2026年04月24日

和歌と権力

前田雅之氏の『和歌と権力ー後嵯峨院時代と勅撰集の政治力学』(中公選書、2026年4月)が刊行された。氏のかねてからの持説である「古典的公共圏」の成立を後嵯峨院朝と見立てた和歌力学的政治史であり、政治力学的和歌史でもある。一面では勅撰和歌集史でもあろう。序章から引用すると、「本書は、その和歌が作り出す権力といった視点に立ち、鎌倉から室町期にかけての政治状況とともに、その核をなした古典的公共圏と平和のあり方、ファウンダーとしての後嵯峨院を見ていく。続いて、後嵯峨院が残した二つのシステムのその後の展開に改めてメスを入れ」ると。
後嵯峨院ーそんなによく聞く名前ではない。しかし前田氏に言わせれば、日本史上きわめて重要な人物なのである。「鎌倉の平和」を実現し、「古典的公共圏」を確立したという意味で。
「古典的公共圏」の中心にあるテキストが古今和歌集・伊勢物語・源氏物語・和漢朗詠集の四大古典であることは、氏のこれまでの著書で理解していたが、今回私なりに理解が進んだのが、「古典的公共圏」の歴史学的位置づけである。
 鎌倉期の権力システムは、院・天皇を頂き、その下に武家(幕府)・公家(朝廷)・寺家(寺社)の諸権門が並列する構造となっていた。中世史家の黒田俊雄は、これを「権門体制」と命名し、諸権門が相互に対立牽制しながらも補完して院・天皇を頂点に置く国家を形成したと考えた。これらの諸権門は高貴な血統で繋がっていた。しかし前田氏に言わせると、黒田の権門体制論には、文芸・文化面が等閑視されている。文化レベルを黒田モデルに包摂し、黒田のいう権門体制を「公」秩序として捉えると、こうした「公」秩序構成員間を、自らの所属する権門を超えて繋いでいくもの、それが古典的公共圏である。題詠・本歌取りの和歌を、古典を踏まえて詠む能力を有している人々によって構成された古典的公共圏は、身分も超える。武家でも僧侶でもそのような教養があれば参加できる。
 古典的公共圏が成立したのが後嵯峨院朝である。『続後撰集』撰集のために『宝治百首』という全四千首の壮大な応制百首を実現する。この応制百首という制度が反復されて、勅撰集は撰集されていくという。確かにこのシステムの達成は重要だろう。そしてこの勅撰集は、「無為無難」で月並な歌を集めていた。それこそが、和歌の伝統を作ったのである。いやなるほど。月並だからこそ、長続きし、その伝統は強固なものとなっていくのである。後嵯峨院の時代に生まれた説話集の『十訓抄』や『古今著聞集』が『古今集』を意識した、いわばパロディであることも、古典的公共圏の確立を裏付けるもの。たしかに『古今著聞集』は書名からして、また二十巻というところも『古今和歌集』が前提である。
 やがて勅撰集の意味は王権の根拠になるくらいに大きくなる。それが後嵯峨院以後の流れである。叙述は近世まで続くが、一定の説得力を持っている。近世になると勅撰和歌集は編纂されない(しようとしても幕府の権力が強ければそう簡単にはいかない)が、それは朝廷権力の弱体化とパラレルなのだろう。光格天皇が歌壇形成と歌会に異様なまでに力を注ぐのは、朝廷権力の復権を目指しているとも言える。江戸時代における「古典的公共圏」のあり方は、前田氏も述べてはいるが、さらなる検討が必要であろう。
 実は私は、近世中後期における「雅俗往来」や「空間的雅俗論」を唱えたことがあり、その際に、前田氏の「古典的公共圏」の考え方を援用していた。「古典的公共圏」は、近世における「雅俗」の「雅」に類似するのである。しかし、本来の意義からいうと、私の援用は適切でなかったかもしれない。自分でよく考えてみたい。おそらく出版によって「古典的公共圏」は身分を超えて広がりつつ、変異し、国学を生む。私の見立てでは、国学は「古典的公共圏」に位置しない。だから、そこに近づこうとする。その逆の現象も起こる。これを近世的に言えば雅俗往来ということになるというのが、私のかつての論であったのだが。HF2tWbHasAYAr-b.jpeg
 
 



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