2025年09月06日

トラウツ・コレクション

 Harald Meyer, Reinhard Zöllner編『トラウツ・コレクション』(2019)のご紹介をさせていただきます。
 先日、ドイツのボン大学日本学科の図書館に所蔵されている、トラウツ・コレクションの和本を見る機会を得ました。教授のマイヤー先生と、司書のランパルトさんの大変なご厚意で、充実した時間を過ごすことが出来ました。フリードリヒ・マックス・トラウツ(1877-1952)は、日本ではそれほど知られていない人かも知れませんが、彼の日本研究と、彼の残したコレクションは大変価値のあるものです。今回、私もそのことを初めて知りました。和本だけではなく、明治初期の日本・韓国・中国を知る写真や絵葉書など、すばらしいアーカイブとなっています。2019年にボン大学博物館で開かれた「トラウツ・コレクションー日本研究者フリードリヒ・M・トラウツが遺した視覚資料ー』の図録+論考にあたるのがこの本です。マイヤー先生にいただきました。
詳細な目次などは、こちらをご参照下さい。
 いくつか紹介されているコレクションの一部の画像は、きわめて興味深いものばかりですが、とりわけ20世紀初期の写真の数々、そして、1936年、トラウツが日独友好記念に沖縄の小学生から受け取った葉書は、とくに印象的です。これらのコレクションは、未亡人のヒルダ婦人のご尽力によって整理され、大部分がボン大学日本学科へと寄贈されました。
 それぞれの論考には日本語訳も付されているので、苦労なく読むことができるのですが、大変読み応えのあるものばかりです。シーボルトの『日本』の出版にも尽力したトラウツのことは、もっと知られてよいでしょう。

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2025年08月24日

藤原定家と式子内親王

 拙著を批評していただきながら、いただいたご本の感想を、このブログではまだ書いてなかったですね。天野聡一『藤原定家と式子内親王:恋物語の生成と展開』(新典社、2025年5月)。授業から生まれたという、恋物語の生成と展開の諸論である。初出をみると、2019年から2024年にかけて、立て続けに執筆された13本の論考に、書き下ろし3編を加えたものだ。2021年ころだろうか、続々とこのシリーズを発表するのを見て、「おやあ、これは新書にでもするのかな?」と思ったが、ご本人も当初はそういうスタイルを考えていたようだ。しかし、結局は新典社の研究叢書の1冊となった。
 本書では、まず第一章で「史実の二人」をとりあげる。伝承と物語の生成を叙述する前の手続きとして当然であろう。とはいえ、専門と時代の違う超有名歌人の事実関係を論じるのは、そう簡単ではなかったはずだ。この部分はしかし、一書にまとめるにはどうしても必要な手続き。書き下ろしである。分厚い研究史に臆することなく立ち向かい、まとめ上げている。
 二人の恋物語が生成したきっかけは、式子の詠んだ恋歌「生きてよも明日まで人もつらからじこの夕暮れを訪はば訪へかし」であるという。おそらくは題詠だが、実に切迫感のある歌である。背景に式子の恋があると人々が想像してもおかしくはない。それが「身分違いの禁じられた恋」であれば、劇的である。
 そこで本書には、謡曲「定家」にはじまる、数々の、定家と式子内親王の恋物語の演劇が紹介され、考察の対象となる。近世文学研究者である天野氏が、中世文学研究者が手を付けなかった、浄瑠璃・歌舞伎における定家・式子を取り上げることで、本書は類を見ない研究書となった。それにしても、中世文学・和歌文学・説話文学という論客ひしめく分野を横断し、近世演劇というマニアだらけの恐ろしい領域に踏み込むのに躊躇しない勇気には、感銘を受ける。そしてわずか四、五年で、ここまで多産する筆力。そこは、やはり神戸大学出身ならではか。
 一連の研究の最初の論考と思われる第八章「振られる定家」。最初にいきなり「その顔で?」の小見出しが来てるのがいい。別人の話が、定家と式子の話に置き換えられて、尾ひれがついて展開する経緯が丁寧に説明される。尾ひれの部分、これは確かに「近世文学」である。恋があったかどうか、それを追うのも面白いが、どんどん話が拡がり、時に笑話となり、時にファンタジーになるところこそ、面白い。
 「身分違いの禁じられた恋」の幻想、実在した有名な男女、ぎりぎりの気持ちを見事に歌いあげた名歌の組み合わせが、これだけの物語群を生成したのは、もしかすると希有な光景かもしれないが、そこに着眼しえたのは、流石である。あとがきに、天野さんがキャンパスでテイカカズラを見つけたということが、本書誕生の一契機であったと書かれていて、それはもはや「物語」でしょう!と突っ込みたくなった。しかし、研究というのは、そういうところがあるものなのだ。荒木浩さんのいう「研究はシンクロニシティ」である。
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天野聡一さんによる拙著『仮名読物史の十八世紀』書評

 拙著『仮名読物史の十八世紀』(ぺりかん社、2024年11月)についての書評を、天野聡一氏が書いて下さった。『日本文学』2025年8月号。2ページだが、単なる紹介にとどまらず、問題点や課題を的確に指摘したもので、著者にとっては大変ありがたい書評である。この場を借りて感謝申し上げる。
 私がとくに、嬉しく思ったのは、次のくだりである。

  飯倉氏の狙いは、十八世紀に起こった諸ジャンルの変容、混淆、生成といった大きな文化史的展開を、個別の作者・作品や特定のジャンルを越え、可能な限り広い視座のもとで実相的に捉え直そうというところにあろう。このあたりの問題意識は、アプローチこそ異なるものの、氏と同年生まれで出版・流通研究の第一人者である鈴木俊幸氏と重なる。

 敬愛する畏友である鈴木さんと「問題意識が重なる」との見立ては想像もしていなかったが、率直に嬉しい。
 また、私の「奇談」について、@現在通用の珍しい話という意味での「奇談」A書籍目録上の「奇談」B仮想的領域として再定義された「奇談」の三つを区別して読者は読み進めなければならない、という。私自身が整理すべきことを、鮮やかに整理してくださった上に、Bの奇談を「いくつもの流れを引き込んで湿地や湖を形成し、やがてそこから新しい溢れ出させる「窪地」の如くである」と見立ててくださった。あー、これ拙著にそのまま使えばよかったという見事な喩えであり、やや複雑で抽象的な拙著の「奇談」概念をを深く理解してくださっている証しでもある。

 ただ、拙著を読み込むだけではなく、貴重な指摘もある。『怪談とのゐ袋』論に関わって、新美哲彦氏の秀吉と源氏物語についての論文があることの指摘(初出時には出ていないとはいえ見逃していた)、『新斎夜語』の作者三橋成烈は江戸冷泉派歌人の武士、ならば江戸冷泉派の言説の中に彼の〈学説寓言〉を置いてみるべきではないかという提案(具体的に石野広道を挙げている)、第四部に関わって「十八世紀半ば以降の朝廷による知の管理の弛緩」はないか、それに関わる参考文献のご教示まで、短い紙幅にありがたい情報が詰め込まれている。

 他の方からも拙著へのさまざまなご教示、ご感想を個人的に手紙やメールで賜っているが、天野氏の批評は独自であり、氏が堂上歌壇を含む和学と和文小説を往還する仕事をされているからこそであろう。本当にありがたい書評であった。
 
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2025年08月21日

理論と実証

 8月19日、ハイデルベルク大学のユディット・アロカイ先生のプロジェクト”Poetry as Political Ritual: The Role of Poetry and Poetic Institutions in the Restoration ofImperial Power”がの第2回ワークショップ”RitualText to Sound: Poetry and Performance”がハイブリッドで行われた。タイトルから想像つかないかもしれないが、江戸後期から明治(1780-1900)における、政治的儀礼としての詩歌:皇国復権における詩歌とその制度の役割を検討するもので、日本文学研究者が集まっている。私もこのプロジェクトに参加させていただいている。
 今回は、パフォーマンスがテーマということで、具体的なパフォーマンスの紹介や、理論的なアプローチによる発表・討議が計7本あり、なんと7時間30分にわたる長丁場だったが、面白くて時間を忘れるくらいだった。具体的なパフォーマンスとしては、歌会始・詩吟・席画・宮廷歌会・詩歌応答などが取り上げられた。個々の発表についても、実にスリリングな議論が展開されたが、最終討論が実に面白かった。
 そもそも「パフォーマンス」という切り口はどうなのか、さらには文学研究における理論的アプローチについて、またその派生的問題として近世文学研究では絶対的ともいえる「時代に即した文芸理解」の功罪についての議論である。
 この議論、2022年の春の近世文学会の70周年記念シンポジウムで、理論と実証をめぐって盛り上がった議論を髣髴とさせた。リンクをご参照いただきたい。その際の議論の主役のひとりでもある山本嘉孝さん(イェール大学)も今回参加されたものの、アメリカからのオンライン参加で、時差とご本人の重要用務のため、一部参加となり、討論の際にはおられなかった。ただ、その山本さんの「実証」重視の主張のことが話題になったが、「そもそも山本さんはハーバードでフランス文学を学んだ人であり、生半可な日本の理論家よりも理論は知っていますよ。その上での実証主義主張であることを知らねばならない」という合山林太郎さんの指摘があり、「そうだよなあ」と改めて認識したところである。「時代に即する表現理解」が、海外の研究者を疎外する可能性などの問題点、「理論(切り口)」を使ってはじめて見える側面という話も出た。なにより、議論が有機的に機能して、非常に勉強になるという素晴らしい展開になった。若い方も積極的に発言してくれたのがすばらしかった。
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2025年08月15日

日本古典書誌学論

 佐々木孝浩さんの『新訂版 日本古典書誌学論』(文学通信、2025年5月)は、「古典研究必携 名著の新訂版」と帯に謳っているが、本当に「必携」であり、「必読」である。私は、師の中野三敏先生から、江戸時代の版本を扱う際の「板本書誌学」を学んだが、写本の書誌学は体系的に学んだことはなく、耳学問や本で学ぶばかりで、師についたことはない。もちろん、いわゆる書誌学入門の本はたくさんあって、それは本書にも挙げられているところであるが、やはり本書こそ、現時点でもっとも参照すべき、かつわかりやすい入門書兼専門書と言える。おそらく佐々木さんの立場は、書誌学は「文学研究の補助」ではなく、「文学研究の前提」であるという考えである。つまり書誌学を無視・軽視して、本文研究や成立研究、作者(書写者)研究は成り立たない。それは、本書でいえば、大島本源氏物語の議論に当てはまる。誰も疑わなかった「優れた本文」の大島本に、書誌学的観点から異を唱えた佐々木さんの研究は、多くの源氏研究者にとって「困ったこと」だっただろう。それは、百人一首非定家撰者説と似たようなところがある。私は門外漢ではあるが、佐々木さんの研究を「あくまで書誌学だから、文学研究に立ち入るべきではない」という考え方で軽視することだけは間違っていると、主張したい。
 さて、この佐々木さんの本の、すくなくとも序編・第一編だけは、全ての日本古典研究者必読ではないだろうか。ここから私は一切具体的な内容に触れないけれど、読んで確かめて下さい。本書が本体3200円なんて信じられない安さなので、できれば買って確かめて下さい。 
 まず、すこぶる読みやすい、そしてわかりやすい。たとえば書物の定義。わかったようでいて、即答できないのではないか。今後は佐々木さんの定義を用いればよい。そして書誌学の本だからといって淡々と無機質に説明されていると思われる方もいるかもしれないが、叙述はスリリングで、読み物としても面白い。事柄の輪郭をしっかりと象るので、私のぼんやりとした知識が解像度を高めていく愉しみがある。そして圧倒的な知見に基づく、適切で豊富な例示が説得力を高める。いたるところで、新しい知識が得られるだろう。さらに研究書として重要なのは、先行研究への目配りが半端ないことだ。
 そういう意味で、叙述のお手本にもなる。もちろん、佐々木節というか佐々木張りというか、独特の言い回しもあって、それがまた味を出していると私は思う。斯道文庫に職を得たのは、文字通り「天職」だったのだろう。
 本書、ご紹介が遅れてしまった。遅れても、やはり紹介した方がいい本は、紹介していきます、今後とも。
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2025年08月13日

菱岡訳『椿説弓張月』

光文社新訳文庫の大型企画、馬琴の『椿説弓張月』の現代語訳全5巻の刊行が始まった。全5巻って、『カラマーゾフの兄弟』並みじゃん。まずは、第1巻、第2巻の2冊同時発売である。これは帯にあるように、「べらぼうに面白い」。夏休みの読書、電車移動のお供にお勧めする。絶対に読んで後悔しないと思う。
現代語訳を担当するのは、『大才子 小津久足』でサントリー学芸賞を受賞した菱岡憲司さん。小津久足や馬琴を研究する近世文学研究者であるが、知る人ぞ知る大読書家である。その読書の蓄積が、この現代語訳にきっと生きている。ちらっと読み始めると、やめられなくなる。2時間くらい確保できそうなら読んでみましょうか。
現代語訳ではあるが、きちんと注がつけられていて、読者を助ける。挟まれている栞には、登場人物の紹介が。これはいいアイデアである。
そして、特筆すべきなのが、全挿絵の収録。しかも画師は北斎だ。超一流の作者と画師のコラボ作品として、存分に味読しよう。
そして、毎巻、巻末につけられる解説。第1巻は、馬琴の生涯、第2巻は、馬琴の小説作法として有名な「稗史七法則」を解説しつつ、それを『椿説弓張月』に応用してみせる。
さらに、帯によれば、3巻を9月、4巻を11月、5巻を12月に刊行するというのだ。早いね、仕事が。「べらぼう」放映中に全部出そうって魂胆ですかい?
こりゃまたありがた山の寒がらす。解説にもありますが馬琴は蔦重の手代でしたからねえ。恩返し?


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2025年08月12日

国学の敗戦

 田中康二さんの久々の新刊『国学の敗戦』(ぺりかん社、2025年8月)が刊行された。奥付は8月15日。もちろん「終戦」記念日に合わせている。田中さんの研究は、本居宣長を見すえながらも、江戸派の村田春海から始まり、江戸派、そして本居宣長へと進み、宣長に関しての著書は多いが、まずは、中公新書の『本居宣長』につけばよい。しかし、宣長の研究から、さらに宣長学、宣長的なもの、国学、国学的なるものへと研究は拡がり、深まっていく。勢い、近代の宣長受容、戦前の思想と国学、さらには戦後へと、追究が続いてきた。
 よく、いわれる「戦争に利用された国学」。それって何だったのだろう?それを追究したのがこの本である。
 「国学的なるもの」は「国学」ではない。しかし「国学」は「国学的なるもの」と同一視され、その誤解は再生産されつづけている。序論で示されるこの問題意識を、各章で掘り下げていく。宣長や篤胤の言説の再検討と、その受容=誤解・誤読の歴史。近世文学の「時代に即して読む」方法は、実は近代の産物ではないのかという問題提起もある。田中さんは、「国学」と「国学的なるもの」とは違うと述べ、その観点から、近代以降、とくに戦前・戦後の「国学」言説を鋭く追究する。川田順、佐佐木信綱、戸坂潤、藤田徳太郎、村岡典嗣、保田與重郎らの言説が検討され、教科書への利用が明らかにされる。
 田中さんの国学愛あるいは国学研究愛を強く感じる一書である。
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2025年08月05日

上村松園・松篁・淳之の画業

 柏木加代子『磨く松園 視る松篁 誘(いざな)う淳之:上村三代の画業:京都画壇・京都芸大とともに』(大垣書店、2025年7月)。
柏木加代子先生はフランス文学研究者である。大阪大学のご出身で、同じくフランス文学研究者の柏木隆雄先生(大阪大学名誉教授)とは御夫婦である。柏木隆雄先生のご著書はこのブログでも何度も紹介させていただいたが、加代子先生の単著書ははじめてだと思う。先生は京都市立芸術大学で長い間教鞭をとられ、現在は名誉教授である。上村松園・松篁・淳之の三世代は、いずれも京都芸大(前身の学校を含める)と関係が深く、加代子先生は淳之氏とは同僚であった。そこで、この三代に画業を、一八八〇年の京都府画学校創立以来の京都芸大の歴史と重ね合わせて叙述したのがこの本である。
 三人のそれぞれの特徴を「磨く」「視る」「誘う」がよく表していると思った。
 日本画だけに日本古典文学とも関わりが深く、その点でも、非常に興味深く読ませていただいた。たとえば、明治20年代、日本画では歴史を主題とする歴史画が流行するが、江馬務が時代風俗画を描く目的で、この学校で風俗史を教えていて、松園の美人画の女性の髪型には、それが反映しているというくだりがあったり、松園と松篁が謡いを学んでいて、そのモチーフで描かれたものについての解説があったり、『雨月物語』の「夢応の鯉魚」に言及しての叙述があったり、非常に楽しい。サルトルやメルロ・ポンティの引用など、フランス文学研究者ならではの解説もある。加代子先生は、ジャポニズムに造詣が深くいらっしゃるので、西洋画との比較考察も非常に勉強になり、引用されている画家の絵を観たくなってしまうほどである。
 かつて、柏木先生ご夫妻のお手伝い(と言いながらご迷惑ばかりかけてしまったが)で、ニースの美術館に所蔵されている「北斎漫画」の調査に同行させていただいた。そのあとパリにも行き、先生方の人脈のおかげで、ルーブルやオルセー、ギメなどの学芸員の解説を聞きながらの鑑賞という夢のような時間を過ごさせていただいたことがある。「北斎漫画」の調査については加代子先生との共著で、京都芸大の紀要に発表させていただいたことも思い出されて感慨深い。
 それにしても、この三代、三人とも文化勲章を受章しているというのは、あまりにもすごい話であるが、画業への真摯な思い、画技だけではない教養と心の修養が並みではないこと、本書でよく理解できた。GxfCFTZa4AA3jlM.jpeg
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2025年06月28日

物語伝承論

兵藤裕己さんの『物語伝承論』(青土社、2025年7月)は、兵藤学のど真ん中の、声とテクストの文学史論である。
『源氏物語』と『平家物語』という二大物語を取り上げ、その正本が制作される経緯と、そこに作用した政治力学について考察することで、「日本」という国の枠組を考えることという、とてつもない構想。しかし、序説を読んで、非常に説得力ある構想だと確信できた。
 前近代の書かれたテクストが、その筆勢や書体から、書き手の身体性を表すということや、女手のテクストが、視覚的にも分節化されにくく、発話する声の呼吸と地続きの気分でつづられ読まれたという説に、膝を打った。写本の本文は、筆勢・書体・墨の色、文字の大きさ、紙質、装幀などなどを含めてこそ「テクスト」だというご主張にはもちろん賛成で、その立場から秋成自筆の作品を読む試みもやってきた。しかし、「身体性」という概念と結びつけたことがなかったので、驚きとともに、ストンと胸に落ちた。あたりまえのことだけど、言われてはじめて。さらには、その文字で書かれたテクストに、とくに仮名で書かれた女手には、書き手の「声の呼吸と地続きの気分」がつづられるというのだ。唸るしかない。
 以上は、序文のみを読んでのコメントで、もちろん本書のもつインパクトや可能性はこんなものではないはずである。帯には、こう書かれている。「第一人者がひもとく、誰もみたことのない文学史にして、文学論」。大げさでなく、その通りだろう。Gugo8KHWMAAcQmY.jpeg
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2025年06月17日

学会記(立教大学)

14日・15日に行われた日本近世文学会春季大会は、20年ぶりに立教大学で。初日は、延広真治先生の講演「三遊亭円朝没後百二十五年に寄せて」。円朝の人生に即して、味のある、いつまでも聴いていたいような語り口でのお話。会場は魅了されていました。大学内の食堂で行われた懇親会、渡辺憲司さんが冒頭のあいさつ。会場校担当だった20年前は、手妻の出し物があったと思い出話。そこで用意していた手品のアイテムをどっかに落っことされたようで。今回は、渡辺先生だけでなく、70代、80代のベテランのお顔を多く見て、嬉しかった。私の若い頃に、脂ののりきったこの先生方に鍛えられたので。渡辺先生と思い出話がはずんだが、私が初めての学会発表をするという前日の懇親会のあと(たしか大阪だったと思うが)、渡辺さん、木越治さん、揖斐高さん、藤江峰夫さんなど7名の方がこれから麻雀をするんだが、一人面子が足りないということで、誘われたことがあった。2時間くらいやっただろうか、翌日の発表の司会は、渡辺さんと木越さんだったので、2度目のベルをちょっと鳴らさないでくれた。そんなことが、30数年前にありました。懇親会では、いろいろな方とお話できたが、久しぶりに、(近世らしく)、あっという間に料理がなくなる展開であった。開催校のM谷さんによると、通常の学会の1.4倍の量を用意されていたようだったが。
翌日は5名の方の研究発表。質疑応答が最近10分になったので、この部分が聞き応えあるようになってきたが、今回もそうであった。とくに漢詩の発表についての質疑応答、面白かった。昼休みには江戸川乱歩邸を見学。本屋との打ち合わせをはじめ、様々な情報交換の出来た会であった。秋はまたまた京都。今度は京都駅近くのR大学である。すぐ前にケンブリッジでの国際研究集会もあるということで(こちらに多くの発表者がいるという嬉しい悲鳴の報告があった)、秋季大会の発表者のあつまりが心配されている。若手ベテラン問わず、応募しましょう。さて閉会後は、近々海をわたって新天地に転職するYさんの壮行会を少人数で行い、大いに盛り上がったのであった。
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2025年06月05日

日本文学史を編み直す〈中世編〉

 『季刊iichiko』166号(2025年4月)は「日本文学を編みなおす〈中世編〉」を特集し、鈴木貞美・兵藤裕己・荒木浩3氏が議論を交わす大型鼎談を巻頭に配している。この化物先生たちの、融通無碍・自由闊達な放談は、面白すぎで、読むのがもどかしいくらいで、先へ先へと読み進めていったのだが、あまりに内容が詰まっていて、かつ話題が広すぎて、よく理解できていないことに気づき、もう一度、少し頭を落ち着かせながら、はじめから読みなおした。
 この特集は、総論篇・古代篇の続きである。メンバーは鈴木氏をのぞいて入れ替わる。今回は、荒木浩さんの報告をもとに、討論する形。とはいえ、話題は古代から近代まで、そして言語学から哲学・歴史学・民俗学まで拡がり、そして諸外国の研究にも目配りし、自在に展開・転換して目がまわるくらいだ。私など、ほとんどの内容が、教えられることばかりなのだが、驚くべきことに、この鼎談に集まった人たちは、どんなトピックでも、どんな本の話、どんな研究者の話でも、ちゃんとついていくばかりか、時に異論を投げかける。談論風発とはこのことだろう。私のような凡庸な読者は、脳をフル回転させねば(させても)ついて行けないのだ。
 なにしろ、小さなポイントで70頁におよぶ長丁場。どこかで休憩をはさんでいるのか、2日にわたっているのか、また後日の補筆が半端ないのかはわからないが、国文系の雑誌なら、こんな長い鼎談はありえない。その中に、あまりにも多く詰め込まれた、独自の視点・定説への疑問・新たな展望・・・。それにしても「日本文学史を編みなおす」シリーズを統括して、全シリーズに参加しているらしい鈴木貞美氏の博引旁証には恐れ入谷の鬼子母神。正直言って、議論は、あっちこっちに飛ぶし、繰り返しもあるのだが、それだけ臨場感にあふれ、むしろそれが刺激的である。
 いくつか個人的に面白かった点について個別に発言・トピックを挙げる。発言は勝手にこちらでまとめます。箇条書き的に挙げておき、誤読をおそれて、感想は最低限。敬称略します。

〇時代区分にからめて、「説話文学」というジャンル概念はそもそも成り立つのか。(兵藤)
〇いま日本文学研究で一番活気があるのは、近世文学研究(兵藤)→え、そう見えますか?
〇近代は国民国家形成と定義される。近代化=西洋化ではない。明治維新は一面復古革命(鈴木)
〇古代は、首長が祭祀を束ねて国家をまとめていた時代(鈴木)
〇中世の始まりは長明、終わりは信長。長明の定命観は人間六十年、信長は人間五十年。(荒木)
〇心敬が『方丈記』に関心を持ったのは、世の災厄は複合だという視点。方丈記がなかったら平家物語は違う時代観で書かれたか(荒木)
〇壇の浦は異国へ続く場所(荒木)

荒木さんの特に最近の研究は、その著書のタイトルの一部に「対外観」「地球儀」と入っていることからわかるように、日本の外への着目が特徴で、そこに日本文学史の組み替えのヒントを見ているのだと思う。長明は草庵にいながらにして、インドへの視界があったと。

〇源氏物語が内在的に持っている影響力(荒木)
〇中世に、紫式部という作者が実体化、『源氏』は「作者の死」の反対で「作者の誕生」(荒木)
〇一条兼良によって、源氏物語の時間が発見される。年立。これはパラダイムチェンジ。(荒木)
〇心が明鏡であれば、いろいろなものが映るはず、つまり雑念があればあるほど悟りである。これが『徒然草』の「心にうつりゆくよしなしごと」を書くという散文の論理。(荒木)

〇ラテン語言語圏では世俗語革命が起こったが、漢文文化圏では、それぞれの地域での文体様式が進行。日本は、漢文書き下し・和文・和漢混交文、口語文という4つの文体が、江戸時代には走っていた。(鈴木)→これを鈴木氏は何度も強調。
〇歌物語には縁語は用いない(鈴木)
〇無常は未来観であり、一日で都が焼ける日本と、古代建築の基礎が残るイタリアでは無常の捉え方がまったく違う。(荒木)
〇後鳥羽院には安徳の怨霊を怖れる十分な理由があった(兵藤)
〇網野善彦の『異形の王権』はダメ。それへの批判として『後醍醐天皇』を書いた。宋学の影響を考えるべき(兵藤)
〇今昔物語に「仏法」と「世俗」の二つの世界があるのは法相宗の教学によることを原田信之氏が説いている(鈴木)

どうも、キリがない。どなたの発言ということができないが、
〇近代国家の成立と言語・文体の問題。
〇『河海抄』の画期性と室町幕府。
〇日本近代文学における文体の問題。
〇言語のプライバシーの問題。ここで、アンダーソンの『想像の共同体』が邦訳された際に、原文では『ハイドリオフィア』という本が、なんと『平家物語』に置き換わっていたということを荒木さんが紹介。
〇私小説・心境小説という呼称。
〇自由間接話法。最初に使ったのは清水好子さん(兵藤)

以上、ほんの一部です。日本文学史の編みなおしにとって、文体・海外・ジャンル・区分といったあたりについて、さまざまな意見が出されていた。多分メンバーが代われば、それはそれでまた違った展開になったのであろう。雑然としたメモに終始したが、私の能力ではまとめられない。そして、この鼎談では、特に鈴木氏の発言のところに、ときたまジャンプがあって、私の頭ではついていけないんだが、そこが逆にすごいなあと思わせる、あれは何なのだろう。







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2025年05月16日

大阪ことばの謎

金水敏さんの『大阪ことばの謎』(SB新書、2025年5月)が刊行されました。ほぼ一気に読めました。
大阪言葉とか大阪人気質、大阪人キャラに、私はこのところ興味を持っています。これは、私が研究している大阪生まれの秋成が、その晩年、京都に住んでいながら、自らを「浪花人」と称していることが多く、彼が大阪人としてのプライドやアイデンティティーの根拠をもって、京都で暮らしていたということに注目しているからです(拙稿「浪花人秋成」『雅俗』21号、2022年)。この本は、ことばのみならず、まさに大阪人気質やステレオタイプにも言及されているので、興味津々でした。
 そもそも、学士院会員でもいらっしゃる雲の上の学者の金水さん(と気安く呼んですんまへん)ですが、全くの同世代で、勿体なくも大阪大学退職も同時でして、その後もあたたかく接していただいております。これまでも、授業のヒントをいただいたり、とても助けていただいているのですが、私が、『上田秋成ー絆としての文芸』(大阪大学出版会、2012年)を書いている時に、秋成とその妻の会話を現代語訳する際に、大阪弁風にしたところがあり、大丈夫かどうか見ていただいたことがあるのです。とても助かりました。
 私は九州生まれとして、大阪人や大阪弁に接して25年目となり、エセ大阪弁くらいはなんとかしゃべれるかなという感じになってきましたが、それは実はテレビから得たところが大きいのです。というのも、大阪大学の中では、大阪弁が飛び交っているわけではなく、大阪人ばかりのコミュニティとかにも参加したことはなく、せいぜい買い物で対面販売の時とか、食堂で飯食ってるときの店員さんとかで耳にするくらいだからです。自分は「本当の大阪弁は知らない」と思い続けてきたのです。
 ところが、この本を読んでちょっと驚いたのは、「「ほんもの」の大阪弁というものは存在しない」と断言されているところです(101頁)。私も漠然と、「船場ことばこそ、真の大阪弁だ」と思っていた一人でした(根拠なし)が、大阪弁・関西弁については、「絶えず変容していくエネルギーこそがその活力の源である」ということなのです。大阪弁の歴史を扱った第4章は、私にとってとても面白かったです。
 第五章では、大阪人のステレオタイプ、関西弁キャラについて考察されており、役割語研究と関わりの深い章となっています。そこでは、冗談好き、けち、くいしんぼう、派手、好色、ど根性、やくざ等が上げられているのですが、〈一方で、近世の世話物浄瑠璃に出てくるのは柔弱なダメンズだよな〉と思っていたら、そのことにも触れられていました。侠的なキャラクターとして『夏祭浪花鑑』があげられていて、それはやくざキャラの先取りと見えるということです。秋成も、侠のキャラを自分の育った堂島の気質ととらえていて、そのモデルとして黒船忠右衛門を例示していますが、この人も先取りといえるのかもしれません。
 また方言を一種のコスプレとして使うという、「方言コスプレ」の話は面白いですね。私自身、無意識にそれやってますわ。なんやろな、そっちの方が話しやすいいうことがありますねん。
 あと213頁に「よういわんわ」の「よう」が「よく」の音便という説明がありますが、この「よういわん」は「えいはぬ」(言うことができない)という古語が変化したものという説明を聞いたことがあって、そうなのかと感心した記憶があるのですが、どっちなんでしょう?
 とまれ、いろいろなこと思い出させる本ですね。それにしても、ここ何十年か、つまり平成以降の、大阪弁の変容について、実に目配りよくデータを集めておられるのに感心した次第。なつかしいテレビ・ラジオの番組名にうなずきながら、ほんま、すごいわあとひとりごちていました。GqurmASW0AAWd4R.jpeg
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2025年05月15日

新訳 世間胸算用

 昨年12月に出た本の紹介。今頃になって済みません。中嶋隆さん訳注の『世間胸算用』(光文社古典新訳文庫)。言わずと知れた、大晦日一日の町人の悲哀滑稽を描いた西鶴の傑作。会話は関西弁(のステレオタイプ?)で訳されている。これは新訳ならではの新趣向、少し前に同じシリーズで田中貴子さんが噺家の文体で『好色五人女』を訳していたが、それとおなじくチャレンジングである。現代語訳ではあるが、西鶴らしいテンポのよい文章として、全編味わえました。
 これまで支配的だった「西鶴の鋭い(透徹した)現実認識・人間観の反映」などという読まれ方に対して、それはおかしいと若い頃から思い続けてきたという中嶋さんの西鶴作品論が、巻末にたっぷりと述べられていて、たいへん面白い。それをここで説明したり要約するのも野暮であるので、詳細は本書参照でお願いしたいが、「あとがき」にご自身の体験を書かれているように、悲惨な状況に置かれた自分が何か滑稽でおかしいと思う感性、それを持っている読者が共感するからこそ、西鶴はおかしく、面白い、とおっしゃっているのは、それこそ共感する。私もそういうところがあるのだが、近世文学研究者には、自分の失敗や悲惨話をネタに人をわらわかすタイプの人が割と多いのではないか?まあ、そういう人とは友達になれそう、って思うのだよね。
 さて、中嶋さんは、作品論として、いろいろ面白いことを言っておられるが、西鶴作品にみられる「空白のコンテクスト」の指摘は重要である。最後、あるいはそれからどうなったのか、が書かれていないことがあって、その作品解釈は人によって分かれる。たぶん、優れた読み物には、大抵そういうところがあって、秋成の『雨月物語』の各篇もそうで、「菊花の約」や「青頭巾」の多様な解釈は、まさに空白のコンテクストによってもたらされているのだ。もちろん、空白のコンテクストがあれば、名作になるという逆はただちには成立しない。しかし、優れた作品には、空白のコンテクストがある、という説は成立するのではないか?まあ、古代史が面白いのは、史料の空白が大きいからですよね。「空白のコンテクスト」をテーマに、さまざまな作品を読むシンポジウムとかやったら面白そう。一般読者も巻き込んで。だんだん、話が逸れてきたので、ここまでにしておこう。
 
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2025年05月11日

吉原の怪談

 コンパクトサイズ(四六版並製)で江戸の怪談を次々に出版する白澤社が、今度は『吉原の怪談』(2025年4月)を出した。高木元・植朗子・渡辺豪・広坂朋信各氏の共著。大河ドラマ「べらぼう」を横目に、蔦屋重三郎の手がけた怪談本の紹介ときた。もう少し詳しく言うと、本書は、前半と後半にわかれていて、前半は、「べらぼう」では高橋克実の演じる吉原の引手茶屋の主人駿河屋市右衛門が作者の『烟花清談』という吉原が舞台の怪談。安永五年刊の読本。蔦重が手がけていることから、蔦重をサポートしていた駿河屋の入銀本と見なされている。実際は、他の本から摂った話もあるようだが、元ネタのわからない話もあるという。安永五年といえば、上方では上田秋成の『雨月物語』が出版されている。安永五年というのは鳥山石燕の『画図百鬼夜行』も刊行されていて、香川雅信氏が妖怪革命と呼ぶ年にあたるが、これもまた安永五年なのね。注釈は高木さんが主として担当しているようだが、さすがに行き届いている。ちなみに大河ドラマではこの本出てきていなかったような。後半は、吉原を舞台にした怪談を諸書から集めたもの。まさしく吉原の怪談である。そして、なぜ、このような怪談が伝えられるのか、という問いにたった解説が当時の吉原の実態を抉りながら、考えさせられるものとなっている。
 
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2025年05月05日

演劇をめぐる八章

 近世演劇研究者の岩井眞實さんが、退休されたと聞いて「へえ!」と思った。まだまだお若いという印象が。とにかく彼の出すオーラは明るくポジティブ。そして軽快なのに、落ち着いている、独特の雰囲気だ。そんなに親しい付き合いをしているわけではない。岩井さんが福岡に着任されたころに、私も福岡に住んでいて、少しお付き合いがあった程度なのだが、実はとても(一方的に)私が好きな方なのだ。なぜ?と言われてもよくわからないのだが、同じような感覚になるような方が他にいないような気がする。岩井さんは、演劇をかなり本格的に演じる側の人でもある。イギリスにロンドンの演劇学校にも4週間ほど通ったこともあるようだ。一度、大阪で上演の機会があったときに、見に来ないかとお誘いを受けたのだが、何かの事情で行けなかったのは本当に残念であった。ただ、福岡女学院におつとめのころ、つかこうへい劇団の『熱海殺人事件』を大学で上演されたことがあって、私もこれ幸いと観劇したのだが、主役がまだ役者としてブレイクする前の阿部寛だった。今思えば貴重な機会で、感謝である。ある時は、岡山かどっかで、2日にわたる領域横断的な「時間」のシンポジウムをすることになって(大学ではなく財団の主催だったような)、なぜか私が登壇を頼まれたのか、それとも誰か紹介してくれと言われたのか、とにかく、日本文学研究者で登壇してくれる人を探さないといけない羽目になった。人選に悩みになやんで、はっと思いついたのが岩井さんだった。岩井さんは快諾してくれて、そのシンポジウムは本にもなったと思う。
 枕が長くなったが、岩井さんが最近出された『演劇をめぐる八章』(和泉書院、2025年3月)の第1章が、「時間」がテーマなのだ。やはり面白い。この本は「専門書でも、入門書・概説書でもない、その中間を走っている」というふれこみだが、とにかく本格的な演劇論なのに、軽く、しかし落ち着いている、岩井さんらしい本なのだ。コラムも面白い。コラム5の「エクステンドとアドバンス」。これはゲームだ。アドバンスは前に進める。エクステンドはいったん止めて説明をする。生徒A「私はサイクリングに出かけた」先生「アドバンス」生徒B「森の中を駆け抜けた」先生「森、エクステンド」生徒C[その森は東京ドームの十倍の広さがあるらしい」・・・・学術論文はアドバンスとエクステンドの繰り返し。叙事詩はアドバンス、叙情詩はエクステンド。ゲームによって、劇の構造を体感する。いや、この2頁のコラムだけでも、1000円払っていいと思った。さて、各章のテーマは、時間に続いて、自然、戦争、愛、旅、怪、金、笑い。個人的には6章の「怪」が勉強になった。コラムは7つ。全部面白い。岩井さんが演劇人だからなのか、とにかく読者に魅せる業を知っている。語りが巧いのだ。そして、読者は、岩井流演劇論の数々にうならされる。つまり演劇論としてもとても高度かつ、わかりやすいのである。
 
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2025年05月02日

小城鍋島文庫の古典籍たち

 中尾友香梨・白石良夫・二宮愛理編『小城鍋島文庫の典籍たち』(文学通信、2025年3月)。佐賀大学附属図書館所蔵の小城鍋島文庫の目録を作成し、その蔵書について共同研究する、小城鍋島文庫研究会の活動が12年となり、その間、本書を含めて3冊の単行本を刊行した。1冊目は『十帖源氏』、2冊目は『和学知辺草』の注釈的研究であり、今回はさまざまな古典籍についての報告集の趣である。「ほぼ毎月継続してきた例会」の輪講・注釈作業の成果というが、これは、非常に素晴らしいことで、12年で単行本3冊というのは、それだけでもすごいが、それ以外にも多くの翻刻、解題、目録、そしてデータベースがあり、共同研究として地道に、粘り強く、継続してきたことがわかる。
 第1章の二代藩主直能と、第2章の六代藩主直員の長男直嵩(病弱故に早逝)の文事についてはクローズアップ。いろいろと参考になりました。
 
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2025年05月01日

「蔦重版」の世界

 大河ドラマ「べらぼう」の考証者である鈴木俊幸さん。次々と蔦屋重三郎関係の本を出されていて、このブログでも紹介してきたが、NHK出版から出した新書がこの本『「蔦重版」の世界:江戸庶民は何に熱狂したか』(2025年2月)である。ドラマに出てくる本のことを知りたければ、この本が最適。蔦屋の業務拡大を、吉原→日本橋進出→全国戦略の三段階とし、それぞれの段階での主要な本を続々と紹介している。その中で、喜三二・京伝・歌麿・南畝・馬琴・・・と有名作家との交渉も、もちろん描かれる。細見・浄瑠璃稽古本・黄表紙・洒落本・狂歌本・往来物・・・・など、蔦屋の手がけた本を通して、江戸の本のジャンル紹介や読者論をも織り交ぜる。80点を優に超える「蔦屋版」を、わかりやすく解説。新書ながら、図版もたっぷり収録。
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2025年04月27日

『雨月物語』の刊記4ヶ月後の読者

一戸渉「儒医山本封山の読書と和歌と ー『読書室筆記』研究序説 」(『斯道文庫論集』59号、2025年3月)が、慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)で公開されている。これは上田秋成および『雨月物語』研究にとって、画期的とも言ってよい発見を含んでいるので、ここで紹介しておく。この論文は、タイトル通り山本封山の日記である『読書室筆記』の内容ーとくに読書記録と国学の学びを中心に紹介・考察したものである。
 とりわけ(前期)読本研究にとって重要なのは、秋成の『雨月物語』と伊丹椿園の『両剣奇遇』の読書記録があることである。刊行とほぼ同時期に、どんな読者が前期読本を読んだかが明らかになるのであり、これは画期的と言える。
 『雨月物語』が刊行されたのは、刊記によれば安永五年四月。『読書室筆記』の安永五年八月二十二日に、封山は『雨月物語』を読んだことを記している。刊記からわずか四ヶ月である。残念ながら感想は記されていないが、これはこれまでわかっている限り、最も早い『雨月物語』読書記録である。また安永七年十一月二十四日には、伊丹椿園の『両剣奇遇』を読んだことが書かれている。これは安永八年の刊記を持つ同書よりも早いが、一戸さんのいうように、刊記より以前に売り広められることは珍しくないので(今でも雑誌などで五月号を四月には発売するってことはよくある)、怪しむには足りないが、これまた刊行直後に読んでいるわけである。一戸さんによると、封山は、『雨月物語』読書以後、中国小説類にも興味を示し、『夷堅志』などには「奇怪多々」と珍しく感想を記していることから、『雨月物語』から中国小説への関心の道筋を想定している。これは従来の多くの研究者の想定とは逆なのだが、封山の読書記録は、このような道筋をたどった読書人の存在を明らかにしたわけである。
 なお、安永七年五月に、人を介して秋成の歌文が封山に送られたことも、『読書室筆記』からわかるということも一戸さんは指摘している。他にも真淵学に関わる読書歴など、本論文に教えられることは多いが、今回は秋成と『雨月物語』との関わりについてのみ触れた。論文はかなりの長文だが、興味のあるかたは、リンクから閲覧して下さい。
 
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2025年04月26日

『大学改革』(中公新書)

竹中亨著『大学改革』(中公新書、2024年11月)を読んだ。大学を退職した私がなんでそんな本を読んだか。竹中さんをよく知っているハイデルベルク大学の先生が偶々来日しておられて、教えてくださったのみならず、わざわざポケットマネーで買って私に下さったのである。いわゆる法人化以後の大学について、わかりやすく書いているし、ドイツとの違いもわかりやすいから、というのである。
 竹中さんは、大阪大学文学研究科の西洋史(ドイツ史)の教授でいらっしゃったが、大学改革支援・学位授与機構の教授に転任された。私と年齢が近いと思っていたが、奥付の著者紹介によれば一つ年上のようだ。あまりお話したことはなかったのだが、多分、転出される1年くらい前に、たまたま食堂で昼食を一緒にしていたときに、研究資料や情報の整理の話になり、竹中さんはスキャナーを使って整理をしているということで、そのノウハウを詳細に教えてくださったのみならず、私の研究室に来てみる?と誘って下さり、いろいろ具体的に伝受をしてくださったのだ。そのあまりの見事さは、感動ものだった。そして、私が真似できるものではなかった・・・。しばらくして、会った時に、「資料整理、進んでますか?」と聞かれて、「いや、それがいろいろ忙しくて」と言い訳したのだが、多分、この人だめだな、と見抜かれていたに違いない(笑)。
 そういうこともあって、この本を読むと、竹中さんの声が聞こえるようで、すらすらと読める。いや、そうではない。実は文章が明快で論理的なので、実に読みやすいのである。日本の大学法人化をグローバルな視点で大学史に位置づけるのは、さすが歴史家だと思う。
 日本の大学と文科省の間には相互不信があり、そのことが本来の法人化のあるべき姿とほど遠い現実を生んだという分析は、竹中さんが大学にも長く在籍していたからこそ説得力をもつ。大学は、古き良き「学者の共和国」から、公的サービス機関に変わっている。ここを認められなければ大学人としてやっていくことは不可能である。
 ところで、新書の副題に「自律するドイツ、つまずく日本」とあって、帯には日本とドイツが「明暗を分けた」としているが、本書を読むと、決してドイツの大学改革を持ち上げているわけではない。この副題と帯はちょっと誤解を与えかねない。日本の大学改革以後の状況が、世界の中では特異であることを示すのに、竹中さんがよく知っているドイツを例に挙げているに過ぎない。ドイツもまた試行錯誤しているし、大学教員は大変である。
 本書から「切り抜き」という批判覚悟で、2点あげておこう。
1ドイツの教授任用について
 内部任用の禁止。教授任用は必ず外部からに限るという原則。
 そもそも、空いたポストについて、それを引き続き埋められるかは参事会の承認が必要。
 選考主体はその都度組織される人事委員会で10名程度。人事は必ず国際公募。学外からも1、2名加わる。
 書類選考をへて数名に絞られた本選考では、面接・抱負の開陳・講演・模擬授業などを行う。
 最終候補リストの作成。推薦順位をつけて3名ほど。
 教授会・参事会で審議され、最終的には学長が判断。推薦された候補者全員が×なら人事は振り出しに。
 任用が確定するまでには、俸給・手当・研究室予算・秘書の数など折衝。
ちなみに有力大学の教授に招聘されるには、最低3冊の著書が必要。1冊は博士論文、次は教授資格論文で博士論文とは違うテーマで書かなければならない。3冊めは巨視的なテーマを扱った著書。それぞれ数百頁程度の専門書。
2 政府の大学管理の日独比較
 日本の場合はお馴染み、中期目標・中期計画。目標が達成されたかを事後チェック。
 ドイツの場合は目標管理方式という点は同じだが、業務協定という形になる(ドイツのみならずヨーロッパでは7カ国、ほかにもオーストラリア・カナダなど)。業務協定のありかたは、ゆるやか。数値目標は多くない。そして日本の「中期計画」にあたる取り組み方については不問。また総花的ではなく選択的。重点的なものを選んであげる。また成果検証もゆるやか。とはいえ、事業報告書は毎年、百頁くらいにわたって具体的に数値をあげつつ為される。その自律的な空気をつくる厳格な学内規律がある。ここは本書を実際に読んでいただきたい。
 いずれにせよ、日本の場合、研究教育の運営が大学の裁量に任されるという理念のもと行われた法人化によって、逆に大学の統制が強くなってしまったという状況が生まれているという指摘もある。
 大学に関心のある一般の人たち、あるいは我々大学に関わっている者も、実は大学の運営や文科省のやり方をあまり知らず、イメージで決めつけてしまっていることが往々にしてある。大学に対するさまざまな誤解もあるだろう。とりあえず、本書は大学改革の現状を知るための道しるべになる、奇をてらうところのない、読みやすく分かりやすい本である。
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2025年04月22日

山東京伝研究

有澤知世さんの『山東京伝研究ー考証・意匠・戯作』(ぺりかん社、2025年2月)は、たまたまであろうが、時宜を得た出版となった。もちろん大河ドラマ「べらぼう」のことである。京伝は、今後「べらぼう」でも重要な位置を占めるキャラクターとなるだろう。『山東京伝全集』を刊行中の出版社から出すのもよい選択である。そして表紙がよく出来ていて、本屋に平積みしたいと思わせるものがある。つまり京伝の肖像を大きく使っていて映える。ついでに言えば本体価格を5000円台に抑えたのは、科研出版助成もあるが、やはり一定の売り上げを期待されてのことあろう。
 私の先師の主著は『戯作研究』だった。それを意識しているか否かはわからないが、山東京伝を研究したから「山東京伝研究」だという、オーソドックな命名には矜持も感じられる。図書館から選書されやすい書名でもある。
 その切り口は副題に示されている。「考証」「意匠」「戯作」は、一見つながりが直ぐには感得できない。「あとがき」にも書かれているように、有澤さんは私の教え子であり、私も本書所収論文の初稿は、当然読んできたが、さて、これを一書にまとめる時には、どういう配列になるのか、どう一書としての体裁を整えるのかな、と思っていた。しかし、序文と結語がついたことで、一書として整ったと感じた。「雅俗にわたる営為を総合的に論じ、十九世紀の江戸という都市空間に生きた文化人・岩瀬醒の営為として、捉えなおす」(序)。それを京伝の新たな評価につなげたいというこことである。
 それが鮮やかに示された、と絶賛するには元指導教員として若干の躊躇いもあるが、三十代半ば(著者紹介に生年が書いているのでこれ書いてもいいよね?)で、これだけの本数の論文を書き、これをまとめて一定の「新たな京伝像」を提起したのは、大いに評価できる。
 「営為」という点に帰趨する研究は、戯作研究の場合結構重要だろう。伝記ではなく、論文集でそれをやることが、戯作者を代表する京伝を対象とするからこそ意義を持ってくる。そこは試行錯誤の苦しみが反映してもいる。そして国文研で研究者と実作者とをむすぶ「ないじぇる」という仕事を経験したことが、活かされていることを感じる。
 京伝について、私は洒落本『傾城買四十八手』を学生の頃読んで、なんという素晴らしい男女の会話のやりとりの描写だろうと思った。一種の類型を描いているのに、リアリティがものすごい。今の学生が読んでも、この作品にはぐっと入り込めるようなのだ。さらに黄表紙『御存商売物』の知的な面白さに痺れた。京伝を研究している人は、様々な作品を入口にして京伝に魅せられ、京伝研究をやりはじめるのだろうが、この面白さ、趣向の卓抜さは天才としか言えず、研究対象として近づけないな、というのが私の素朴な京伝観である。私のような、センスなしにはとても手が出ないなと思ったものだ。だから、京伝研究者は結構プレッシャーを感じつつ、京伝を読んでいるのだろうな、と勝手に想像するのである。
 本書が、晩年の京伝の営為を、歴史的(文化史的)に位置づけることを目指しているとすれば、その文脈についての知見をさらに深めるとともに、京伝の文事とは結局なんだったのか、その評価を意識して、次の段階へと進んでほしい。
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