶴久先生の万葉集だ。国歌大観番号とともに万葉歌をほぼ暗記していらっしゃって、我々の訓について、その手続きの不備を徹底的に追及される。2年間受講したが、その緊張感はいまでも甦る。鶴先生はよく佐竹昭広先生の名前を出していらっしゃった。その佐竹先生の学統に連なる大谷雅夫さんが『万葉集に出会う』(岩波新書、2021年8月)を上梓された。岩波の新大系、そして岩波文庫の『万葉集』を担当されての知見の一部を、分かりやすくスリリングに説いたものだが、内容はきわめて学術的。全6章のうち最初の4章は、いずれも定説的な訓に対する疑義や定説の定まらない歌の解釈をめぐる考察である。そう読まれてきた研究史や背景を丁寧に説き、大谷さん自身の読みを披露する。以下「ネタバレ注意」。
 第1章、「石走垂水の上のさわらびの」の「石走」は「いはばしる」と訓むのか、「いはそそぐ」と訓むのか。これに関して賀茂真淵の完璧(に見える)論証を紹介、なるほど「いはばしる」なんだ、と思わせておいて、「いはそそぐ」が正しいという大逆転。第2章、私の好きな、そして秋成がこだわった人麻呂の近江荒歌歌(長歌)を紹介、その反歌「楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ」。これは港が大宮人を待っているのか、人麻呂が待っているのか。契沖は港。春満や真淵は人麻呂。ここでもなるほど人麻呂かな、と思わせておいて逆転。第3章「苦しくも降り来る雨か三輪の崎佐渡の渡りに家あらなくに」。これも秋成が雨月物語の「蛇性の婬」に取り込んだ歌。この場合「家」が昭和四十六年の日本古典文学全集以後、「家人」の意味で解釈されてきたと。さてこれはどういう結論だろう?そして第4章は、「ひむがしの野にがぎろひの立つみへてかへり見すれば月かたぶきぬ」の名歌。この訓は知られるように真淵の創見であり、真淵以来、ずっとそう訓まれてきた歌である。真淵の訓がいかに凄いかということを説いてゆくのだが、例によって大逆転・・・。ところでこの歌は白石良夫さんの『古語の謎』(中公新書)でも冒頭に取り上げられて、真淵訓への疑義を論じていたことが思い出される。問題にするところは違うのであるが、この真淵の訓がいかに人麻呂歌のイメージを鮮やかに作り、甚大な影響を与えたかがよくわかる。実はそう読まないという大谷さんや白石さんの説に従うならば、真淵の訓は、ひとつの「テクスト遺産」だな、と思う。「テクスト遺産」については前のエントリーをご参照下さい。
 第5章と第6章はこれまであまり紹介されていない万葉集の歌について述べていく。
 というわけで、斎藤茂吉の『万葉秀歌』のような秀歌鑑賞タイプの本ではない。あえていえば万葉学の面白さを知らしめる新書だといえよう。このところ、このタイプの新書が増えてきている印象である。読者の目が肥えてきたのかもしれない。万葉学の歴史で真淵の存在は偉大だが、大谷さんは契沖を愛しているように思える。私個人の感想をいえば、契沖で古学に目覚め、真淵の孫弟子であった秋成の万葉学を考える際に、大いに参考にしたいと思った。
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2021年08月28日

学会記(EAJS2021オンライン)

昨年コロナのために1年延期されたEAJS(ヨーロッパ日本研究協会)国際会議inベルギー、残念ながらコロナが長引いているので延期後もオンラインで行われました。今回は、エドアルド・ジェルリーニさんのお誘いで、「文学遺産の再利用と再創造」というテーマでパネリストの一人としてプレゼンしました。AAS in Asia以来、2回目の国際会議発表ですが、前回と違ってお知り合いの方の参加が多く、この点かなり気持ちが楽だったのですが、ヨーロッパを中心に日本研究だけで1200人も参加する5日間にわたる国際会議で、同じ時間帯に10以上のパネルがあり、タイムテーブルを組むのも大変でした。我々のパネルは最終日だったので、みなさんの発表や質疑応答も大いに参考になりました。また、予想以上に日本語の発表・質疑応答が多かったのも安心しました。私自身は、例によっての無謀なチャレンジ志向で、プレゼンのみは英語でやり、質疑応答は訳してもらうということにしました。蓋を開けてみたら、案外みなさん日本語で発表質疑されていて、ちょいと拍子抜け、我々のセッションでも発表者の中で私だけが英語ということになってしまって「えええ!」と思ったのですが、しかたありません。当初、機械翻訳を頼りに自分で作った英文を校閲業者に出そうかと思っていましたが、どうにかなるんじゃないかと不敵な気分になって、原稿をセッションメンバーに見てもらったところ、いくつか修正をいただき、それを元に少しまたブラッシュアップしたものをそのまま原稿としました。ただ読み原稿を聞き取ってもらえない可能性を考え、パワポに分割して、全文を載せました。おおむね1枚1分で読むくらいにしました。まあ、読み原稿をそのままパワポに載せている人というのは今まで私もみたことないのですが、背に腹は代えられません。
さて、いくつかのセッションを視聴、国内学会と違って、新しい研究概念・方法の提唱がなされたり、領域横断的・本質的な議論が交わされたり、国際会議らしさを味わうことができました。また女性だけのパネルが結構あるのも、ヨーロッパの学会らしいですね。日本じゃあんまり考えられません。
コーヒーブレイクの時のネットワーク懇親会的な集まりに参加する方法がいまいちわからなく(一度はいってもると知り合いが誰もいなかったり)、また人もそんなに来ていなかったので、新たな人との出会いという点ではやはりオンラインの限界があったかなと思います。馴れればまた違うのでしょうが。
 私たちのセッションはジェルリーニさんが趣旨説明のあと、荒木浩さんが、考古学の成果を取り入れたり、羅生門のような建築物がテキストによって作為されたり、遺産化する例など、スケールの大きいテクスト遺産論を展開、ついで私が、源氏物語への言及自体を虚構の中に取り入れる学説寓言の文学遺産性について、盛田帝子さんが、光格天皇が源氏物語の花の宴の場面取りというべき宮廷復興を行った事例を発表、ディスカサントのレベッカ・クレメンツさんが、文学遺産というタームを使う意味、それをオーディエンスにどう見せるのかというような質問を投げ、活発な議論が交わされました。参加者も46名と多く、感謝感謝です。私のようなロートルでも、初々しい気持ちで爽やかな気持ちで国際会議を終えることができました。
 それにしても国際会議は、それに参加するための手続きや、連絡が全部英語で来るので、これを読むのに鍛えられますね。機械翻訳にかけるだけでも結構勉強になるのです。そして今回のオンラインシステム、使いこなせば相当いろいろなことが出来そうでした。とくに疑似コーヒーブレイクシステム、よく出来ていました。
 あまり、具体性も面白みもない報告ですが、学会参加記は習いなので書きました。少しでも何かの参考になれば幸いです。
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2021年08月14日

私説・昭和の国文学者・続

 長坂成行氏の『私説・昭和の国文学者・続』(私家版、2021年6月)については、元同僚の滝川幸司さんや、川平敏文さんのSNSでの評があり、読みたくてたまらなかった。とはいえ私家版であり、面識もないので、諦めていた・・・。ところが、井口洋先生のご仲介により、著者から御本をご恵送していただくことができた。
 長坂氏は、国文学者の、なんらかのお祝いや追悼などの記念文集、いわゆる饅頭本をこよなく愛し、あつめられてきた。それを100ほど選び、適宜要約して、ご自身の感想などを挟まれている。これが抜群のバランスで、無類に面白い。
 すでに2012年に正編を同じく私家版で刊行されている。そして、おそらく、その後も、饅頭本を集め続け、興味を持たれたところを、抜き書きされたメモを書きためてこられたのだろう。
 たとえば、中野三敏先生の項目では、中野先生著の『師恩』と傘寿記念の『雅俗小径』が取り上げられている。前者は中野先生が見た近世文学者や古本屋のご主人のエピソードや評、後者は中野門下生の中野先生の思い出である。この項目だけでA5判2段組で15頁にわたる。私の文章も取り上げられているのだが、こういう風に書かれている。
 教養部一留(こんなこと書くな、と言われそうだが同じ体験ある者としてゆるされたい)、もともと西洋ドイツ史志望、親鸞・梅原猛を読み国文に転向、仏教文学研究を希望・・(下略)
 つまり、この私の傘寿祝の文章から、私の情報を抜き出し、コメントまでつけて下さっているのだ(ちなみにこの一留時代は、私の宝なので、こんなこと書くなどころか、書いていただいて嬉しいのである!)。こういうのが至る所にあり、ものすごく重層的な人物資料になっている。それと関わるのが、索引で、対象となっている国文学者だけではなく、文章を書いた側の人や、文章中に出てくる人の名前まで索引に網羅されているようなのだ。だから、へー、この人はこの先生とこういう繋がりあったのね、と、自分の関心のある研究者から辿ることも出来る仕組みである。
 そして、このお祝い文や追悼文だけではなく、それを特集した雑誌のあとがきなども引いていて、痒いところに手が届く感じである。論文とちがって、人柄や文章力まで浮かび上がる。あらためて中野先生の人物評はすごく面白いことを再認識する。個人的には益田勝実の項目に載せられた加藤昌嘉さんの「編集後記」の文章にうなる。これは長坂氏も「共感」したと書いて異例の長い引用をしているが、加藤昌嘉さんの天才的な文章力が垣間見えるもので、感銘を受けた。
 そして、長坂氏のコメントがまた、ほどよいスパイスになっている。これも名人芸と称してよさそうだ。
 しばし没入して読み耽っってしまった。滝川さんが「旱天の慈雨に等しい贈り物」と称したのも、むべなるかな、である。(今は逆か、長雨の隙間の陽射し?)
 
 
 
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2021年08月10日

柿衞文庫が東京で展示会

俳諧コレクションで名高い柿衞文庫(伊丹市、現在休館中)が、東京永青文庫で展覧会を開催いたします。10月2日〜12月5日。テーマは「芭蕉−不易と流行と」。芭蕉の名品を一堂に公開します。東京での展示はめったにありませんので、東京とその周辺で柿衞文庫所蔵の芭蕉資料にご興味のあるかた、是非ごらんください。
ちなみに10月14日には記念講演会が永青文庫の近くの和敬塾で行われます、鼎談「不易流行」(川上宗雪氏+金田一秀穂氏+坪内稔典氏)、そして11月7日には関連講座として、「対談:柿衞文庫の名品について」(尾崎千佳氏+辻村尚子氏)が行われます。柿衞のコレクションに興味のある方は、この中堅お二人の対談はお勧めです。山口大学の尾崎さんは今や宗因研究の第一人者。辻村さんは今年3月まで柿衞文庫の学芸員でした(現在は大手前大学)。対談の会場は早稲田大学国際会議場第2会議室です。
詳細は、こちら
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2021年08月01日

アーリーモダン文学(続)−染谷智幸さんのコメントを受けて

『研究と評論』100号の中嶋隆さん「近代初期(近世)文学史論序説」について感想を書いていたところ、染谷智幸さんからコメントをいただいた。ところが、そのコメントが他の記事についていたこともあり、あまり皆さんの目に触れないのではないかと思い、新たに投稿をすることにした。

まず、染谷さんのコメントをここに再掲する。
>「日本近世文学の研究者で、近世を「近代初期」(アーリーモダン)と称した人は、これまでいなかった」。確かに、それほど居たとは私も思わないのですが、拙論「日本「文」学に近世化をもたらしたもの−経済の与えた影響を中心に」(河野貴美子他篇『日本「文」学史(第三巻)−「文」から「文学」へ―東アジアの文学を見直す』勉誠出版、2019年)にそうした視点から少し書きました。これは、オレも書いとるよ、ということではなくて、大切で面白い問題なので、いずれ関心をお持ちの方々と議論してみたいなぁと。そんな気持ちから、ちょっと割り込んだ次第です。で実は、中嶋さんのご高論、まだ読んでないので、これもいずれ近いうちに拝読して、中嶋さんに直接感想などをお話ししても良いかと考えているところです(WEB日韓古典研究会でお会いしますので)。江戸は近代、は歴史学者からよく聞く話ですが、文学でも大いに議論したいところです。ちなみに、江戸初期が近代というのは、そのまま中世末ということと矛盾しません。閑山子さんのお話も、ぜひ拝聴したいです。
(以上、再掲おわり)

大変失礼しました、とここでお詫びしたい。もっとも「これまでいなかったのではないか」と一応断定はしてなかったのでちょっと安心(笑)。
ただ、染谷さんは「日本近世文学の研究者」というよりは、「東アジア文学研究者」と言った方がよいので、「アーリーモダン」という言葉を使っていても、「さもありなん」と思うばかりである。
それは、さておいて、染谷さんの「日本「文」学に近世化をもたらしたもの−経済の与えた影響を中心に」を見てみよう。中嶋さんとは少し視点が異なると思うが、「経済」を重視している点では共通している。ものすごく大昔に、唯物論的立場から西鶴は資本主義社会を描いた先駆けというような論があったり、もう30年位前だろうか、経済学者の岩井克人さんが貨幣論の立場から『日本永代蔵』を論じて話題になったこともあって、そういう議論に若干ついていけなかったのだが、染谷さんのアーリーモダン論は、西洋の近代小説の登場と江戸の近世文学の登場を比較して、どちらも中世の宗教的権威の退場に変わって、人生いかにいきるべきかを、提示するテキストとして現れたという見方をしていて、非常に斬新であった。これにはまず、西洋近代小説を芸術至上主義的なものではなくて、実用教訓的なものとして捉える見方が前提となっている。学部生のころ、私も岩波講座文学の各論は結構読んでいたが、染谷さん引用の桑原武夫がそういう見方をしていたんですね。このあたり、今の西洋文学の専門家の見方はどうなんでしょう?
まさに「従来の近世文学研究において、近世文学の実用性や教訓性について指摘する論考は夥しくある。しかし、その教訓性の意味が、同時期の西欧近代小説の教訓性と比較・検討されたことはほとんどない。しかし、西欧の近代小説が、教会すなわちキリスト教という巨大な宗教的権威が、歴史の表舞台から退場し、それち入れ違いで出てきたことを考えれば、日本近世文学の実用・教訓性も、中世の仏教や神道を始めとする巨大な宗教的権威が崩壊・変容してゆく中で、それと入れ違いに出てきて、人々の「いかに生くべきか」を支えたと考えてみる蓋然性は十分にあるのである」
と。
 そうした近世文学の教訓性・実用性は、仏教や儒教の言説が再編成されて取り込まれていたりする・・・と染谷さんの論は展開しているようだが、それは中嶋さんの「近世文化は中世文化のメディアによる再編成」論と通じるものがある。また、なぜそのような儒教・仏教文化の再編成(日本的受容)が可能になったのかということでは、「中心・周辺・亜周辺」の概念を使って、日本が亜周辺だったから(ちなみに朝鮮は「周辺」)と説く。このあたりは不勉強にして論の妥当性がわからないが、ともかく、中嶋さんに劣らぬスケールの大きな議論である。

 粗雑な紹介で申し訳ないが、染谷さんのコメントへのお礼として書いた次第です。染谷さんの論は2年前のもので、今頃申し訳ありません。で、この議論、大切かつ面白いので、どなたかに是非シンポジウムなど企画していただきたいと思います。



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