中森康之さんが、芭蕉の本質を追究する論文を立て続けに2本発表した。
「『おくのほそ道』の本質」(『本質学研究』第18号、本質学研究会、2026年2月)と、「芭蕉が求めたるところー西行、空海、宇宙の真理」(『国語と国文学』、2026年5月号)である。ともに、近世文学研究の論文としては、とてつもなくスケールの大きい哲学的な論文である。もともと中森さんの志向は、哲学にあるのだろう。学会の主潮に流されず、巻き込まれず、自分の追究してきたいものを追究してきた。ただし学会もそれを排除しなかった、その懐の深さについても付け加えることを忘れてはいない。「本質学研究」では、文字通り『おくのほそ道』の本質を解明しようとする。去来が、奥の細道の旅で、蕉門の俳諧は一変した、といっているが、それは一体なにか?これまでの研究では、「文学としての作風」の革新と捉えていた。中森さんが提起しているのは、「そんなちっちゃい話じゃない!もっと深く、広く、根源的な話なんだ」ってことだ。堀信夫と竹下数馬だけがそれに気づいていたという。芭蕉俳諧の革新を理解した支考は、奥の細道のあと、芭蕉の確立した新しい表現原理を「芭蕉流」と名付ける。それは@まず心を理想的忘我状態に置く、A外界からの刺激に反応して意識が動く、Bその意識を言い留める(言葉の到来を待つ)というものである。その表現原理の確立には、荘子の影響がある。そこを丁寧に「論証」していく。「奥の細道」の「奥」とは、時空を超えた不可視・不可知な〈どこか〉であるという、寺島恒世の歌語としての「奥」の考察を援用しつつ、このように結論づける。「宇宙の真理、その地の記憶、古人の魂が、時空を超えた自己の根源的記憶として溶け合っている領域(まこと)へと至る細き一筋の道が、「おくのほそ道」という「俳諧の道」なのである」と。本質論になると、それはどうしても宗教的になる。私は最近、ハルオ・シラネ氏に「歌枕」についてインタビューをしたことがあり(まもなく刊行される『日本文学』5月号に掲載予定)、シラネ氏は、歌枕と古人の霊との繋がりを重視される発言をされていた。歌枕探訪とは古人の霊をたずねる旅なのだと。中森氏の説も、それと繋がると思ったのである。なお、『本質学研究』はWEB公開されていて、こちらから読めるので、興味のある方は是非、中森さんの論理の跡をたどっていただきたい。
『国語と国文学』は、上記を補完するものであるが、問題意識としては、「許六離別の詞」にある、有名な「古人の跡をもとめず、古人の求たる所をもとめよ」と空海の言葉を引いてなされる主張について、「芭蕉が求めたるところ」は何なのかというものである。ここでは、山折哲雄・宇都木言行の説が援用されている。そして空海の存在。西行において空海の存在が重要であったこと、芭蕉は〈西行の空海体験〉を自身西行をモデルに追体験しようとしているということらしい(私の解釈は浅薄で間違っているかもしれないが)。死と再生をくりかえす旅、それが「おくのほそ道」の旅なのだ。
この崇高で宗教的ともいえる『おくのほそ道』論に、多くの異論があってしかるべきだと思う。私としては俳諧研究者が、この中森論をスルーせずに、議論してもらいたいと思う。ただ、この論、というよりも中森さんの俳諧の論は、「哲学的な文学研究」というよりも、「文学研究のスキルを身につけた哲学研究」といった方が相応しいので、文学研究の手法で論戦するのは難しいのかもしれない。いっぽうで現今の「文学研究」は、何らかの意味で、「文学研究」の枠を超えようとする動きが活発でもある。中森さんは自身の挑戦を、芭蕉に見たのかもしれない。ここに紹介した中森さんの論文は、哲学研究であり、生き方の論でもあるからである。
2026年05月08日
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